新たに「ふるさと讃歌」を追加した。「ふるさと」の風景・風習、イベント、伝統・芸能などを深堀りし、視点を変えながら見直ししたい。記載にあたっては、編者の知らない所もあり、流行の「AI機能」にも頼っていくことになる。

〇田の神講 2024.2.26(月) 【田の神講は、伝統・記憶を未来につなぐ農村の灯火】

 

先日、私の集落の「田の神講」があった。私たちの田の神様は、田んぼの全景を見渡すように北東の一角に鎮座している。石像は明和21765)年に造立されており、それ以前も生活の基盤である稲作・神への感謝はあったと思われ、造立された江戸時代中期頃(260年前)より田の神講が盛んに行われるようになったと解釈している

 

春、山の神が里に降りて田の神になって田を見守り、秋になると山に戻って山の神になると伝えられている。春は耕作の始まる2月(旧暦)の丑の日に豊作を祈願し、秋は収穫後の10月の亥の日か丑の日に感謝を表すために行ったとされる(現在は、新暦の2月、10月の良き日)

 

宮之城町史では、田の神は農民の知恵で作られ、田の神様の前で酒をのんでも見締りの役人も「祭り」ということで見逃したという見方も伝えている。私的には、稲作には日照りや風水害などの災害も多く、豊穣を神に願い、祈ることは自然な流れであることと、支配者の年貢の増収、安定化、農民のモチベーション向上策もあって上意下達な面もあったのではと考える

 

講はグループ内で、座元を持ち回りして運営されている。現在も、煮しめを作り“藁っど(わらっど)“に入れお神酒と共に田の神に供えて祭り、待ち受けていた子供たちに配られていた(現在は少子化の影響で行わない)。この儀式が「田の神様祭り」と言える

 

その夜は、座元で酒席が設けられ賑やかになる。昔と比べて常日頃の接触が少なくなり、皆が集って顔を会わせ話をすることは楽しみであり貴重な場である。私は、田の神講を通じて地域とのつながりを強く感じている。私たちの講では、座元が仏像を持ち回っている。

 

農耕には牛馬が使われるようになり、牛馬への感謝と丑の日に行われていたこともあり、ある時代から「馬頭観音」になったと思われる。この像の存在は大きい。隠れ念仏の小型だったのかも知れない。何故なら、他の田の神は西方のご浄土を向いているのである。皆が、まず像に酒を汲み供え、豊作と感謝の礼を捧げて着席する。そこから世間話がスタートし、座を崩して議論も交えながら焼酎を注ぎ合いながら思いの内を語り合っている。この酒席が「田の神講」の本領だと思う

 

私の講は、先祖代々の家で構成され、皆が農業を生業にしていた。現在は、兼業者増と農業専業者減が進んでいるが、この日は、代代わりしても老若が一堂に会して親交を深めている。また、年齢や仕事上リタイアすることも出てくるが、専業者が耕作を請負い放棄地は皆無である。ただ、稲作のみでなく、多角化や後継者不足は否めなくなってきている

 

私の幼い頃は、家内(やうち:親族)で田植えや稲刈りを共同で行い、子供たちも刈りだされ助け合っていた時代であった。この慣習は地域住民のコミュニティ形成にも重要な役割を果たしていたと思う。この伝統・習慣は少し変わってきている面はあるが、農村文化の継承や地域コミュニティの活性化に貢献している。我は歳をとり、病気も持っているが長く続けたいと思っている。

 

〇霊峰・紫尾山の日の出 2024.1.8(月)

 

幼い頃、私は幼馴染みと初めて紫尾山に登った。その時は、歩いて2時間程かけて登ったと思う。現在は車で頂上まで昇ることができるが、便利になった分、「神性」を感じることができない。やはり一歩ずつ紫尾の山を踏みしめてこそ、頂きに達した時に感動が生まれるのだろう

 

このような何か物足りない気持ちを思い出し、数年前、「日の出」を撮影するべく登った。満足のいく写真はなかなか撮れないものだ。時間、方角を事前調査して眺望が天気に左右され、何回ものチャレンジと断念の繰り返しだった。ある日、元旦の数日後、初日の出ではなかったが絶好の天気に恵まれた

 

この日は、89合目を過ぎても霧や雲のない天気に恵まれ、まさしく霊峰紫尾山が歓迎しているように思えた。この山は、北薩摩一帯の最高峰であり、標高は1067mあり古来より神聖な場所として崇められてきた。山頂からのパノラマは、薩摩地方のほぼ全域が見渡せる。ここで日の出を見ることができれば、一生の思い出になるだろうと思った

 

夜明け前に山頂に着き準備を整えても、まだ暗い空に星が輝いていた。周囲は、雲海に覆われており、まるで天空にいるような感覚だった。遠くには、天孫降臨の地・高千穂の峰が望める。その右側には、活火山・桜島を見渡せる。地上では、見ることができない遠い山々であるが、天空ではすぐ手が届きそうな位置に見える。天空では空気がきれいなことだろうか、何と近いのだろう。そして、高千穂の右側から日が昇るはずである

 

しばらく待っていると、空が少しずつ明るくなってきた。青く紫色に染まった空に、雲が浮かんでいた。やがて、高千穂の峰の向こうから、金色の光が差し込んできた。それは、まるで神の成すことのようだった。雲は、黄金に輝き始めた。そして、ついに、太陽の一部が姿を現した。オレンジ色の光が、雲海を照らした。空は、金色から紫色、そして黒色と美しいグラデーションを見せた。それは、まさに神々しい光景だ。自然の美に圧倒された。私は、思わずカメラを構えて、シャッターを切った。この瞬間を、永遠に記録に残したかった

 

この天空のドラマは、古来より毎日展開されたことなのだ。自然の美しさ、古人も聖人も見たであろうこの光景から、自然への畏敬の念が芽生え宗教の地となったこともうかがえる。私の故郷、八幡神社の方角から陽を刺し、全体をあまねく照らし雲海を消え去っていく。この日の出は、私にとって忘れられないものになった。新しい年を迎え、私は心に決意をした。定年を迎え、自分の個性、夢に向かって一歩ずつ進むということだった。そして、自分の周りの人々と交流を拡大し、感謝し、助け合うということだった

 

今年(2024年)は、正月早々に能登地方での大地震や津波、羽田空港での旅客機の衝突など、多大な災害や不幸な事故が発生した。それらによって、多くの人々が亡くなったり、苦しんだりしている。私は、彼らに心から哀悼の意を表し、早く復興できることを祈った

不幸な中で、TV放送で女性アナウンサーの鬼気迫る迫力あるアナウンス、旅客機でのCAをはじめとしたスタッフにより犠牲者セロをだしている働きはに私は感動した
私は、これらの困難に負けないで、立ち上がることができると信じる。そして、この日の出が、私たちに希望の光をもたらすことを願った

〇川原の賑わい 2023.11.20(月)

 

図は「宮之城領主館に上納米納入の図」(薩摩川内市歴史資料館蔵のものを模写したもの)で、江戸時代の終わりの頃と作と思われる

 

宮之城の川原(轟之瀬下流)での船便の賑わいや茶屋、相撲の様子が記されている。この川原が伊佐(大口)や金山に繋がる街道であり、滑(なめ)りと言われる石畳上の浅瀬を通る道であった

 

図は実際のものととは異なる所もある。例えば、領主館や神社(松尾神社)、轟之瀬の地形などは図のようではなく、絵の構成上デフォルメしたのであろう


しかし、轟之瀬を掘削して新たな「新川」を作って以来、伊佐米は舟で運べるようになり、茶屋が繁盛したことや相撲の様子が見て取れる(川原相撲は、水神様に奉納したのが始まりで最盛期は、東京大相撲の力士も誕生したようである)
歴史上、伝わっている事がこのように視覚的にわかることは貴重である

 

話を本題に戻す。江戸時代、農民たちは年貢という形で米を上納していた。その重さは、彼らの生活を大いに圧迫していた。田畑から稲を刈り取り、一粒一粒を丹精込めて育て上げた米。それは全て領主のものであり、手元に残るのはわずか。その重さは、ただ米を運ぶだけでなく、彼らの心にも大きな重荷となっていただろう

 

薩摩藩は、他藩より税率が高く、主食は粟、小麦、イモなどで、衣食住ともに最低限とも言える生活を強いられた。夫役と称する労務提供もあり、一カ月に三十五日あったと言われるほど過酷なものと言われた
農民生活を、「生存はあったが生活はなかった」などと評される現代の書物もある。人生の楽しみ、生き甲斐、喜びはいったい何だったんだろう!と思ってしまう

 

「また一年、頑張ったのに……」と農民は嘆き、苦しんた。繰り返される終わりに見えない労苦。しかし、彼らは耐え忍び、生き抜いた。それは、彼らがこの土地と共に生きるという強い意志から来るものであろうか?

そして今、私たちはその歴史を振り返り、彼らの努力と犠牲に敬意を表したい。彼らの苦労があったからこそ、私たちは今の生活を送ることができているからだ

 

江戸時代の農民たちの悲哀と苦労を思い起こすことで、私たちは現代社会の豊かさをより深く理解することができる。そして、私たちは彼らの経験から学び、未来へとつなげていくことが大切なことを思い起こす

 

〇アオバズク 2023.11.6(月)

 

毎年、盈進小学校の校庭にある楠木に巣を作るアオバズク。その姿は、まるで自然の一部であり、季節の訪れを告げるようにこの地を訪れる。今年の鳥は昨年ここで育ったアオバズクなのであろうか

 

これは、人が生まれ育った場所である故郷への郷愁、懐かしさによる帰還、帰巣本能であろうか?

 

親鳥は、文字通り木に上に立って見守る存在で、巣の中のヒナ鳥をじっと見つめ、ピクリとも動かない。長く観察すると、存在を消しながらも外敵から守っている

 

ヒナ鳥の時は非常に愛くるしく可愛いが、成長は極めて速い。一か月くらいで飛ぶ練習をし、眼つきも鋭く獰猛でさえある。飛ぶ距離も少しずつ増え、枝の上で羽根を開き羽ばたく姿はまさに猛禽の様相を呈する

その姿はまるで我々人間に教訓を与えているかのようだ。親が子を見守り、子が成長し、やがて自立し猛禽となり飛び立つ。それは人間社会でも同じだ

 

その姿は、小学校で人生ドラマの生態が展開されることに意義がある。それは、「見守ること」、「育てること」、「自立すること」の大切さである

そして、その教訓は盈進小学校の児童たちにも伝わっているだろう。彼らはアオバズクの生態を通じて、自然と共生すること、生命の尊さを学ぶ。それは彼らが社会に出ていくための大切な一歩となる

 

アオバズクの親鳥とヒナ鳥の姿から学ぶことは多い。それは自然が我々に与えてくれる大切な教訓であり、私たちが未来へと繋げていくべき価値あるメッセージである

〇国体少年ラグビー試合 2023.10.30(月)

 

鹿児島国体の少年男子ラグビー大会がさつま町のかぐや姫グラウンドで行われた。少年男子とは高校生中心の年齢層であり、各県代表トップクラス16チームの試合である。最終的に優勝したのは佐賀県、鹿児島県は1回戦で敗れた。

 

日本代表のブレイブ・ブロッサムチームよりはパワー、スピードなどの身体的能力や技量も未熟なのであろうが、青少年の闘志あふれる一生懸命な試合ぶりは高齢の自分にとって非常に新鮮さ、力強さが伝わり感銘を受けた。そして、地元のみならず他県からも応援者、観覧者が多くファンが多かった

 

ラグビーは、力強さと繊細さが交錯するスポーツであり、その魅力は無限だ。試合は、巨漢の選手たちが肉弾戦を繰り広げる様子から始まる。彼らの体は少年ながらも鋼のように頑丈で、一見するとただの力任せの戦いのように見えるが、実際にはより高度な戦術と緻密な計算を目指している。

 

選手たちは、相手の弱点を突くためにスピードとパワーを駆使する。しかし、それだけでは試合を制することはできない。戦術的な観点から、ラグビーは将棋やチェスのようなゲームに似ている。各選手が特定の役割を果たし、全員が一丸となってゴールを目指す。その結果、見事なトライが生まれる瞬間は、観客を感動の渦に巻き込む。

 

また、ラグビーには男らしさや勇猛さを求められ、それ以上に重要なのはチームワークとリスペクトでもある。選手たちは互いに尊重し合い、フェアプレーを最優先するいわゆる紳士たることが求められる。試合後の選手たちが互いに握手を交わす姿は、スポーツマンシップの象徴であり観客に深い感銘を与えた。

 

ラグビーは単なるスポーツ以上のものと言える。それは力とスピード、戦術と技術、そして感動とリスペクトが融合した壮大な舞台である。それぞれの試合は一つの物語であり、その結末は常に予測不可能である。だからこそ、私たちはラグビーの虜になるのだろう。