◆水神様祭り 2021.5.14(金)

私の集落で「水神様祭り」が行われた。これは昭和341959)年に数十世帯で「山水道」を引いたことを受け継ぐ作業と祭りである。当時私は小学23年生であるが、父たちが手作業で水道配管を敷設したのを見ている。1km程離れた小高い山(ここは時吉城が築かれた所)の中腹付近(弓場ケ迫)に水源地が設置された。今考えると、各所に湧き水があり、防水槽も作れるくらい水は豊富な地区であり、ここなら比較的落差の取れるなところである

 

明治以降、各集落に23ヶ所の共同井戸が掘られ、水タンゴを両方に荷って自宅に汲んで帰り、水ガメ(ハンズ)に入れ柄杓(ひしゃく)で汲んで飲んでいた。風呂は“もらい風呂“が多かったという。3軒位が当番的に風呂を沸かし、昔の五右衛門風呂に二人ずつ焚口のツブロ(鋳物)を避けて入るもので、私も側面の金属部分には当たらないよう入った記憶がある

その後、井戸からポンプアップし台所につなぐ方式が定着したが高台やいくつかの地域で井戸水の枯渇が相次ぎ簡易水道の設置が要望され出した。便利さや必要に迫られ、この山水道が出来た訳である。そして昭和60年には現在の時吉地区簡易水道(町水)が設置された

 

この祭りは、25世帯で始めた「水道組合」で出資した「模合(もえ)」の一種でもある。現在、加入者が減り10世帯となっている。この水は農業用が主で飲料水としては殆ど使われていないが水質検査ではOKがでている。正五九の月に水源地の草刈り・清掃を行い、持ち回りで座元が移動し、3ケ月に1回の飲食と共に情報交換・語り合いの親交の場である。今回もコロナ禍の中、部屋を明けはだけ距離をとって行った。こんな場が少ない面もあって久しぶりに盛り上がった。水は山からの贈り物であり、豊かな湧き水に恵まれた昔を思いつつ、山神祭りに習って新暦ではあるが正五九月16日(今回は他の行事との重複のため先取り実施)に形を変えながらも行っている。希少だからこそ意義があるのだろう

◆氏神様祭り 2020.11.15(日)

私の家では「氏神様祭り」を毎年この日に行う。松木囿家3世帯の持ち回りで行っていたが、出郷や高齢化などにより一家、ニ家と減り、三世帯総出で行うのは絶えて久しい。今年は従弟夫婦が帰省したので久しぶりにニ家で且つ、祭主となって開催した。私の小さい頃から何となくやった記憶にはあるが、経緯は良く解らない。松木囿一族の祖先への感謝やこの地での安寧や繁栄を祈っての事だろうと思う。実は、他にもう一軒・松木囿家もあるが、そこは独立に同じ日に行っている。想像するに、藩政時代からの流れで、松木囿門の構成員であったか、古き時代の分家や姻戚関係のあった繋がりだろうと思う

1体の祠(氏神様だろう)と背の高い天然石は水神様(井戸の神だろう)、2体の神として祭った石である(小さいから子供を祭る像か?)。誰がどんな願い、信仰で始まったか親に聞いてもわからない。『鹿児島の歴史』によると、藩政時代より、農業の営みは天候に左右され生活上の不安もあった。農民は敬虔な気持ちで信仰や呪術を受け入れる。村には産土神、門氏神などがあり田の神祭りもある。家の中には高い所に母が大黒様やいくつかの仏像もしくは神像を飾り、拝んでいた。当時は、神官やカトクドン(加徳殿)やホシャドン(法者殿)、〇〇〇どん(托鉢の坊さん)などの方々が身近にいたし、良く大人の話にはでてきていたと思う

今年は私達夫婦、母、従弟夫婦5名参加した。神前に赤飯、米、塩、焼酎、甘酒を供え、注連縄や御幣を新しくし、私の従兄の息子である神官が祝詞をあげてくれた。氏神様の前での祈祷や災厄などの不浄を心身から取り除くお祓いをやった、と思う。その後、各家の4隅に米と塩をまき、儀式が終了した。この祭りについて、ご利益などうんぬんすることはしない。敬い感謝するための、その様な気持ちに帰る日でもある。若干の簡素化はあっても、存命であるなら祖先からの言い伝え、慣例行事はなくすことはしたくない

◆中秋の名月~令和2年(2020.10.1)

令和22020)年度の中秋の名月は101日(木)でした。コロナ禍の時期ですが十五夜どろぼうさんの子供たちがやってきました。小さなお子さんはお母さんが付き添い、バッグを背負った低学年生、仲間と一緒の男子たち、自転車の中学生、友達と一緒の女子中学生など大勢が来てくれました

 

私の小さい頃はお菓子もあったと思いますが、里芋や栗、イモ、団子がありました。お供えしてあることがとにかくうれしいでした。妻が菓子類を買いに行ったとき、スーパーではお菓子が少し少な目だったとのことです。いろいろな家庭で準備したと思われます。私宅では、お菓子を袋に包んで30個ほど準備しましたが完全にはけました

 

外で子供の声が聞こえてきます。こんばんは~と庭に入ってくるとこちらもうれしくなります。子供に失望させてはいけないとの思いがあります。丁度、満月の写真撮影をセットアップしていたので、別カメラで何組かの写真をとりました。とにかく素直な子供たちです。あちこちと動き回ったので結果的にあまり良い満月写真の出来ではありませんでしたが、いい夕べだったと満足しています。また来年も来てほしいと思います


◆焼酎談義(歴史) 2020.6.13

藩政時代(江戸時代)は、焼酎の製造は自由であったという(明治時代までは、後述の原料を基に自家製の焼酎を作って飲んでいたと思われる)。明治32年、自家用酒類禁止令が公布され税務、県当局は共同製造所の設置を認め、税金(1石に1円、<1石=1000升≒150kg>)を納めさせて人々の要望に応えたとある。各地に50石未満の醸造会社が続出し、明治36年、宮之城村には55戸の記録があるという。ある人の日記によると、「明治322月、焼酎製造方(がた)につき諸器具、器械検査のため、税務署員出張相成り書類等をしたため村長証明の上送付せり」(自分が書類を作り村長の承認を得て提出、との意味か?)とある。これ以外に、時吉、虎居、平川、山崎、湯田、田原、川原、佐志では個人で許可をとり、販売用に製造している

 

当時の原料は殆ど粟と米であった。甘藷原料の焼酎は本件独特のもので33年頃から南薩地方で製造され、本町では大正時代から製造された。いも焼酎は価格が本焼酎の65%内外で、甘味があり、酔いが翌朝まで残らない利点があったので一般に愛好された。現在(昭和49年の頃か?)は改良されて外来を相当量混入し、甘藷のくさ味を除去して製造するので風味もよく、県外の人にも愛好されるようになった

明治末期、県下の醸造場は4000戸を超え経営不安定のものが多く、県は整理統合と施設改善を推奨した。大正5年には、虎居・中村吉太郎、仲間猪之助、平川・軸屋権助、植園太次郎、屋地・小牧伊勢吉、佐志・外薗善吉となった。太平洋戦争中は製造割当石数が減少し、販売は配給制となった。入営・産業奨励用のほかは入手困難であった。戦後は更に不足したので価格が暴騰し、一升(1.8ℓ)760円(当時農地法買取価格10㌃当たり760円、畑448円)となった。そこで密造酒が流行した。誰も気づかない山中で製造したので山焼酎とも称した。現在の製造工場は次の通りである。昭和47年の製造者は右図の通り(宮之城町史より)

私は、昭和30年過ぎ頃、大人が飲んでいたのをよく覚えている。酒屋さんに買い物のお使いに行くと、仕事帰りらしき数人が、木製の椅子とテーブルを囲んでコップ酒を飲んでいた。仕事を終えての開放、おしゃべりと飲み方の楽しい一時だったと思う。この頃は「計り売り」だったのではないか。また、30年代後半の頃は、親父たちの飲み方はスゴかった。共同農作業の後は「懇親、親睦か反省会」の名目で開かれていたと思うが、酔い方は普通の理性をなくしていた

 

普通と酔っ払いモードは明らかに違うのです。酔っぱらって踊る・鴨居にぶら下がる・裸踊りする・歌う・大声で叫びながら道々を千鳥足で歩いていた。チョッ(盃)を口にくわえてタコみたいなひょっとこ踊りの人もいた。自分の家や人の家に寄ってまた飲み、長居をするのである。時には「やまいも掘り」もあり、大声をだすのである。正月や祝い事でも同じで、最後は「なんこ」をやっていた。気の合う友人など、人との親密感が深かったと思う。恐らくお湯で余り薄めず酔うのが目的だったのではないだろうか?。理性の「タガ」が外れるのだろうか?。本能丸出し?…イヤ少し違うと思う。貧しい、労働はきつい、娯楽はなく、浸れる暇もない、家族の大黒柱での責任等々、内に秘めた鬱屈などを発散できる場だったのだろう。皆との連帯感、楽しさ、生きて頑張る上での必須事項、気持ちが開放されて心底楽しめる場だったと想像する。今思うに、こういうのは楽しみのなかった藩政時代と同じではないかと想像する

 

大人になって他県の友人は鼻をつまみながら飲み、朝礼で隣の人は「プンプンクンクン」匂いを発散させていた。あの頃は匂いがきつかったと思う。今は進化し、洗練・スマート化し銘柄も多く好みの女性も多い。盃やコップを「ホラ!飲め」と言ってやり取りしながら、つい最近まで廻し飲みしおった。しかし、アルコール消毒ではあるがコロナで絶滅するかも?。山ん中でバレないように作って飲むとは何というエネルギー、執念だろう!GoodJobとは言えないが、よく頑張りましたね…。当時の匂いはどんなだったのだろう?しかし、いつの時代も人生の「彩り」とか「糧」ですね

◆鯉の話あれこれ 2020.5.8

少し時期を失してしまいましたが「鯉のぼり」にまつわる魚の話を少々…。轟の瀬の上流にある「水辺の楽校」に“鯉のぼり”を上げてあります。県外の方々が子供の健康と新型コロナウィルスの早期終息を願って上げたものです。特産品観光協会が行っており、自宅に上げることができない方に代わってここに上げましたが、さつま町出身の方々でしょうか?竹はもちろん町内産だそうです

 

鯉のぼりの由来は、そもそも中国の故事の中に、流れの激しい滝(竜門の滝)を登り切った鯉が竜となり、天に登った「登竜門」の伝説があります。また、鯉は清流だけでなく、沼でも池でも生きられる生命力の強い魚ということもあって男の子の行事になったようです。そう考えると、「轟の瀬」は滝のようだしピッタリではありませんか?

鯉のぼりの歌は、「屋根より高い鯉のぼり~」と「甍の波と雲の波~」があります。どちらも良いが、「屋根より高い鯉のぼり~」の後に続く「橘かおる、朝風に」がこの季節にもピッタリです(個人的に)。今後も続け、多くの鯉のぼりになって欲しいと思います

 

さて、鯉と魚の話で蛇足です。町史によると、宮之城橋(虎居橋)から川内川の主と言われる全長1.5m程ある大きな鯉(緋鯉)を見られたという。鉄砲で打っても当たらず、釣っても舟や人も数メートル引き回され針も伸びてしまったそうである。そして、数年後は姿を見せなくなったという。近年、新しい宮都大橋を作る際、潜水夫が桁の土台工事をする時、大きな魚を見たという話は聞いた。深い場所には生息しているのだろう

 


轟の瀬付近は良い漁場だったらしい。特に、のぼい子(稚鰻)を捕る絶好の場所であったので争いがあったようだ。この為、県の仲裁で、魚族保護の名目で轟の瀬の前後50mは禁漁区にしたとある。大正の末期頃という。漁協の入った当初、安全のため禁漁区かと思ったが、最近知った

 

実は私も8年程前、血合瀬にうなぎ筒を上げに行った時、畳半畳程はある黄色っぽい軟体の平べったい生物を見た。そして、水面下ギリギリの所を上流に動いて行った。思わず鳥肌が立ち後ずさりしながら杖かわりの棒で身構えた覚えがある。そして、すぐ退散した。今思うと、特大の「すっぽん」の可能性があるが、色が違うし夢がないので「UMA」と思っている

◆「穀雨」(4月19日)だ、芽が出たゾ! 2020.4.23

自粛ムードで経済・景気縮小の昨今、どこまで進むのだろう?。仕事をする人が休まずに頑張っていることが支えで、彼らにエールを送りたい。自分では何もできないが、やるべき目先のことをやった。自己防衛にもなる、春野菜作りだ。HPに上げることではないがご了承いただきたい。題材も少なく、余り外出できないのです。

 

最近、年のせいか昔の言い伝えが気になります。24節季で4月初めは「清明」です。安倍晴明ではなく、「万物が清新の気に満ちている時期で、各地に桜が咲き春たけなわの時期」です。4月19日の「穀雨」は「農作物、特に穀類を潤す雨が降る時期、麦は実がつき、稲は発芽する」恵みの雨、“慈雨”です。しかし、桜にとっては“酷雨”にもなる自然のサイクルです

例によってWeb情報によると、この時期の雨は「百殻春雨」とも呼ばれており、あらゆる穀物を潤し育てる恵の雨と考えられてきました。 作物を上手に育てるためには、この穀雨の前に種まきを終える必要があります。そのため昔は穀雨を目安としての作業の準備が行われます

 

昔は草木を育てるのは嫌いでした。花の名前も知らなかったのですが、50歳を過ぎる頃から興味が湧き、観葉植物に凝ったり、柿やブドウなど実のなる庭木を植えたり、小菜園で野菜を育てるようになりました。近所に花園を経営する方がおり、シクラメンやアジサイ、ガーベラは毎年写真撮りに行きます。野山の花も撮りますが、まじまじとよく見ると「綺麗」と思うようになってきたのです。以前は、目には入っていたが観ていなかったし心も動かなかったのです

 

私は図面を引いたり(設計)やコンピュータでの管理システム作りを長年やってきたので、「無機質」からの「生命物・有機物」への反動でしょうか?。魚取りにも興味があり、魚類と格闘をしているんです。

昨年は20種類程育て、今年は大好きなブロッコリ、トマト、レタスなど16種類ほど植えました。種と苗で植えます。母からの直伝ですが基本的に我流です。昨年は役場と農協が教える講座を受けました。生徒の皆さんは、「出荷」が主目的で質問などベテラン振りにびっくりします

 

私の基本的態度は「自産自消」です。妻は、買った方が安い、多すぎる等クレームが来ますが、出来ただけで他の方にお裾分けします。そして、芽が出てきています。生命力、生長力はすごいですね!

◆焼酎文化 「さつまdeまちゼミ お湯割りマイスター講座」 2020.3.8(日)

このゼミは「飲んべー君たちの集まりかな~」なんて年寄りの安直な先入観で参加した。参加と言うより、「さつま町焼酎文化の姿、ある面」を知り、本HPの「さつまの文化」にアップロードしようと考えて“取材”に行ったのです。ところが、ところが…です。豈図(あにはか)らんや…でした。先に感想を言うと、「良い試みをしているな!」「伝統の焼酎を『進化・レベルアップ』している!」「焼酎を楽しんでいる!」と直感的に感じた。まず、本ゼミの内容を説明しよう

 

参加者は、もちろん若いきれいな女性5名に男性3名。講師は座長でもある堀之内酒店

の主人、堀之内力三氏、軸屋酒造から鍋田正孝杜氏(杜氏)でコラボの講座。急遽、参加できない人も含めると大人数である。第1部は鍋田氏の「焼酎造りの説明」、第2部は堀之内氏の「お湯割りマイスター講座」で「お湯割りマイスター修了証」を目指す。彼らは若い者同士、すぐ打ち解け合ってリラックスしたゼミです。店内のお酒に囲まれ、小さな机が距離を縮めるような働きがあったのかも知れません。居酒屋的な洒落っ気のある雰囲気もあり、写真を撮る時は天井の丸い行灯のような照明を入れました。全体の雰囲気を作ると感じたからです

1部は鍋田杜氏(「なべたとうじ」ね、もり氏じゃないよ)が、お酒の歴史や、造りの詳細や重要ポイント、工程など“そうなのか~”と思うような工程を説明してくれた(ビデオで再確認したよ)。私がびっくりしたのは、若い彼が流暢に、自信・信頼感・説得力が感じられるように話すのです。ストーリーは、造り方は頭と体が体得しているのでしょう、原稿もなしに1枚の資料に大版の写真を何枚も見せながら説明します。言葉だけではなく、写真などがあるので解り易くなるのです。説明を聞いて、米と芋の原料から始まり、芋主導での米と並列作業に進んで麹菌の繁殖など「生き物」ですね。これらや個々の作業、仕込み水の大切さなどやはり職人的技があるのでしょう。アルコールの抽出と調整など機械化する面もあると思いまが、忙しい時期も秋頃に集中し、なるほど、そういう訳か!と理解できます。一生懸命頑張っている若手がいるんです。なかなかのプレゼンでしたよ

私事で恐縮ですが、焼酎を飲む期間は長いが、造り方は全く知りませんでした。私の焼酎との付き合いは、まず、焼酎をコレクション的に床の間に置いて寝かしているのです(20年以上品もあるかも!)。もらった魔王もデーンとしていますが、好きで選んだのではなく、少し高いネームバリューで選んだようなものです。晩酌皆勤賞ですが、今日を経験するとプアーなものです。私の「惰性ルーチン」、「〇〇焼酎で髪の分け方とおなじ73のお湯割りね」「夏はウーロンと氷ね」と一徹です。以前は、“燗ざまし”よろしく、前日にお湯割りを作って一日寝かして黒千代香で飲むと“まろやか”で好きだった。しかし、いつしか消えた…。もっと潤しく、味や風味を求め「豊かさ」の必要性を感じた。

まだ、書きたいのに自己規制の1000字突破した。簡素化してまとめたい。第2部に入った瞬間、「いい香りが漂った。私を誘う」。力三君からも誘われたが、今回は弱い意志力を抑えた。高齢者ながらブレーキをしっかりと踏めた。自分の「タガ」も外せずに済んだ。実は、仕込み水など、お湯割りのテクを聞きたかった。残念!。いつか聞こう。それと、何人かに「焼酎に関する思い、情熱、文化」を『宮之城文化』に寄稿して欲しいと思った。当誌に「若い力、考え、エネルギー」の息吹が欲しいのです

(公開許可をとらずにすみません。つい、忘れてしまいました。m(_ _)mゴメン

◆宮之城人形作成 2020/1/17(土)

「宮之城人形」? 何それ!。私は若い頃…と言うか長い間、存在も知らなかった。何故なら、他に興味のあるものが多かったし忙しかったからだと思う。時は過ぎ、現在は「作ってみたい」と思うようになった。変化の理由は何かの機会に考えをまとめたい。初市を前に会員がピッチを上げて絵付けをしているところを撮影取材に行った。会員は比較的高齢の男女12人程が元気に取り組んでいた。賑やかに話をしたり、没頭していたり…。集中力が溢れ結構エネルギッシュなのです

最近の初市の風情を見ると、宮之城人形は比較的高齢の方々のファンが多いようだ。ここ数年売り場を覗くと繁盛しているのである。人垣ができたて会話したり、買ったり、写真撮ったりと賑やかだ。TV取材やインタビューも来ることがある。そこで私は感じた、「宮之城の古い文化」、「縁起物、復活!」と。そして、これを我らが冊子、『宮之城文化』の表紙や観光カレンダーにしたい、と思った。そうすれば多くの人に「当時の感性や記憶を思い出してもらえる」のではないだろうか、と使命を感じた

ここ最近少し勉強をした。宮之城人形復興会のパンフレットと『宮之城文化』(8号)の荒田邦子氏の稿を参考にした。これらは参考になり読みごたえがあった。更に、不明点は「解らんもんなGoogle」で勉強した

薩摩では、初節句の子供の健やかな成長を願って、親戚類者が初市で土人形を買い、子供たちに贈る習慣があった。しかし高価なため、藩内で広く推奨し土人形が始まった。宮之城では、屋地の松永仲次郎氏が東郷で修行し、明治24年頃に宮之城で生産を始めてようだ。その後途絶えたが、平成17年に約70年振りに復興した

人形は粘土で作った土製で、素朴であり愛嬌のある表情が魅力的ある。小さな幼児ほど単純な表情を好むのだろう。人々は子供への送り物か縁起物として購入しているようだ。種類は、天神、立娘、鯛抱き、戌(イヌ)、縁起物、風俗物、歌舞伎物がある。私は全て好みだが、今日は縁起物の「福助」を紹介したい

「福助」は、その昔、
足袋や「カクイワタ」の宣伝であったのを覚えている。この福助なのだが、
Wikipedia
によると、幸福を招来するという縁起人形の
一種。背が低く,童顔で頭の大きい男性人形で,ちょんまげを結い (かみしも) を着けて正坐した形。江戸時代,享和(180104) 頃に死んだ長寿佐太郎という実在人物を模したものといわれている。佐太郎は摂津国の農家の生れで,身長約 60cmぐらいの大頭の小人 (こびと) であったが,幸運な生涯をおくり長寿であったといわれる。私は、昔見たその人物がそのまま表れていると感じる

2月7日の初市の際、祭りの雰囲気や人形を再度、じっくり見ようと思っている


◆あおし柿 (紫尾温泉)

同じ秋の味覚ながら“川の幸”の話が続いたので、今回は“山の幸”の話です。寒くなると芯から温まる温泉が恋しくなります。ここ紫尾温泉では「渋柿」も入浴します。夕方入って15時間以上入浴し、上がったらすっかり「垢ぬけ」…、ではなく「渋」が抜けます。渋柿を甘柿に変身させる「あおし柿」です

この時期、渋柿は鈴なりに実り、いかにもおいしそうに見えます。渋みは防虫、防鳥に効果があり沢山なるのでしょう。昔、よくジュグリッショや完熟前の柿を指でほぐして柔らかくして食べてたことを思い出します。古人も何とか利用しようと思い、干し柿やあおし柿が発見されたのでしょう

さて、ここは神の湯、日本一の美人の湯で有名な紫尾温泉。温泉旅館の通りを進むと、新日本百名湯「紫尾温泉」の看板が目に入ります。そこは和風造りの区営浴場で多くの区民が利用するところです。その軒先に「柿用の露天風呂」があります。柿はかけ流しの湯にたっぷりと入ります

管理責任者の西田さんの話やWikipediaによると、渋柿は、タンニンがアセトアルデヒトと結合して…何たらかんたら…よく分からないので以下省略。要するに、“渋抜き”と言うものの、湯に長時間漬けると渋みが抜けるのではなく、渋みを感じなくなり元来の甘みが感じられるようになるそうです

彼は、柿の種類や湯温、時間などを熟知しており、外部から持ち込まれた柿を処理していました。一袋10kgを、種類分けしながら次々と
36~37℃の浴槽に入れいきます。この日は25袋以上を入れ、木の蓋をしていました。この後、数時間毎湯温のチェックを行います


隣の物産館などで販売しており、後ほど買ってたべましたが、硫黄温泉独特の香りと柔らかくて甘い味を堪能しました



◆山太郎カニ(ヤマタロガイ)の季節

またしても魚取りの話題で恐縮です。稲穂が出る頃になると「山太郎カニ」がターゲット。川にいるのになぜ山太郎? 一説には、山深い川を下る姿から名付けられたとか。 管理人は、今年は体調不良もあり、友人知人にお願いしカニ漁と火ボカシを取材しました。カニ漁は、幼少より「イオ取イニセ」と言われた中囿正樹君。今は匠の域

漁の舞台は川内川支流の「穴川」。この川、カニも鮎もエビまでもが個体が本流よりもとにかくデカイのが特徴だ。まだ昔ながらの生態系が維持されているからだろう

彼はポイントを熟知しており、10月末ながら川に入り次々と「ガイテゴ」を上げていく。まさにワイルド。ここでは、3個のカゴにLLLサイズのカニが10匹ほど入っていました。取り出しやエサの交換などの扱いも手慣れたものです。

ビク(蟹かご)を見ると、カニがひしめき合っています。重なりながらジュクジュクと泡を吹きながらうごめいています。甲殻類とはよく言ったもので、全身に固い鎧をまとい毛むくじゃらの強力なハサミを持ったその姿は、いかめしく強そうです。弱肉強食の水中世界でも上位に君臨しているのでしょう。

さて、獲ったカニはどう料理するか? 茹でたり煮てカニ味噌を頂く方法や、鍋物の出汁、潰したり半分に切って味噌汁にするなど色々あります。煮る時、必ず水の時からカニを入れること。滾ってからだと「バラバラ殺人」になるので、カエルの釜茹での如くがコツ。特に、産卵期の雌の内子(卵など)が好まれます。雌雄の見分け方は…?。腹をみれば一目瞭然、三角形の「フンドシ」を穿いているのが雄です

また、この地方では「火ぼかし」もポピュラーです。写真は神園美子さんの加工場。新聞などでも紹介される、昔から火ぼかしや仕出しをやっている方です。特製の加熱炉に、三段に金網を置き、その上に約60匹ずつ整列させ3日ほど加熱します。すると、何と言うことでしょう!炉を開けると大きな赤い花が咲いたようで香ばしい匂いに包まれます。カニは10本の脚を綺麗に揃え、整然と並んでいるではありませんか

火ぼかしたカニは、煎じて飲んだり、粉にして飲みます。昔から民間療法として打ち身、打撲などの効用、カルシューム源として利用されています



◆金鮎

8月に入ると鮎の季節ですが今年は例年にない「不漁の年」。川内川の落ち鮎を獲る「アバ」設置も昨年に続き今年もゼロです。6月の鮎解禁になっても風物詩だった「友釣り」もここ23年、全く見られません。管理人も、体調不良もあって今年の鮎漁は惨憺たる状況。従って過去の写真や資料を基に鮎漁を述べます

鶴田ダム建設工事前、川内川の“幸”は、鮎、かに、鯉、うなぎ、ふな、えび、はやと漁獲数・量共に多かった。特に川内川の鮎は「金鮎」と呼ばれ、全国でも3つの河川でしか獲れない産出物であった。何故「金鮎」と呼ばれたのかと言うと、鮎を串刺しにして囲炉裏(いろり)に干す(火ぼかし)のであるが、干し魚にした時の色が金色に輝くようになるので金鮎、色の冴えないのは銀鮎と呼ばれたと言われている

金色に輝く鮎は、ホテという藁(わら)の細工物に刺して天井に吊るし、漁業者同士で豪勢を競い合った。運動会の煮しめの飾り、正月のおせち料理の材料としてなくてはならない郷土の特産物であった。出荷は首と胴の二か所を藁で組み、101組とされた(「宮之城文化、中原光明」より)。現在でも、火ぼかしにすると腹の辺りが少し金色に輝くのが解る


昔は川内川に川舟を浮べ友釣りをする人が多かった。日焼けした身体に麦わら帽子と白いシャツ姿、自分のポイントや適場を求めて移動し、終わると生簀は鮎で一杯だった。私たちは、「引っ掛け」という方法で鮎を獲った。鮎取りや塩焼き、背ごし(刺し身)は今も記憶に残る。先輩方は刺し網を張る時、鮎が足に当たりおった、と言う位、鮎は多かったらしい

上の鮎は今年獲ったものです。体調27cmで「尺もの(30cm)」とはいきませんでしたが、鮎を掴んだ時のむっちり感、重量感は何とも言えない喜びです。友釣りや投網、落ち鮎漁も平成と共に消え去るのは寂しい気がします



◆中秋の名月 2019/9/13

9月13日は中秋の名月(十五夜)でした。我が家もささやかながら、すすきや女郎花などとお供え物をしました。昔と比べると大夫簡素化された感じですが、少しだけ風流を楽しめました。

そして19時を過ぎると、「十五夜どろぼう」さんたちがやってきました。自分も小さい頃、綱引きの後、競争しながら袋いっぱい盗ったのを覚えています。この日は公認であり、満月の夜道を悪童たちと走り回るのは冒険心や解放感で何とも楽しいひと時でした。手当たり次第に盗り、帰ってからの戦利品チェックが、また楽しいものでした

 

最近の子供は、「こんばんは~、くださ~い」とか「有難うございました」などと非常に礼儀正しいです。写真を撮らせてね~、というと大きなバッグを抱えながら満面の笑みを浮かべます。この気持ちは一緒なんですね。今晩は小学生から中学生まで20数名程来ました。本当に素直な子供たちで、喜んでもらえてこちらも幸せな気分になりました

 

WEB情報によると、昔の日本というのは、このように特定の日にみんなで悪いことをすることを認めて、それによって各種のストレスを解放するという社会的な仕組みができていたそうです。その後、お月見の日に芋や団子などのお月見のお供えを盗られた農家は豊作になり縁起が良いと言われるようになり、子どもたちが月の使者であると信じられていたことから十五夜どろぼう(お月見どろぼうとも言うらしい)ができたと言われているようです

 



◆川の文化・伝統(うなぎ取りあれこれ) その2

土用丑の日は過ぎましたが、うなぎの話題をひとつ。先週、“うなぎ”を16匹程ゲットしました。もちろんウナッテゴでです

 

夜になると魚たちは川べりに寄ってきますが、川が増水すると顕著になります。濁流・急流を避け、エサや綺麗な水・酸素を求めるのでしょう。夜行性なので夜、犬並みの嗅覚で捕食するようです。これを狙って大雨の前に、田んぼの排水路が川内川に打ち出すポイントに仕掛けたものです

 

翌日上げに行くと、まず重みで入っているか見当がつきます。そして両端を持って振るとゴソゴソッとうなぎが暴れるのですぐ解ります。この手ごたえが何とも言えない喜びです。これがうなぎ取りの醍醐味です

実は、筒から捕獲器や生け簀に移す時は要注意です。この”あばれる君たち”は、尻尾を巧みに使いながら体をくねらせて逃げようとします。彼らもかば焼きになるまいと必死なのです。私は、洗濯ネットを使い、一部を水に浸けて移し替えます。ゆっくりやると暴れません。これで逃亡率0です。大物に逃げられた時のくやしさと言ったら、もう…

一つの仕掛けに8匹入っていました。彼らは狭く暗いところに「おしくらまんじゅう」をするようにひしめき合うのが好きみたいです。写真のように、肌を寄せ合って“うなぎの寝床”に密集します(16匹が2つの筒に入っている)

 

ウナッテゴ漁は、生け捕りなので個体が元気です。生命力も強く1ケ月位は筒の中でも生きています。エサの消化も良く事後の臭みもありません。早朝に行く必要もなく、ずぼらな私にはもってこいの漁法です

 
うなぎに関するウンチクを少しばかり。うなぎの故郷は、太平洋のマリアナ海域と言われています。ここで卵がふ化し、透明な仔魚(しぎょ)になり、太平洋を回遊して、稚魚(ちぎょ=シラスウナギ)となって、日本などの川を遡上します

遡上し510年は川や湖ですごし、成長したウナギは川を下り、太平洋を回遊して、再びマリアナ海域の産卵場所へ向かうと見られています。また、うなぎは雌雄同体であり川にいる時期は殆ど雄で、海に帰ると今度は雌となるそうです(By wikipedia)。不思議ですね!味気ないですね!神はこのようにつくり給うたのですね!最後にうれしいニュースがあります。本年より、川内川河口の地獄網漁がなくなったので遡上が増える、と期待しています


◆川の文化・伝統(魚取り) その1

管理人は、初夏から晩秋にかけて魚取りをやります。ターゲットは、手長エビ、うなぎ、鮎、山太郎カニ、すっぽんです。しかし、漁獲は年々減ってきています。6月1日より川内川漁協では大方の魚が解禁となります。川内川流域には、この季節を待ち望んでいる人がたくさんいます。少し高齢化していますが、はからずも伝統を継承しています

 

右図は、長い筒はうなぎの捕獲器(ウナッテゴ)、径の大きい短い筒はエビテゴです。昔は竹を編んで作っていましたが、現在は塩ビ管を使っています。外にも漁具として、縦網(鮎用)、延縄(はえなわ)やカッ針(置き針)を珠に使います。と言っても私は下手の部類で、ほとんど趣味の世界です。そう、資源保護を重視しているのです!

 

解禁に向けて、漁具の新作やメンテをやりました。私は大部分は自作します。魚取りもですが、この作業も工夫を凝らすなど楽しいものです。現役時代は、定年になったら「川内川に舟を浮かべ、釣り糸をたらす生活」に憧れていました。しかし、だんだん時がたち活動範囲が狭くなり、きつく感じることもあります。結局、あの願望は忙しいことの裏返しだったことがわかります

 

川舟も棹の準備もOK、漁具も修理したのでいよいよ川に出向く日が増えます。川も魚もオレを呼んでいる(≧▽≦)。楽しみが一つ増えます。祈!大漁、安全


◆農村文化~田の神様祭り(田の神講)

2019/02/17 時吉の新地地区で江戸時代から続く田の神様祭りが行われました。石像は、今から約250年前の明和2(1765)年に造立され、時吉たんぼを一望し、田を潤す用水路の傍で右方には紫尾山を見渡す所に鎮座しています。

 

春、山の神が田に降りてきて田の神になり、秋になると再び山に帰り山の神になると伝えられる。田の神祭りは、旧暦2月の丑の日と10月亥の日か11月丑の日に行われていたが、現在は新暦の2月に豊作祈願し、10月に感謝を表すようになっています。

 

祭りは、座元と前布れ、後布れが組みになり、持ち回りで行われます。その際、持ち回り用の仏像を座元が次の祭りまで保管します。この仏像は馬頭観音と伝えられるが、特徴が一致しない点もあり、或いは「隠れ念仏」かも知れない。

 

この日も、恒例に従い田の神様に「わらっど」を掛け、煮しめとおにぎり、焼酎を供えて「いい米ができますように」と祈願し、終わったら子供たちに料理を配りました。

夜は、座元の外堀元雄宅に講の全員が集り、宴席が設けられました。現在は、ともすると疎遠になりがちなのでコミュニケーションの場ともなっています。