新たに、「故郷の歴史」を設ける。これは、昭和60年頃、宮之城役場発行の「広報みやのじょう」に記載されたものを紹介するものです。作者は、その項目毎に紹介します。
〇民衆の歩み~14 2024.4.29(月) (筆者:野村秀一)
【藩政時代の士農工商】
盈進校と片倉製紙工場の間の通りをお仮屋馬場(おかりやんばば)と呼んでいた。今の盈進小学校の地に宮之城の領主島津氏のお仮屋があったからである。歴代の墓地が宗功寺墓地である宮之城島津氏は一所持殿(いっしょもちどん)で本拠の屋敷は、鹿児島城下にあって藩主に仕えており、いつもここに構えていた
お仮屋の地に宮之城を支配する役所があり、色々な役職があった。藩の家老に当たるものを、お仮屋では役人と言い、相良家、平田家、和泉家の三家で俗に「御三家」と言われていた。これらの家をはじめ、主だった家臣がこれに任じられた
役人に次ぐ役目が「用人」で、訴訟や政務を担当する。その他、物見奉行、横目、竹木見舞(ちくぼくみまい)、郡見舞(こおりみまい)、目付けなどの役職があった。
役所を中心にしてその周囲にあるのが麓(ふもと)で、侍屋敷が取り巻くようにしてあった。相良殿小路(さがらどんしゅじ、または相良殿筋)、和泉殿小路(和泉殿筋)、屋地馬場、八幡馬場、城の口、虎居馬場と侍屋敷が取り巻いて守っていた。
各役職と役割(「宮之城記」より抜粋)
・物奉行
府軍の財を司る。また、百姓の納貢米穀、雑事を下知する
・横目
無礼緩怠の族を密かに聞き得て伝奏する。公役であり、国主
の旗下、横目座の命を受ける
・竹木見舞
国主の旗下にあり、公木、田猟等を掌(つかさど)る役
・郡見舞
百姓の人夫仕、田畑年貢等全体掌握する役で、公儀扶持(国
主の旗下)
・目附
役人と一緒に出座し、義を聞き評する。又は贔屓偏破を分け
執奏する役
・下代 お仮屋
宝蔵の中に居て百姓の納貢の掌握、米穀金銀の出入りを取り扱う お仮屋
・代官
台所に居て、金銀米穀の取払い手を勤める
・庄屋
村土人民の上を掌る下知人。又は農事、人夫仕諸般を聞く(=郷<郷士・百姓>の長)
〇大名領地と民衆-13 2024.4.22(月) (筆者:野村秀一)
【商人の生活~教育「寺小屋」】
百姓は、「文字では飯は食わぬ」。封建時代は、農民には学問は不要という考えであったようであるが、商人は、読み書きができないと困るので寺小屋が繁盛した。寺小屋が増えていった様子を示す全国的な数で見ると、
寛永―正徳92年間 77
享保―安永65年間 110
天明―文政39年間 1,387
天保―慶応38年間。 8,675
総計 244年間に、 10, 279
この通り、江戸時代には時代を下るとともに寺子屋が勢いよく増加してきている。この一般の趨勢に比べて、薩摩の情勢はどうだったであろう。江戸時代の、薩摩の町人の教育状況を直接に見る資料はないので、明治時代に書かれた薩摩の一般教育の状況から想像して行きたい
これは、「薩摩見聞記」という本で、著者本富安四郎先生は新潟県長岡市の生まれで、明治22年盈進校の校長となり、盈進の教育に深大な足跡を残し、わずか二年ぐらいの間に、薩摩について鋭い観察をされているのである。その中から教育という箇所を抜書してみてみたい
「薩摩の文化が他県に比して遅れていることは、彼(かの)國人の自虐するところにして、実際に於いて真に然るが如し。統計の示す所によれば、郵便物発出数、郵便物発出数、新聞雑誌発兌部数、並びに購買及び配布を受けし部数は人口に割合して皆全国の最下位にあり
即ち、男子の修学者は僅かに学齢男児の半数を超え、女子は百分の八九に過ぎず。これを石川県の男子百中八十余の修学に比べれば、その差、実に大なりというべし。およそ女子修学の割合は、その地学事の進否を測り得べき標準にして百人の中、僅か八、九の女児が文明の教育に、与かろが如きはその不振明らかなり
実に鹿児島に於いては、学校生徒は男子二人に女子一人の割合にまで進歩したけれども、城外に至りては男三女一人を最高として、時には全校一人の女子を見ざることあり。或いは男子の十分の一、二十分の一に至るものあり」
この薩摩の後(おく)れについて、前号で労野町(つかれのまち)のことを書いたが次回にも更に考えてみたい
〇大名領地と民衆-12 2024.4.15(月) (著者:野村秀一)
【商人の生活~野町の信仰】
屋地の八坂神社の境内に恵比寿(須もある)がある。山崎の玄徳寺前の三叉路にもこの神様がおられる。これは商売繁盛の神様で町の人々の心の中心であった
推古天皇9年、聖徳太子が市を始め、商人たちに売買の術(すべ)を知らされた時、蛭子(ひるこ、えびす)神に誓って商売鎮護神のため恵比須を以って福神と崇めたのが始まりでる。町では、毎年商売繁盛を誓って盛んなお祭りが行われてきた
宮之城の野町は、恵比寿のほかに八坂神社を祭っており、お祇園様と言われている。八坂神社の創建は享保20年(1735)年であるが、幕末の慶応年間の祇園社の次渡書綴(じきわたししょつづり)によると、慶応3年6月15日に中町組から下町組へ、翌4年6月15日に下町組から上町組への書類が残っていて上中下の3町が交代で祇園祭を取り仕切っていたことがわかる
宮之城野町は、労町(つかれまち)にならず厳しい封建時代を生き抜いて人々が力を合わせて祇園祭を行ってきている。
八坂神社の旧名をなぜ祇園社といったのだろうか?
京都の八坂が、昔朝鮮の高句麗系の帰化人八坂造(やさかみやつこ)が住んでいて、その氏神が祭られていた。京都が都(首都)となると、その氏神は牛頭天皇(こずてんのう)とされたが、インドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神が「牛」であることから、この地を祇園と呼ぶようになり、祇園の神が成立した
また、牛頭天皇は須佐之男命(すさのおのみこと)とも結びつけられ流行病除けの徐疫神(よけえきしん?)として祇園社に祭られ,疫病や怨(うらみ)のんで死んでいった人々の怨霊を鎮める御霊会(ごりょうえ)が行われるようになっていった
夏、都に流行病が始まるとたちまち広がりやすく、まだ政治の中心舞台である京都には政争に破れ怨みをのんで死んでいった人々の祟りを恐れる人々がい
祇園祭は今でも京都で盛んであるが、京都市民のいろいろの出し物が出て人々を楽しませている。この盛大な祭りが催しも伴って地方に波及していった。祇園祭は「大人の遊びでんねん」と言いながら、京都でもうやめられないようである
〇大名領地と民衆-11 2024.4.8(月) (筆者:野村秀一)
【商人の生活~野町人の縁組】
野町人(のまちびと)の縁組について、町郷土史に次の記述がでている。
一、 札年(さつねん)三拾弐歳 禅宗 名頭善兵衛妻
右者宮之城家来平田幽亭下女津ま為二縁組一入来候宮之城役人証文古札年見届候
二、 札年弐拾三歳 禅宗 名子与右衛門妹けさ
右者入来野町名頭品助弟早次郎方へ為縁組さし越候入来役人返証文見届候
右は弘化2(1845)年と嘉永5(1852)年の記事である
薩摩藩は、野町の縁組にいろいろの制限を加えていた
「百姓又は野町之縁組は庄屋・部当・郡見廻証文を以手札可相直事但縁与ニ付別郷へ相除節は郷は郷士年寄私領は役人証文ヲ以可相除候百姓へ野町より入り来り候儀は御免ニ而候百姓より野町へ出候儀且又野町より町浦浜類へ互之出入御禁止候事」・「野町之者より百姓共へ入縁与は御免之事候…略」
上記で明らかのように、野町への縁組は厳しく禁止している反面、野町からの縁組は許可している。つまり、百姓のような直接生産者の減少を防ぎ、生産された物を売買する商業の発展を抑える趣旨からでた政策であろう
このように町民などを遊民視する思想は、封建社会ではどこでも見られるが、薩摩藩でも例外ではない。百姓が割り当てられている土地を放棄して逃げてしまう「逃散(ちょうさん)」と同様、縁組による身分上の混淆(こんこう)は藩経済の基礎をゆるがすので、このような縁組の制限の規定は当然のことなのであろう
しかし、このような制限が、野町の著しい衰退・人口の傾向、即ち労野町(つかれのまち)の現象を放置できな状況が起こり、通婚許可制限の緩和の政策がとられるようになった。
次に薩藩領内労野町と通婚許可の範囲、年限のうち宮之城・佐志・山崎関係の分は図の通り
野町 |
年限 |
外城 |
身分 |
大村 |
文政8年~10年間 天保9年~10年間 |
宮之城・佐志・山崎 宮之城・佐志・山崎 |
右同 右同 |
鶴田 |
天保9年~10年間 |
佐志・宮之城 |
右同 |
山崎 |
明和6年6月~6か年 |
東郷・宮之城 |
右同 |
〇大名領地と民衆-10 20243.4.1(月) (著者:野村秀一)
【商人編~野町の商人】
前回まで農民に目を向けて歴史を述べてきた。郷土史に町場商業の一つである「野町(のまち)」が出現したり、「市立(いちだて)」と言う定期市が始まったりするところまで時代は下がってきた。ここから商人たちの活動に話を移す
宮之城郷土史に、慶長元年(1596)、領主北郷(ほんごう)氏が、「五日町・時吉・子捨(求名)、北原(平川)などの商人を城の麓、五反田に集め大導寺川沿いに戸数12~13戸の『市町(いちまち』を作り、家臣たちの日常生活に不自由のないようにした」という記載が見える
このような市町は、山崎の、町の十文字付近から川内川岸までの間にもあって10数軒の店が並んでいた。このような市町を薩摩藩では法制上、野町(のまち)という。これは、通称ではなく藩法で決まっている名称である
藩法上決まっている薩摩藩の商業形態としては、城下町・野町・浦町・門前町のような町場商業と市立のような定期市と行商の三種があった。城下町というのはもちろん、鹿児島城下の町で、城下士侍の住んでいるところで、彼らは俸禄を賜り役職に就き消費経済を営んでいた
これ以外の薩摩の侍は、102の外城に住んでいる郷士、所謂ヒシテ・ベコ(一日兵子)で、農業をしながら国を守っている半農半士の屯田兵である。野町はどこにあるかというと、102外城のうち、野町なしの郷が52郷あったというので、野町は約半分の50郷にあったことになる。宮之城と山崎は野町のある郷であった
さて、その野町に何の店があったのだろう? 町で取り扱う商品は貧弱なもので、これを補うものは行商や定期市があった。野町の店と言えば焼酎屋・麹屋・質屋・油屋・荒物屋などで、業種に応じて礼銀が課せられた。酒屋が年に銀一枚、焼酎屋が49匁などが基準になっていた
野町の商売は貧弱なもので、商家は商売だけで食っていけないので農業もやっていた。永作・溝下見掛、大山野など町人にも所有が許されている土地があった
〇太閤検地と農民-9 2024.3.25(月) (著者:野村秀一)
【縛られて解放された小農民】】
検地で狡いことをやって邪魔する農民は、一類眷属女子供まで機物(はたもの:磔<はりつけ>)にするぞと前回書きました。これも応仁の乱以来の動乱の時代に終止符を打つために検地の大業を強行しようとしていることがわかります
検地帳には、村毎の耕地一筆一筆にその耕作権者が決められています。その耕作権者が同時に年貢納入責任者です。誰をこの責任者にしたかといえば、それは実際にその土地を耕作している農民がそれに選ばれたのです。当たり前のようですが、厄介な事情があったのです
それは当時の農民の階級化が進み、どんぐりの背比べではなく、地主的=侍的なものから零細小農民・小作人まで含んでいた。いくさでも始まれば簡単な鎧を着て槍でも持って飛び出していける侍的農民と水飲み百姓もいるわけである
地主は小作人と土地を耕作させて私徳=小作料をとっている。しかし、実際の耕作者だとして小作人を年貢納入責任者として検知帳に記載すれば、小作人は小作料を地主に納めながら、年貢も納めなければならなくなる
まさに火の車で、土地を捨てて逃出することになってしまう。そこで、年貢納入責任者として検地帳に記載された農民は小作料を納めなくてもよいことになっていった。小作料即ち作あいを取ったり取られたりする農民同士の関係は否定されたわけである
「おとな百姓として下作に申しつけ、作あい(小作料)を取儀無用の候、今まで作仕候(つかまつりそうろう」百姓、直納可仕候(じきのうつかまつるべくそうろう)」と言うことになりなった。これを左様でござるかと侍的地主的大農民が引き下がるだろうか
検知が行われている間耕作を放棄した「あれ地」、耕作人の居なくなった土地「失せ人」として、毎年貢地として検地を免れ、検地が終わってから再び耕地として利用するものがあり、下層農民がその捨て地を作らせてくださいと申し出るというわけです
現代のような民主主義の時代でないので、このような抵抗を排除しながら検地という大業を強行して行ったわけである。この力はどこから湧き出てきたのだろう?興味のあるところである
〇太閤検地と農民-8 2024.3.18(月) (著者:野村秀一)
【年貢対策いろいろ】
太閤検地が農村内部でどのように行われたか、検地の施行基準が出来た近畿地方の様子を見ると、検地に当たっていろいろ面白くないことがあった模様である
検地は、村の耕地一筆ごとにその所在する小字・面積・法定収穫高を調査し。その耕地の年貢納入責任者を決め、これを検地帳という土地台帳に、例えば、次のように記載した
・五反田 一反一畝十歩 一石一斗九升 左衛門二郎 ・宮前 二畝 二斗四升 新助
五反田、宮前などは耕地のある村の小字である。一反一畝十歩が検地によって公に認められた面積、一石一斗九升がその耕地の法定収穫高で、つまり一年にこれだけは出来るはずの土地だということである
左衛門二郎や新助というのが、その年貢納入責任者を示す。こうしてその土地工作権者は同時に年貢納入責任者で、はっきり台帳に記載されたのである。税金を少しでも安くしてもらいたいのは、昔も今も変わらぬ人情と見えて、太閤検地の昔もいろいろあった模様である
秀吉の天下統一の出発点となり、太閤検地の基準が出来た近畿地方の様子から、全国の様子を想像してみたい。農民が検地奉行に対して、私ども農民は決してこのようなことは致しませんと言って差し出させられた誓約書であるが、検知とはやる方やられる方にとってどんなことが、またどのような影響があったか想像できる
一、郡界・庄界・郷界を紛ら申しまじき事
一、面々手前抱え分田畠、諸成物一粒一銭残さず出し可申事(もうすべくこと)
一、検地の時礼物礼銭にて御容赦のところ有様可申事 同百姓のうちだれだれてまへ右之御容
赦の処候共。見かくさず可申候。
一、御検知の以後新拓き並植えだしの田畠御座候はば、これ又ありやうに可申上事
一、上中下をまぎらかし、斗代をさけ申間敷事(もうしまじきこと)
一、御給人同下代となれあい、かくし間敷候事
右条々すこしもあやまりかくし候儀御座者、一類眷属(けんぞく:一族の者)女子供まで機物(はたもの:はりつけの刑)に御あげあるべく候、なをもっていつわりを申上においては、忝(かたじけなく)も此起請文(きしょうもん)御罰をこうもり可申者也(もうすべきものなり)
仍(よって)前書如件(くだんごとし)
(安良城盛昭著太閤検地と石高制に據(よ)る)
〇大名領地の民衆-7 2024.3.11(月) (筆者:野村秀一)
【太閤検地と幕藩体制(2)】
文禄4(1595)年島津領の検地が終了すると、義弘は朝鮮から呼び戻され、秀吉の朱印状によって、
薩摩:28万3,488石 大隅:17万5,057石 日向国の内諸県郡:12万187石
であることが示された
この朱印状とは別に「知行方大隅国、薩摩国、日向国内諸県郡、目録帳」というものがあって、これによって検地で明らかになった島津領を武士階級に分与することで、秀吉が目指す幕藩体制を作って、戦国時代の武士たちの頭を切り替えさせようとしたかが想像できる
第一にハッとする事は、島津旧領のうち、1万石の太閤様蔵入分を始め、石田三成・細川幽斎の取り分まで、その土地のある村まで指定して決定していることである
第二に島津義久・義弘・伊集院忠棟ら島津一族の分が、これまた村を指定して決められている
第三番目に島津の家臣の領地と寺社が村落の指定がなくて、二つの総計だけが決められている。この目録帳が示しているのは、大名とその一族領がまず占取され、残る領内部分みを島津氏が自分の考えで与えることが出来るということである
第一から第三までを見てわかる事は、島津氏が自分の領内全体に自己の判断で自由に支配権を及ぼすものでなく、秀吉の権力によって島津家家臣に対する所領の給与まで強く支配されているものであることを思い知らされたのである
また、秀吉権力の浸透は、同時に家臣に対する大名島津の支配権の浸透が進み、戦国大名の家臣領の独立性・不可侵性が消滅して、大名と家臣間の主従関係が厳格なものになって行った
太閤検地を契機として「下剋上」の戦国動乱期を終わらせ、厳しい上下関係を特質とする幕藩体制的主従関係を確立することになっていった。大名たちの上に、これらを支配する天下様---太閤秀吉や徳川将軍---がいて大名を支配する幕藩体制ができて、戦国大名は新しい大名になっていった。これが近世大名である
三代将軍家光が江戸に同候した諸大名を前にして「余は生まれながらの将軍である」と啖呵を切ったのはもっと後のことになる。次は太閤検地が農民とってどんな影響を与えたかを見ていきたい
〇大名領地と民衆-6 2024.3.4(月) (筆者:野村秀一)
【太閤検地と幕藩体制(1)】
図は文禄3(1594)年の島津領の検地施行の実施細目であって、その第一条は耕地の丈量(じょうりょう:土地の広さを測量すること)に際しては畦溝(あぜみぞ)を除いて、300坪(5間×5間)と一反の基準が定められ、第二条以下は村々を上・中・下・下々に区分し、一反当たりの法定米収量となる石高を田畑別にそれぞれ定めています
この「検地尺」が現存するが、それは、縦0.45m、横0.06mの桧材でできており、その表には、石田三成が「石田治部少(花押)」と署名しており、その裏には、「この寸を以、六しゃく三寸を壱間に相さだめ候て五間の六十間を壱たんに可仕候(つかまつるべくそうろう)」とある
一間六尺三寸、三百坪一反は、太閤検地の検地丈量の一般的基準であって、各國の太閤検地に於いてもこの島津領の検地と同様に基準となる「検地尺」が検地奉行の元にあったと考えられる。太閤検地は律令体制成立期の班田制、明治維新期の地租改正、昭和の農地改革と並んで中央政府が統一的に日本全土にわたって施行した日本史上四大土地制度変革の一つである
検地は、秀吉の天下統一の根拠地たる近畿で開始され、新征服地に次々に施行された検地の繰り返しのなかで生み出された基準で、これを全国に及ぼしていった
〇大名領地と民衆-5 2024.2.19(月) (筆者:野村秀一)
【島津氏、遥任の限界を知る】
薩隅日の大名領地は、島津氏の三州統一で実現した。これまで述べて通り、この三州では他国のような小荘園が分立せず、正八幡宮と島津荘の二大荘園の対立となり、三国の総田数一万五千町歩の半分が島津荘といえば薩隅日三州の総称のように思われていた
文治元年(1185)、平氏が西海に亡びると、いわゆる平家没官領の地頭職に惟宗・千葉・渋谷・二階堂など頼朝の家人を補任した。この島津荘地頭職に補任された惟宗忠久が後の島津忠久で、島津氏がこの後700年間三州の主となる基となった
頼朝は下文を発して、忠久の下知に従って下民を安堵させるように命じた。また、惟宗の命に従うものを優遇することもやっているが、大した効果はなかったようである。
そこで忠久は、自分が政治の中心である鎌倉にいて、家臣を任地にやって政治をさせる、所謂遥任(ようにん)ではダメと思ったののであろう
家臣の本田貞親を任地、即ち島津荘に派遣して実情を探らせ、その報告に従って数十人の家臣を従えて、自ら木牟礼城(出水市野田町)に着任し、ここを本拠地として三州経営に乗り出した。しかし、忠久の12代から15代勝久の頃は島津氏の暗黒時代で、大隅の肝付・新納・薩摩の渋谷党などが島津に対抗し、外からは伊東や相良の両氏も三州をうかがっていた
この時、三州守護職をめぐって伊作家の島津忠良と薩州島津家の実久との間に紛争が起こり、薩隅の諸豪も両陣営に分かれて争うことになった。守護職にあった勝久は、忠良の嫡子貴久を養子とし、実久を退けて忠良に政権を委ねた。貴久は、第6代太守となり、義久・義弘・歳久・家久と、4人の優れた子がこれを助けた
平安時代の末、薩摩の在国司として高城にあった大前氏は、東郷斧淵城の根拠地から勢力を祁答院に伸ばし、中心部、宮之城の地に虎居城を築いた。宝治2(1248)年、渋谷氏が関東から下向し柏原に本拠を置き、大前氏に取って代わった
戦国時代になると、遠く姶良平野に勢力を伸ばし、帖佐城を根拠地として島津氏と戦ったが、祁答院に退去し、13代渋谷良重死去後、永禄12(1569)年、島津氏の大口進出を見て一族は降伏した
〇大名検地と民衆-4 2024.2.12(月) (筆者:野村秀一)
【大名領地成立の由来】
荘園制が崩れてすっかりなくなったのは、太閤検地を行った豊臣秀吉の時代なので、鎌倉・室町・戦国の世と、ずいぶん長い年月の過程を経る。荘園に代わって現れたのが大名領地である。ここでの民衆の境遇は、一体どのようになったのであろうか
複雑で長い過程を理解するため、徹底的に単純化して見ていきたい。大名領地成立の経過は、二つに分けて考えられる。一つは地頭の荘園蚕食(さんしょく)による荘園の変質と、もう一つは守護が自分の管轄国を領国化していった過程である
地頭による荘園の変質を物語る例に下地中分(したじちゅうぶん)と言われるものがある。これは、武家勢力が伸長するにつれて、地頭の荘園蚕食が進み、荘園領主との間に紛争が多くなると、領主は地頭請(うけ*1)によって年貢を確保しようとした。しかし、地頭が約束を果たしてくれない場合が多くなった
そこで、鎌倉の中頃から荘園内の土地の一半(いっぱん:二分した内の半分)を地頭に与え、その代わりに残りの土地には手を出さないことを約束させる、いわゆる下地中分が盛んに行われるようになった。しかし、地頭の荘園蚕食をの勢いを阻止することはできなかった
守護勢力が増大するが、その原因は、足利尊氏の始めた半済令(はんさいれい)といのがあり、これは、一定の国々を指定して、その国の荘園年貢の半分を兵糧米として守護に与え、配下の武士に分給させるものであった
これは、戦時の臨時の処理で地域も限定された一年限りのものであったが、これがやがて永続的なものになり地域も全国に広がっていった。また、守護請といって、守護が荘園年貢の徴収を領主から請け負うことも広く行われるようになった
こうして守護は、領国内の土地を次々に支配下に入れ、更に荘園に立ち入る権利も獲得した。このような勢いが進んで室町時代には、守護の管轄国を「領国」と呼ぶまでになっていった
応仁の乱後、100年間の戦国時代は、いわゆる下剋上の社会に士一揆や一向一揆、実力ある者が守護大名を倒して自ら大名となり、戦いを通じて領土を広げ、新しい領国支配を行うようになった。これが島津氏のような大名である
*1:地頭が一定額を領主に納めれば、領主は地頭が所領で好き勝手やることを認めると
〇荘園の百姓-3 2024.2.5(月)(筆者:野村秀一に一部加筆)
【重要だった百姓の存在】
班田制が崩れ、全国的に荘園が広がり、我が薩隅日三州にも島津荘という大荘園が出現したことを前回述べた
荘園制下における百姓の身分、境遇はどのようなものであっただろうか?
荘園は、その持ち主である領主、荘園内で事務・雑務を司った荘司(または庄司)、それに荘民即ち百姓から成り立っていた。もちろん、大部分は百姓である
領主の収入は、百姓の納める貢納、即ち租税の外、労役が主たるもので百姓の務めは重大である。元来土地は、一定の年貢を納めるべき条件がついていたので、耕作させて頂く領主様に上納するのは当たり前であり、ご恩に報いる義務がある、という考えであった。こうして百姓が、本家(領主の上に当たる)-領家に服従する関係が生まれた
百姓の境遇のもう一つ大切なことは、律令時代の国家の公民と違って、今や荘園という私有地の私民である。荘司などと言うと如何にも公の役人のように聞こえるが、本当は、私領の事務員である
明治2(1869)年、徳川征夷大将軍が、天皇に藩籍(土地、人民)を奉還した明治維新までこの状態が続いたのであった
これから荘園に代わって、島津家77万石などというあの大名領地が成立していく事情と、その
良民の生活ついて述べる。
これからは、三州や宮之城の郷土史に従って述べることになる。しかし、やはり全国的視野で考えていきたい。
土地制度の遷移について書くのは大変やこしいことである。大化改新前の氏族制度、大宝律令、班田収授制、荘園制と、これから取り上げる大名領地とそれぞれの特質を掴むことが大切である。
大化改新で否定された氏族という血縁集団は、消え失せたのだろうか? これを無視して班田が出来るのか? 荘園が累積して大荘園となっていく時の血縁集団はどうなったのか? 家戸・村落などの共同体は実際にどうなるのか。昔の人々が実際にどうしたかを想像しながら歴史を読んでいくと、いろいろ学説が別れる理由がわかるような気がしてくる。
次回から、代々農業を営なむ方々の、祖先が生きた時代の様相、境遇が理解できるように、大名領地、検地、幕藩体制下の農民について述べていく
〇荘園の百姓-2 2024.1.29(月)(作者:野村秀一)
【島津荘の発展】
前回は天平15年の格(律令の改正法)で墾田の永代私有が許され、平安時代になると墾田の方が一般的となったと述べた。特に薩隅両国は、長く墾田制を許可し、天平2年3月大宰府(九州の政治を行う役所)の言上(ごんじょう)に、
「大隅・薩摩両国の百姓、建国以来未だ班田せず、其の有する所の田はことごとく墾田で、相承(う)けて耕作し、改めることを願わない。若し班授せば、恐らくは喧訴(けんそ:声高にうったえる)多からん」
とあって、旧来のままとし、ようやく延暦19(800)年に至って、両国百姓の墾田を収めて班授することになった。
しかし、この頃は、班田制は全国的に退廃期に入っていたので、薩隅ではどの程度実施されたか疑問である。恐らく元の墾田に戻り、地方豪族の兼併に任されたと思われ、平安時代の末には、薩隅の殆どが荘園となったであろう
要するに班田制は薩隅を素通りし、とうとうたる天下の荘園化の大勢に押し流されていったわけである。しかも、他国のように小荘園として分立せず、正八幡領と島津荘園との二大荘園の対立となった
島津荘は、1024年頃、大宰府の役人・平季基(たいらのすえもと)が今の宮崎県都城付近の荒地を開発して、藤原頼通に寄進したのが始まりといわれている。寄進というのは、自分の土地を有力な貴族や寺院・神社の名儀にして、自分はその土地の管理者となって国司や豪族などの介入を防ぐ方法である
都城付近は、土地が肥えており、昔、島津駅の置かれた所で地方の中心地であった。
島津荘は、薩隅日三州にわたり8,000町を越え、三国総田数15,000町(15,000 ha)のうち、半分以上の8,000 haを占めるまでに至ったもので、当時いかに摂関家である藤原氏の勢力の大きさがわかる
摂関家は、自分が島津荘の領主となり、自分の氏神たる春日神社を本家としていた。島津荘は本荘と寄郡(よせこうり)から成り立っている。寄郡とは、豪族たちが領家に寄進した土地のことである
文治元年(1185)、源頼朝が平氏を滅ぼし、諸国に守護地頭を補佐する権力を握ったので、平家の系統の地頭が亡びて空きになった、いわゆる平家没官領に自分の家人を補充していった
〇荘園の百姓-1 2024.1.22(月)(文責:野村秀一)
【班田制とその退廃】
郷土に虎居城や時吉城を築いた大前氏と、鎌倉幕府に任命された地頭の渋谷一族などとの抗争の舞台になったのは、平安時代から鎌倉時代にかけてのことである。この時代から現代までの歴史を、民衆の側から見ていきたい
大宝令の班田収授法の目的は、民に田地を給与することであり、「衣食足って礼節を知り、恒産(一定の財産)なき者は恒心(変わらない正しい心)なし」という格言は、この立法の精神であった。我が国は、教化法*1と言われる唐法の均田法をまねて口分田制を立てたのであった
口分田(≒班田)の額は、良民以上の男に二反、女には三分の一を減じて一反百二十歩を給するのを原則とした。受田の年齢は、男女ともに6歳であり、死に至るまで年齢や健康によって額に差がないところに、当時の統治者の給田に対しての精神が窺われる。しかしながら、このような教化の精神に貫かれた班田制は、時代の流れと共に崩れ、天慶時代(938~946)には、班田制は全く行われず、逆に荘園*2が増大するようになった
なぜ、班田法は失敗したのであろうか?要は班田制の公地公有の原則が、自分の土地を持ちたいという人間の本能を抑えて新地開拓の旺盛な活動を抑制したたためと見られ、逆の時の政府は、天平15(743)年の“格”*3によって墾田の永代私有許可したのである。
天平15年は、奈良時代の半ばに大宝律令が発令された年(701年)から40年そこそこで、全く律令の原則と合わない法律である“格”を出さなければやっていけない状況が進行していたのである。平安時代(794~)になると、墾田のほうが原則となり口分田は例外の如くなった
班田制というのは、田地を民に給与したり、取り上げる収公(租税や没収)とが並んで行われることで成り立っていたが、給与の方は、土地開拓の必要と権門勢家の要求に推され、次第に寛大となり、反対に収公の方は実行が困難になって行った。
こうして開拓できるような未開地は殆ど全部権門勢家や寺院などに分割されるようになった
次回は、班田に代わって荘園が百姓にとってどんなものであったかを見ていく
*1「教化法」:道徳的、思想的な影響を与えて導き、望ましい方向に導く考えの法
*2「荘園」:貴族や寺院などにより国から認められた開墾や寄進による私有地。土地の開拓・経営のため農民
を支配して使用権を与え、年貢を納めさせた
*3「格」:荘園経営に際して国が認めた、規則や法律
〇盈進館と巌翼館の創立(筆者:野村秀一氏<郷土史家>) 2024.1.15(月)
みたして進む そのかみの
佳(よ)き名残れる学舎に
興(おこ)る みくにの行く末を
祝いてはげめ わが友よ
これは鮫島守一郎作詞の元の盈進小学校校歌の四番で、幕末の安政五年(18新たに、「故郷の歴史」を設ける。これは、昭和60年頃、宮之城役場発行の「広報みやのじょう」に記載されたものを紹介するものです。作者は、その項目毎に紹介します。
58)宮之城15代領主島津久治が采邑(さいゆう:領地)のお仮屋の地(現盈進小学校)に創立した盈進館を指しています
久治は盈進館を文館とし、別に武道を練る武館として巌翼館を建てているのは現存している文武館略図によって明らかである。建設費一万二千余両、敷地15aであった。
盈進館は、学長1、教員5、書記2、小使2の計10人の職員で、70人の生徒は普通学生、授業料なし。
教則・初学者は皆四書を読み終えると五経・歴史などを読みました。四書とは大学、中庸、論語、孟子のこと。五経は易経、詩経、書経、春秋、礼記です。授業時間は授読、復読、習字各2時間で計6時間
登校は午前10時頃、下校は午後4時頃で遅刻者は登校を許さず、勝手に欠席すれば叱られました。試験・読書については、春秋二度、習字は毎月五日目に試験がありました。領主も時々学館を訪ねて、その時には教員の講義があり、お供の役員たちも一緒にそれを聞きました。
学館の基本財産はなく一切の経費は領主が負担し、学業優等の生徒には筆・紙・墨などを与えて勤勉を奨励した
明治4年(1871)第18郷校、翌5年学制が公布されて変則小学校となり、明治12年館舎は改築されて盈進小学校と称しました。館名「盈進」は「水が科(あな)を満たしてから初めて進むように順序をふんですすむ」の意味で中国の古典孟子から出ているようです
幕末、宮之城に文武館が現れたことは日本の近代化という世界史的背景をもった明治維新の訪れを語るもので、宮之城の民衆の生活も大変動を受ける前ぶれです。
巌翼館は変遷があり、昭和53年1月文化センターの地に再建されて「巌翼館」の扁額(へんがく)がここに掲げら、今日(令和6年)まで続いています