「今は昔・俚諺」のページを新設し、郷土史研究家であった平田通氏が広報誌で連載した昔の言い伝えを、また、文化懇談会会員であった中原光明氏が、青年時代より採話した俚諺を含めて紹介していく

〇俚諺-9 2023.12.25(月)

 

「やまいも堀い」

 

酒の上での「くだまき」を山芋(やまいも)という。山芋を掘る人は、二月三月の蔓(かずら)が枯れてしまった冬山の中で、途切れ途切れになった蔓をたどりながら「こっちへ行って、またあっちへ行って」とブツブツ独り言を言いながら山芋のびわ口を探り当てる。

 

そして真っすぐ掘らないで横から間口を取って掘り始める(細長いので、折れないように大きな穴を掘る)。酒の上での争いも、最初はたわいのないことから始まって、後は一直線に山芋へと発展する。昔の人名付けて「やまいもほい」

 

「お茶と情けは、こいごいと」

 

人に差し出すお茶は濃いほうが良い。このように人情も厚いほうが良い。田舎では、お茶も飲まずに急ぐお客様に対しては、「お茶一杯(いっぺ)ちゅうこっがごあんど」と言って引き留めた。お茶を一杯飲んいる間に、難を逃れたこともあるので、そうあわてなさんな!という意味であろうか

 

「さだっ(俄雨)ちゃ、片袖ぬれて片袖ぬれん」

 

梅雨から夏場にかけては、にわか雨が多く地域によって降ったり降らなかったりする。極端に言えば、ひとりの人でも片方一方しか濡れなかったことを言ったもの

 

「くけと弔いは先にゃ立たん」

 

「くけ」は後悔のこと。「後悔先に立たず」で後から悔やんでも始まらない。お弔いも、人の没後について廻るもので、先に立たないものである

 

「一ちゃこん」

 

当地方では「一つ」ということを「いっちゃこん」と言っていた。川内などでこの言葉をうっかり言うと「宮之城一ちゃこん」と言って笑われたものである。但し、二ちゃこんとは言わない。

「唯一の」とか「たくさんある中で、その中の一つ」という事を強調するときに使われた言葉

 

「夜止(よや)んの雨は、長ごはもてん」

 

夜の降りやんだ雨は、近日中にまた振り出してくる。お天気の回復とまではいかない

 

 

〇俚諺-8 2023.12.18(月)

 

「流れ三里」

 

昔の集落を流れる用水路は、水田用水と生活用水を兼ねていた。町内にも古くから開削された二渡、時吉、一ツ木、永山(広瀬)用水路などがあり、これは日常生活(洗い物、水浴、家畜用飲料)に利用されていた。

 

各人家の前には「〇〇んこっ」または、「こじ」と言われる洗い場があり、平たい大きな石が置かれ用水路への昇降口となっていた。

 

この用水路には川藻や水ごけが繁茂し、かつ底辺には小石や砂など堆積していたので、汚水も三里(約12km)流れる中に浄化されると言ったものである。

現在、側溝などの整備が進み道路、家庭の生活排水の流入によってこのことばは死語化されてきている

 

「三十三夜待ち」

 

古くは「朝鮮の役」から日清・日露・太平洋戦争まで、多くの子弟が戦争に駆り出された、家庭を守る父母や妻などが毎月二十三日には村の社に集まり、各戸思い思いの手料理を持ち寄って酒を汲みながら前線の子や夫を偲び無事息災を祈った行事でもあった。

各地に伝わる「虚無僧踊り」もこれに由来していると言われている

 

また、出陣の朝、その母や妻たちは柳の木を井戸端に手植えした。柳は枝葉がしだれて土に着くため、行って帰るというまじないが古くから伝えられていた。現在も、井戸端にある大きな柳の木は、夫や我が子の帰りを待つ母や妻の願いが込められているのである

 

「九十九郎」

佐志田原地区に伝わる話であるが、この田の持ち主の源吉爺さんは田植の準備に出かけたそうである。このような区画の小さい田んぼは、牛で鋤(す)き起こしが出来ないため、勢い鍬(くわ)で田作りをせねばならないが、十時のお茶の時刻になったので着ていた雨具(蓑<みの>タカンバッチョ傘)を外して畦に置き、煙草に火をつけた

 

同時に、下から耕した田を数えだしたがどうしても一枚足りない。何回数えてもこんなことはない筈だと思いながら立ち上がり、タカンバッチョ傘を取るとその下に一枚隠されていた。

 

 

この故事から、百枚に一枚足りない「九十九郎」という地名が付けられたという。同じような棚田が石川県輪島にもあり、ここは「千枚田」として当地方の観光名所として売り出されている

 

〇俚諺-7 2023.12.11(月)

 

「麻がら一本もはえん(生えない)山(入来峠)を越ゆっ時ゃ肩を代ゆっ」

 

昔の道中の難儀を言ったもので、麻がらとは、麻の皮を剥いで残った茎のことで極めて軽いものである。なにせ、歩行の旅であるので麻がら一本を担いでも、入来峠を超える頃は肩をかえる、という意味である。昔の旅は、歩き易いように、荷物は振り分け荷物(なんこやし)にして肩に乗せた

 

「だれ馬(うんま)い、水喰(く)れ」

 

昔の荷役の中心は馬で、荷物を馬に背背負わしたり、馬車を挽かせるなりして荷物を運んだ。峠を登り終えると馬の休憩所があり、かいば(飼葉)をやったり水を飲ませたりした。藺牟田の小平坂には、現在でも「水呑せ」というバス停が残っていた

 

「話ゃごま塩、握飯しゃ空喰(からぐ)い」

 

話には尾びれを付けて語るので、相当の待遇があると考えていたが、実際に行ってみると、握り飯も空喰いであった、という意味で、昔の求職、求人の時の約束違いを言ったものではないだろうか?

 

「キセルの根鉢(こんばち)で、藪払い」

 

昔、金太爺という山もちどんが居たが、少々なまけ者であったそうな。山の下払いをすると言って朝出かけた。自分の持山のてっぺんに登り、あの山裾から中腹までを午前中に、中腹から頂上までを夕方までに下払いすると、キセルの根鉢(雁首部の火皿か?)で示しながら段取りをしていたが、そのうち夕方になったそうである。

このことから、工面だけで何もしないことを「キセルの根鉢で藪払い」と言っている

 

「空重(からじゅう)で戻すっな」

 

 

空重とは、空のお重箱のことであるが、昔の田舎の慶び事や法事の時など、重箱にはお餅やおはぎ、新米など差し入れするものであった。このお返しには、必ず空の重箱を返すものではないと教えられ、なにがしの駄菓子類を入れて返すのが礼儀と言われた(現在でも、お寺での法事では、お米を持って行き、お返しには駄菓子などが入っているのでこの言い伝えは今でも起きている)

 

〇俚諺-6 2023.12.4(月)

 

「せかせかどんも一代(いっで)、ぬらぬらどんも一代」

 

いつも、せかせかと忙しく世の中を過ごさねばならない人と、のんびり屋(当地では、「気ぬったどん」と言う)で明日もあろうといった人とても同じく、一生は一生である。

性格は天与の物であり、それぞれにその人に合った人生が拓かれていくであろうし、終わって見れば五十歩百歩で差はなかったということである

 

「鋏(はさん)と馬鹿は使いよう」

 

鋏は使いようで、切れたり切れなかったりする。特に昔の茅葺屋根に使う「家ばさみ」は特に要領を必要とした。茅葺が済んで、最後にこの家ばさみで茅を切り揃える仕上げのことを「ほめる」とも言っていた。

そのハサミと同じように、愚かな者も使い方次第であるということで、能力のない者を馬鹿にした言葉ではなく、使う側の力量や能力を言ったことばである

 

「棒(ぼ)の別れ」

 

昔の集落の共同作業(例えば農道、用水路の補修)には、夕方になれば飲ん方の肝入ろどんが居て、庭むしろで豆腐を肴に酒盛りとなるケースが多かった。

だが、これと逆に何事もなかったように、さらりと別れることを「ぼの別れ」と言っていた。一杯やることを期待していた酒好きの人たちを悔しがられた

 

「雨ぎゅうり、日なすび」

 

雨年は、きゅうりの成長が良く豊作である。逆に日年は、ナスが豊作と言われている

 

「薪(たん)もんなすかせ、子供(こどん)なだまかせ」

 

薪木を燃やすには要領があって、慣れない人には難しい。現在は、ガスや電気で殆どの煮炊きができるが、昔はご飯にせよ風呂、その他煮物は全て薪木を燃やして煮炊きをした。よく燃やすには、風がよく通るように薪を組合すことがコツであった。

 

「有(あ)いよで無かとが銭(ぜん)、無かよで有っとが借銭」

 

 

人の貧富は外見から判断するのは難しいが、裕福な人は意外にすくなく、借金をしている人は多いようだということ。人は見かけによらないこと

 

〇俚諺-5 2023.11.27(月)

 

「おかしかむぞか」

 

見た目では目もと涼しく眼もパッチリと言った美人ではないのだが、人を惹きつける顔、人をいう。現在では、こういう人が売れっ子になってテレビなどを賑わしている。誰でも、身の回りにこのような方がいることを実感することと思う。やはり、明るく前向きで、話やすかったりで、楽しくなる人が共通点ではないだろうか

 

「降いごっ、湧っごっ」

新築家屋の棟上げ当日、丁度雨にたたられた場合、縁起直しに「降いごっ、湧っごっ」と言うが、「雨が降るように良縁がありますように!」「地から水が湧き出すように金運に恵まれますように!」と言った願いで、凶事を吉兆事にとらえることことである。「島津雨」と同じく験(ゲン)をかついだものであろう

 

「オダメが違う」

 

昔の祝宴の時には、座がはずみだすと三味線のひける即席芸者と太鼓打ちどんが引き出され、おはら節、ハンヤ節、ヤッサ節など踊り手も多才であった。三味線の引き初めに音階を試すことを、「オダメを合わす」と言っている(管楽器のチューニングと同様なこと)。それから転じて、音痴の人の歌を冷やかすのに「オダメが違う」と言っている。(よく、役職への推薦などの時、不適であることや自分と肌合いが合わないことも「オダメが合わない」などとも言っていた。これは、当人の誤用なのであろう)

 

「うったっ半分」

 

仕事を始めることを「うったっ(<打っ立っ>か?)」と言っているが、何かをしようと考えている時は、色々と工面したり横ヤリが入ったりして苦労するが、いざ始めたとなると半分は済んだようなものである。例えば、家を建築したりする時に設計段階では手間が掛かるが、始めたとなると一気呵成に進んでいくこと言ったものである

 

「おやしゃ豆じゃ、火起こしゃ竹じゃ」

 

ごく当たり前のことを言ったものであるが、昔は豆おやし(豆もやし)は正月の雑煮の材料にはなくてはならないものであった。各地に「豆漬」の地名が残っているが、こんこんと湧き出る清水に大豆を浸し、藁(わら)や菰(こも:わらで作ったムシロのような覆い)で目隠しをして囲めば、大体2週間位で立派な豆おやしができた。

 

現在の軟化栽培のはしりであったと考えられ、正月時のタンパク質の補給のため、古人が生み出した生活の知恵だったのだろう

 

〇俚諺-4 2023.11.13(月)

 

「十月の投げ高菜」

 

10月は暑くもなく寒くもなく、植物にとって成長に適した日和が多い。高菜を移植する際、投げておいても活着する。特に丁寧な植付でなくても立派に育つことをそのまま言った

 

「ちのもん(屑籾<くずもみ>)な、おっかんのもん」

 

昭和30年頃までは、稲の取入れは足踏脱穀機でこぎ落され、先に溜まった籾を“籾通し(ふるい)”でゆり分け、これを唐箕(とうみ⇒とん)にかけて叺(かます:藁で作った籾米を入れる袋)に入れた

 

“ちのもん”とは、籾通しで洩れなかったわら屑と一緒の籾のことであり、これは別の叺に集め、木枯らしの吹く日に北風に飛ばして藁屑と籾を選り分けた。これが刈り入れ後の農家の主婦たちの仕事であった。当時は日稼ぎもなく、主婦たちの唯一のヘソクリ(米)であった

この米で塩サバや干物と交換したり、子供たちは下着類を買ってもらえたものである

 

「ねしゅ聞っ」

 

世の中には、世間の人々に余り気を使わない独善的な人もいるが、こういう人の唯一の話し相手であり、気心を通じ合うことのできる相手を、昔の人は「誰々どんのねしゅ聞っ」と呼んでいた

 

「五つ子は足形まで憎か」

 

「耳の巣がほげていない」とも言うが、昔は“けすいぼ”(腕白坊主)が多かった。外にいるかと思えば裸足で家に上ったり、田んぼの苗床でメダカやオタマジャクシを掬ったり、いう事を聞かず知恵がついて人の迷惑を省みず何でもやってしまうが、犯人は足跡からすぐ誰の仕業かわかってしまう。年の頃五つ位の男の子に懲りて「かわいさ余って憎さ百倍」、足形も憎んだのだろうか?

 

「働き出しよっか、食(く)出せ」

 

戦前(昭和20年以前)の農村では、米が第一の換金作物であった。お米をたくさん売るために、主婦は麦、粟をご飯にまぜた。ひどい時は、米5割、麦5割ということもった。また夜は小麦を挽いてつくったダゴ汁やそば団子をつくり極力お米を浮かすのが、やりくり上手ば主婦と言われていた

 

因みに昭和2年の賃金表を見ると、石工・大工:2/日、日雇い男:120/日、同女:90銭、米4斗俵1080銭(1升当たり27銭)、普通の人夫賃金で45合の米が買えた時代であった

 

〇俚諺-3 2023.10.23 (月)

 

いずれも貧しい時代の俚諺であり、現代では殆ど使われないものであるが、その時代の生活、風習・風俗などが想像されます

 

「若う、ないやつろ」

 

正確に言えば、「お若くおなりになったでしょう」との意味であるが、戦前までは、お正月には「明けましておめでとうございます」の代わりにこの言葉が使われていた。

きれいに掃き清められた庭にシラスを撒き、門松が飾られた木戸口で行き交う人ごとに「お若うないやつろ」というお正月独特の挨拶が交わされていた

 

「正月や冥途の旅の一里塚」という俳句があるが、年を一つ若くなった気持ちで今年も頑張りますと言った先人たちの心意気ではなかっただろうか

 

「おとろしかもんな見たがっ」

 

野次馬根性を表したもので、こわいくせに何でも見たがるのが人の習性である。見なくても良いものをわざわざ見たばかりに、何日も寝込んだ人に話も聞く

 

「ひゅうたんから、胡麻(ごま)だしごっ」

 

ひゅうたんは瓢箪(ひょうたん)のこと。プスチックの容器がない頃は、粟、胡麻、胡瓜(きゅうり)、南瓜(かぼちゃ)などの種子の保存はひょうたんに入れて日当たりの良い縁側か、囲炉裏の上に吊るされて保管された。

その瓢箪から、粒の細い胡麻を出すのだからひっきりなしである。転じて、よく喋る人の表現や、子供が続けさまに生まれることの表現に使われた

 

「有っ時の米ん飯」

 

「江戸っ子は、宵越しの金は持たぬ」と言われているが、気前がよく、あればあるなりで、パッツパッツと使ってしまう人のこと

平素は麦を混ぜてご飯を炊くのだが、出来秋となると白米だけ炊いて食べてしまうことを戒めたものである。現在の米が取れすぎて困る時代には皮肉な言葉となった

 

「馬買うて二十日」

 

牛や馬を買うて、二十日間は大切に飼育するが、月日と共にぞんざいになってくる。生き物に限らず所帯道具や車、はては女房まで…。「初心忘るべからず」の古き言い伝え

 

〇俚諺-2 2023.10.16(月)

 

「三味線の無か家(うち)は多(う)かどん、琴(事)ん無か家は無か」

 

家庭生活も色々波乱が多い。子供の入学、就職、結婚、あるいは家族の病気、姑との不仲など生きているから、どんな家庭でも何らか悩みや事があるものだ

 

「富限者(ぶげんしゃ)三代、孫(まご)はちらく」

 

冨現者は金持ち、はちらくは乞食の意味。一代で成り上がった金持ちは、二代目までは親の感化でどうにかやっていくが、三代目は甘やかされ、華美になり乞食のような生活をおくることがある

 

「魂(たまし)ゃ使けどっ、とんこちゃ下げどっ」

 

頭はその時々で色々使わなければならない。とんこつは煙草入れ(いんろう)のこと。とんこつを下げる時は、話を打ち切る時である。物事には切り上げ時というものがある

 

「しょゆと下(くだ)い坂は、走らんやちゃおらん」

 

しょゆとは酒席のこと。酒好きの人は、取るものもとりあえず、着るものも着あえず夕方は落ち着かない。飲めない人が酒好きを皮肉ったのか、奥様方のうらみか、今も昔も変わらないのが世のならい

 

「もえんでん、とっ」

 

昔の囲炉裏には、火のおきい用として割木の大きいものや、木の根の割れないものを必ずくべてあった。これは他のたき木が燃える時に少し燃えるだけであったが、なくてはならないものであった

このように、家には仕事はできないでも家の要になる人(例えば、年老いた爺さんとか婆さん)が居てくれた方がよい。黙っているだけでもよいから生きていてくいれた方が良いということを言ったもの

 

〇「投げ傘三日」 2023.10.9(月)

 

昔の人は、「掛け傘三年、投げ傘三日」と言った。その謂われは、雫を切って釘にかけておくと三年は使えるが、濡れたそのままそこら辺りに投げ捨てておくと、傘の骨が腐り金具が錆びついて三日しか使えないといことだそうである

 

昭和15年頃、英国のチェンバレン首相は30年前に買った古い蝙蝠傘を平気で使っていたそうである。大正年頃、盈進校の生徒花木善七(海軍少将、戦死)は、鉛筆が短くなると竹の柄をすげて同級生よりも56日は長く使っていた。やはり秀才は偉いものだと真似をしたそうだ。

 

昔の日本人も物を大事にしていたことは確からしい。次のような笑い話がある

「極寒に裸で過ごす法を研究した人がいる。天井に一本縄で結わえた大石をぶらさげ、その

下に座っているのだそうだ。いつ落ちてくるかと考えると冷や汗が出て、寒さなどは吹っ

飛んでしまう」

 

お菜(かず)がなくても飯を美味しく食べる法もあった

 「イワシを一匹焼いて、においを嗅ぎながら食べる。翌日も焼き直して嗅ぎながら食べる。一匹のイワシが何日も使えるわけである」

 

(注:似たような笑い話もある。「父が『塩漬けの魚は二度おいしいと言う。その訳を子供が訪ねると、最初は飯がうまい。その次に水がうまい』」

 

高度成長時代には全く迂遠な不合理な話であるが、あまり合理主義ばかりになっては世の中が味気ない気がする。投げ傘三日も、買えば傘はいくらでもあるし、お金を持っているからケチケチするなと言えばそれまでだが、消費は美徳という時代は過ぎたように思う

 

数十年前、牛飼いの名人に何を食わせるのですかと聞いたら、「私は心を食わせています」という答えであった。何となくわかるような気がする

料理の秘訣は、物を活かし人を活かすであるそうである。それは心を込めて料理することに外ならない。インスタント食品は便利だが心が失われることは否定できない

 

〇「たっちんこんめ」 2023.10.2(火)

 

昔は忙しかったのか、気が短かったのか「たっちんこんめせんか」と怒鳴られたものである。この語源は、「太刀の来ぬ間に」で相手の太刀が頭に落ちる前に行動せよ、という寸秒の早さのことであるそうだ。別に、「たっきせんか」「いっきせんか」という同じ意味の言葉もあった

 

これは「唯一騎」というのを縮めたものだそうで、急々の出合一騎でも馳向うことを言うのだそうである(注:「一騎」は「いっき」「たんき」を表していると推察しますが、「唯」「出合」を含めて国なまりでは、どんなに言うのか分かりません。ご存じの方はご教示ください)

 

宮之城に「いちどんの川内(せんで)行き」という言葉が残っている。その由来は、市次どんに川内に行かなくてはならない急用が起きた。その用向きは全く厄介なことで、どうも気が進まず明日にしようと思い立った

 

翌日もやはり気が進まない。しかし、行かねばならぬ市次どんは大きなため息をつき、「昨日行(きのうい)たちょれば今日は行っぐれいらんじゃったどん」とつぶやいたことから、あの時すれば良かったと愚痴るのを「いちどんの川内(せんで)行き」というようになったそうである

 

世の中は変わっても、日常生活の中にこんなことに出会うことが多い。例えば人に怪我をさせたとする。早くお詫びに行かなければと思う。しかしながら行きづらい。どうせ行くのだから今夜行かんでも、明日儀礼を正して行こう

 

しかし明日になると一層行きづらくなる。何故早く駆けつけてくれなかったのかと詰問されるのが怖い。一日延ばし、二日延ばしにしているうちに、相手方の感情が硬化する

町の社会福祉協議会に設けられている交通事故相談所には、次のような話が多いそうである

 

交通事故で入院した。相手が付きっきりで看護し、親族の人たちも入れ代わり立ち代わり見舞いに来る。治療費も出すし、栄養のある物などもドンドン買って来る。それこそ親身も及ばぬ心使いをする。だんだん情けが移って余分の請求などする気持ちは起こらなくなるのだそうである

 

昔、太陽と風の神が力比べをした。下界を通る旅人の外套を脱がせる競争である。先ず風が一挙に暴風を起こして外套を脱がせようとした。旅人は、これは大変と外套の襟をしっかりと押さえ、岩影に逃げ込んでしまった。次に太陽の番になった。太陽はニコニコ顔でポカポカと外套の上から旅人を暖めた。旅人は歩きながら次第に汗ばみ、外套を脱いでしまった

(注:この話は、「たっちんこんめ」とどの様な繋がりは解らない。行動が早くても「拙速」は問題!という事だろうか)

 

 

「たっちんこんめ」の話から妙な話になった。とにかく、やるべき事は直ぐやるという習慣をつけることは大切である。そもそも昔の薩摩人が「太刀の来る前に」と表現した形容の巧みさと気概を現代人は忘れてはならないのではあるまいか

 

〇御神体異聞」 2023.9.25(月)

 

湯田温泉は、昔虎居海老川(えがわ)の青竜山大円寺のお坊さんが発見したと伝えられ、胃腸病のほか神経痛、皮膚病、その他万病に効くと言われる。戦前、神経痛で働けない青年を「タゴシ(昔の百姓の作業着)」のまま一日中入れっぱなしにし、握り飯もお湯の中で食べさせていたところ、十日目頃から快方に向かい一カ月で全治したこともあった

 

領主の奥方も愛好され、「コジュサァ湯(奥方湯)」というのがあった。昔、洪水があって、菱刈村湯之尾温泉の湯の神が流れ着いたので、湯の元の人たちがその御神体を祭ったところ、湯之尾から返還交渉があり仕方なく変換した

 

天保3年大洪水があり、また御神体が流れついたので湯権現を建立してお祭りした。湯之尾の人たちも不思議に思い、御神意の程を察して今度は返還交渉に来なかったという。昭和期の大洪水では温泉街と運命を共にされて、お流れ給い我々を悲しめたが、湯田区長の努力によって山水園付近で発見することができた

この湯権現のお在します限り、湯田温泉の復興は立派に達成できると信じ湯之元人士の奮起に期待した次第である

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楠木神社は明治101月、宮之城区長辺見十郎太が勧請したもので、その御神体は楠公神像と肌の守りであった。神像に高さ7寸、鎧姿で太刀の長さ48分、兜回り41分、彩色を施してある肌の守りは高さ25分、桧柾目の彫刻で神鏡造り、正面に熱田神宮、春日神社、天照皇太神社、鹿島神社、香取神社を記し、このお守りは竹簡製の容器に入れてあり竹筒の胴は絵布で捲(ま)き、蓋と底は銀を着せてあった(銀を延ばして巻く)

 

終戦当時、占領政策によって神社が軽んぜられ、管理が疎かになったので楠木神社は子供たちの遊び場となり、いつしか肌の守りは紛失してしまった

楠公は神戸の湊川で討死し、敵将足利尊氏は遺体と肌の守りなど遺品を正行に送り届けたという。本当に貴重なものであったと思う 

 

御神像は湊川の広厳寺に安置してあったもので、後世の作であろう。一説には彩色と白木と二体があり、宮之城の御神体が本物といわれている。御神体が広巌寺から鹿児島に伝わった由来に二説あるようである

 

〇万年暦の引破れ(ひっきゃぶれ) 2023.9.18(月)

 

昔、寺小屋の先生が「人間は、忍耐の二字を守れば間違いない」と講義した。弟子の一人が「先生“にんたい“というのは二字ではなく四字でしょう」という。「忍耐というのは、何事にも腹をたてずに耐忍(たえしのぶ)という二字である」

 

弟子は「先生、”たえしのぶ“なら五字になりますが…」というので、先生はついに腹を立て「馬鹿者、お前のような判らず屋はもう来るな」と言って破門した

 

「ならぬ堪忍するが堪忍」と諺にもあるように、忍耐は二字であろうが四字であろうが何も問題はないのに、二字が四字となり五字となって遂に先生が腹を立てたことが面白い

「論語読みの論語知らず」というのはこんなところから起こったのかもしれない

 

昔は、論語を読める人はひとかどの有識者として尊敬されていた。論語を読める人が論語のまま実行しないからといって責めるのは酷であろう

 

宮之城にも「万年暦の引破れ(ひっきゃぶれ)」「知っちょいどん」が多いが、多分に軽蔑的な言い方をされているようである。これも論語読みの論語知らずと同じように、何もかも詳しいが実行せず、また実行する力量もないということであるらしい

 

しかし、実行力はなくても世の中の事を知る能力、記憶力が抜群であることは確かである。昨日聞いたことも明日は忘れる我々である。知ることを全部実行せよと要求することもこれまた酷である

 

「棒ほど願うて針ほど叶う」というのが常識ではないだろうか。我々は「万年暦の引破れ)」に聞いてその中の一つでも実行して自分を豊かにすれば良いのである。そこに「万年暦の引破れ」の貴重な存在価値があるのではないだろうか

 

人間は何かのためになるように生まれて来たのだろう。「盗人にも三分の理」というが、悪いこととは知りながら出来心でちょっとの事が次第に大きくなる例が多い。失礼ながら出来心は誰にもある。一枚の紙にも裏と表があるように仏と鬼が同居しているのが人間ではあるまいか

 

盗人となった時は、鬼が強く出る時であることを我々は盗人から改めて知らされたと思うべきで、万人の中の一人である盗人から9,999人が警告を与えられ救われていると考えることができるように思う

 

〇「余(あんまい)いぢゃ」 2023.9.10(月)

 

昔から薩摩はおおらかで、少々のことは許し合っていたようである。今でも焼酎を飲んでからのことは大目に見る風習がある。しかし、一定の限度を超えると「余(あんまい)いぢゃ」ということになって、その時点で言動を改めなければ信用と敬愛を失うのであった

 

明治末期から大正にかけて、この言葉が流行したと入来町出身の弁護士重永義栄先生(紫雲山人)が書き残している。

 

 ・握い屁を、香水ぢゃと人にかがせる人は余いぢゃ

 ・尻にネフトが出来たと嘘を吐き、友達に見せブーッと一発かませるは余いぢゃ

 ・時間が来ても退庁せぬ村長殿は余いぢゃ

 ・店から買った大根を品評会に出し、一等賞をもらうのは余いぢゃ

 ・八字鬚(ひげ)いかめしい村会議員殿が、議案を逆さまに「エヘン」とは余いぢゃ

 

なんとも呑気な話で、さすがに現代のエチケットにはこんなのはないようだが、ひと昔前にはあったことである。屁ひいの名人の失敗談がある。よかぶって人前で一発やったら、正味が飛び出したのだという

 

八字鬚の議員殿の話で思い出すのは、選挙演説で秘書の書いた原稿を棒読みし「……ここでコップの水をグット一杯……」とやらかした候補者もあったそうである。

非常事態は別として、とにかく人生には限度というものがあって、あんまり幸運すぎると人から足を引っ張られるし、話し上手は風袋(ふうたい⇒「ふて」か?)を引いて聞くようになるし、真面目過ぎると馬鹿正直、能無しと言われる

 

大相撲も勝ちっぱなしばかりでは、いつ負けるか楽しみにする人も出てくる。南洲翁や義経も最後が悲運だから親しみと、惜しいという気持ちが湧くのではないだろうか!

赤穂義士も、全員切腹になったから「惜しい」という気持ちが湧くので各藩で望んだように無罪となり、再士官したならが大勢の中には気の弛みから間違いを起こす人も出ようし、今日のように持て囃されていない、という考え方もあるようである

 

とにかく人間である以上間違いのない人はいない。勿論最高に生きようと皆努力はしているのだが凡夫の浅ましさでそうはいかない。南洲翁が残された「己を愛することは、良からぬことの第一なり」というような心境にはとうてい到達し得ない

 

ある瞬間には、これを至言としても直ぐ貪欲と計算の心が出てくる。私の貪欲にブレーキをかけるのが「余いぢゃ」という言葉である

 

 

〇「馬鹿ひがん」 2023.9.4(月)

 

やはり日本人は、まさかの時には神頼みをする習慣がある。学生は天神さま、商店街は恵比須さま、若者たちは出雲の神様。毎年の元旦も二千万人が神社、仏閣に参拝したという

 

出雲の神様の由来は、須佐男命(すさおのみこと)が姉の天照大神から追放され、出雲の国簸川(ひのかわ)に来た時、八岐の大蛇(やまたのおろち)に喰われようとする老夫婦の娘・櫛稲田姫(くしいなだひめ)を救って妻にしたという神話から発している

 

八つの顔の大蛇とは、ツチノコ騒動以上に不思議であるが、その大蛇に八桶の酒を呑ませ、フラフラしているのを退治したという話である

おそらく、豪族の若者八人が略奪結婚を仕掛けたのだと思う。結婚式の時詠んだ歌か?

「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を…」と言うのである

 

昔の女性の力は太陽の如くであった。命は櫛稲田姫という太陽を得て八重垣深く大事にしたのだろう

出雲大社は、命夫妻とその子大国主命などを祭ってあるし、10月には全国の神々がここに集まって日本国中の男女の縁を結んでくださる。これは「広益俗説弁」「神路事触」という本にあると聞く

 

ところが昔から「馬鹿ひがん」という言葉がある。結婚式は秋の彼岸(9月)から明けて春の彼岸(3月)までの半年が気候もよく農閑期でもあるし適期であった。4月なっても嫁が来ない息子が「今年の彼岸も馬鹿ひがん」といったことから生まれたという

 

しかし、出雲の神様の御威徳は絶大で99%は結婚をし、子孫繁栄に精出しているのだからめでたいことである(少子化の現在ではその御威徳も低下してきているが…以下は昭和50年当時のことである)

 

更に新憲法で「結婚は当事者の合意によってのみ成立し…」となったので20歳を超えると親の承諾もいらず、恋愛結婚や試験結婚とかが大流行となった

しかし恋愛結婚は離婚も多く、アメリカの離婚率は日本の4倍であるから驚きである

 

やはり日本人は賢明で、結婚は当事者の合意のみによっては成立させてはいけないのである。

ともあれ、恋は思案の外というから、結婚は出雲の神様とも相談し、思案の内でやって「よか彼岸」が来るよう苦いたい

 

 

〇「考え方教室」 2023.8.28(月)

 

終戦後、「綴り方教室」というのがあった。作文が物凄く上達するので大評判であった。ところが300年程前、我が薩摩には「考え方教室」があったのだから面白い。然し、建物があったのではなく、畦道や街角で何気なく行われるのであった

 

先生はお馴染みの日当山侏儒どん。ある年、毎日毎日雨が降って仕事ができない。今で言えば1000ミリ以上も降っていたのだろう。伝四郎という百姓が、「地頭サァ、こげん毎日(めいに)降ってはやいきれもさん!」と云った

 

実は侏儒どんも困ったことだと考えてはいたが、どうすることも出来ないわけである。咄嗟に、「毎日毎日(めぇーにめぇーに)降いからよかとよ、こいだけん雨が一日(ひして)で降ってみよ、何もかいもヒン流るっじゃろうが」と云った。

伝四郎は「なるほどなるほど」と合点したという。

 

昔の嫁は大変だった。家族が多かったからである。炊事洗濯育児は勿論、農作業も一人前やる。姑、小姑の機嫌もとらねばならず、寝るのは毎晩12時以降、それから夫の機嫌もとるわけである。姑は躾と考えて箸の上げ下ろしまで注意する。嫁の方では「嫁いびり」と考えるわけでイザコザが絶えない

 

侏儒どんは、茶飲ん話に次のような話をするのだった。

「矢七の家は13人家族で、毎日大鍋で雑煮を作る。その晩も大根、からいも、粟、麦粉を入れて煮ていたが、あまり多く仕込んだので自在鍵の縄が切れ、鍋がひっくり返って灰神楽が舞い上がった。嫁が咄嗟に、『済ん申さん、あんまい仕込ん申したので…』とあやまった。

ところが姑が、『いやいや危ねと思った時、注意せんかったあたしが悪か』、そして舅がすぐ後をとった。『前々から新縄と取い替ゆと思うとったが、直(いっき)せんかった俺が悪かった』」

 

みんな悪い人ばっかいで良か人はおらん。そいで矢七一家は円満で毎日楽しく働いておる。お釈迦様は例え話をして教化されたというが、侏儒どんも、例え話をひいて考え方一つで良くも悪くもなると説いていたそうである

 

〇「鬼を縛った話」 2023.8.21(月)

 

旧泊野小学校から約3000m南に。鬼坂峯という所がある。昔から寂しい坂道で、峯の八合目あたりに鬼が住み、通行人を困らせていた。夜は人家の鶏などを盗んで悪さをするので、村人は鬼退治の協議をしたが、みんな尻込みするばかりであった

 

ところが、与兵衛という大力の男が退治に行くと申し出た。彼は近郷一番の力持ちであったが、博覧強記、知力にも優れていた。まず、鬼は、夜は神通力で百人力もの力が出るものなので、太陽の照る頃を見計らって出かけた

 

鬼は大きな目玉をギョロギョロ、牙を剝きだして「何しに来たか」と言った。与兵衛は「お前と力比べをしたい」と答えた。力比べの方法は、5m程の高さのある松を引っこ抜く競争で、先ず鬼の方から始めることになった

 

鬼は「何のこれ位のもの」と松の木に抱き付き、赤い顔をいっそう赤くしてウンウンと力んだ。神通力を失ったとは言え、さすがは赤鬼、ブリブリと根元から動き始めた。与兵衛は、頃は良しと、隠し持った麻綱で鬼の腹は幹に、手は上枝に、足は下枝に縛ってしまった。

そして、大きなヨキ(斧)を振り上げて、「長い間人間を苦しめた罰だ、覚悟せよ」と言った。

 

赤鬼は青くなって逃げようともがくが、手足を縛った枝は上下左右に押し曲げられたが、しっかりと結ばれた麻綱は、ますます強く食い込んで解けなかった。

鬼は「もう絶対に悪いことはしません。通行人の守り神となって人間に奉仕しますから許して下さい」と涙を流して頼んだ。「鬼の目にも涙」という言葉の始まりかも?

 

与兵衛は情けを知る男であったので、鬼の願いを許し命を助けてやった。その後、鬼は大力にものを言わせて、村人の井堰工事には大岩を運んだり、橋架けの時は巨木を渡したりして加勢をした

 

縛られた松は、鬼が暴れた時、上下左右に曲がったまま成長し、枝振りの良い一本松になり道行く人が「与兵衛松」「鬼が松」と称して鑑賞したという。人間も鬼のように約束を守ってもらいたいものである

 

〇珍しい名前 2023.8.7(月)

 

柊野の入り口に「筆落し」と呼ばれる所がある。昔は墓地があったとか…。現在は畑と山になっている。筆に関係に無い山なので、古老の他は、その由来を知らない人が多い

これは、昔、土地調査があって一区画ずつ字名を付け、課税台帳を作った時ここがあまりにも絶景だったので、書役が思わず筆を取り落とした所だそうである

 

人間も生まれると名前を付けるのだが、町村にも県にもみんな名前がなければ社会生活はできない。この頃は動物園の象やライオン、コアラ、パンダ、イルカまで名前が付けられるし、家庭の猫や犬にも、例えばミイちゃんとかチロなどとユニークな名前があるようになった

 

人間も随分変わった名前をつけられて困った人が多かった。昔、「凹凸」という青年がいたが、大抵の人が「デコボコ」と読むので困っていた(正しくは「とつおう」)

今頃、勘左衛門とか太郎兵衛などと付ける親はいないが、元来、衛門とか兵衛は宮中を守護する官職で源頼朝は右兵衛と言い、宗功寺の世功碑にも右府という文字が初めに書いてある

 

今では何兵衛という長い名は書くのに時間がかかる。「福岡佐賀長崎大分熊本宮崎鹿児島男」という名前があったそうで、これは「九州男(くすお)」と読むのだそうである。誠に物好きな親もあったものである。こういうのは家庭裁判所に改名届けを出すと「九州男」となるそうだ

 

これに比べると地名は実に優雅で、何かの因縁か由来によって名付けられるもいのが多い。船木には「恋の巣」という所がある。昔若者たちが恋を囁いた所であろうと伝えられている。

須杭の鶯山は、昔美声の鶯が居て領主に献上したことから、この名がつけられたそうである。現在も愛鳥家はここの鶯が一番優秀であると折り紙をつけている

 

平川の尾座原の「ためとも池」は、700以上の昔、鎮西八郎為朝が九州を平定した時、平川の人たちの為に池を造り、水田を拓いたという伝説が残っている。

「豆漬」という所は町内数か所にあり温川(ぬっご)とも言い、昔から温かい水が湧き豆を漬けて「オヤシ」を作った所で、そこの一帯をそのまま「豆漬」と命名したわけである 

 

このほか宮之城には珍しい名前も多い、特に学童は漫然としか知らないのではなかろうか。こんど史談会(古い時代の郷土史研究会)30数名で、これを一冊の本にまとめたことは面白い試みである

 

〇らくざん(楽山)どん 2023.7.31(月)

 

明治時代、佐志に大庭楽山という人がいた。山富限者で、毎年造林や下払いに何百人も雇っていた。黒木村から大勢人夫が出て働いてくれたので、黒木在の山林二町歩も寄付した。村長以下村民は大いに感激し、その山林内に記念碑を建て、「永久に忘却すべからず」と刻んだ

 

友人が「あなたは山で将来は楽をしますよ」と言ったので、成る程と合点し「楽山」と号するようになったという。佐志に人たちは、今でも本名を言わずに「楽山どん、楽山どん」と呼んでいる。身長は六尺豊であったという人もあり、そう高くなかったという人もいる。六尺以上あればお相撲さんクラスでもあり相撲取りになっていたのではなかろうか

 

その腕力は計り知れなかったと伝えられる。薪を積んだ馬がへたばったので「仕方がなか!」と自分で担いで帰ったということである。米俵を前後2俵ずつ担(にな)って運んだのだから四人力は確実である

 

担った「おこ(=かつぎ棒)」が佐志小学校に保管してあるという話があったので、先年実物拝見に行ったが、「昔はあったそうですが、いつの間にか行方不明になっています」という校長先生の話であった。その「おこ」の太さは子供の頭くらいで、10歳位の子供がやっと担げる重さだったそうである

 

昔は、串木野から馬で塩を運び佐志の米と交換していたそうで、馬方には帰りに握り飯を34個くれてやると大変喜ばれていた。しかし、楽山どんは一つしか呉れなかったので、馬方は「たった一つか」と不平顔だった。しかし、市比野あたりで夕食となり、竹皮包を開けてみると、一つは一つでも一升焚きの握り飯だから三食分ぐらいはあったそうである

 

何でもやることが大きく、飯椀もドンブリ鉢の大きさであったという。宮之城に天理教が布教された時、その説教所の材木を自分の山から切り出して一人で完成して寄付した。

 

日本に赤十字が発足した時、この地方で一番先に特別社員として加入したのも楽山どんであったそうで、力ばかり強い豪傑ではなく立派な文化人でもあった訳である

その子孫は、大庭姓で仮屋瀬に現存されている

 

〇「大西郷と司法保護」 2023.7.24(月)

 

「西洋の刑法は、専ら懲戒を主として過酷を戒め、人を善良に導くに注意深し、故に囚獄中の罪人をも如何にも緩やかにして鑒戒(かんかい:戒めとする手本、鑑)となるべき書籍を与え、事に依っては親族盟友の面会をも許すと聞けり…云々…」

 

これは、西郷南洲翁の遺訓の一節である。昔の日本の刑法は残酷極まるもので、火焙(あぶ)りの刑は勿論、釜煎(かまいり)、串刺し、車裂き、さては竹鋸で通行人に首を引かせる法、毎日一枚ずつ生爪を剥いで10日目に死に至らしめる法、斬首、梟首(きょうしゅ:さらし首)、遠島(島流し)、耳そぎ、入れ墨、所払い(追放)など、10両盗めば首が飛んだと言われている

 

南洲翁は不思議な人である。軍略では大村益次郎に及ばず、政治では大久保利通に及ばず、世界的視野では坂元龍馬に及ばなかった。鹿児島の無参和尚について佛道を修行したので、生と死のことについて「悟り」ができていたのではないだろうか。若い頃から幾度か辛酸をなめ、事々物々について修行したためでもあろうが、不世出の人物に神が与えた天性があったとしか解釈できない

 

大西郷教訓は、庄内藩家老菅実行が翁の話したことを死後箇条ごと書き留めたものと伝えられる。自分も三度遠島の刑に処せられ、切腹の下命もあった人だから罪人の処遇について前記の遺訓となったのかも知れないが、敬天愛人の理想が根底にある

 

さて、明治3415日、新政府は処刑者に対する試切りと人胆の密売を禁止し、同年9月入れ墨の刑を廃止している。121月死刑のうち梟首を廃止し翌139月には斬首の刑も廃止した。南洲翁の死後30年にして、監獄法(明治41年)が施行され従来の残酷なみせしめ刑から教悔主義に改められた。そして大正11年に監獄という名称が刑務所と呼ばれるようになった

 

監獄時代の囚人は赤衣を着せられたので「赤いしょ着い」と言えば鬼のように怖がられていた。戸籍簿も朱書きで罪名が記入されたので戸籍が汚れたと言った。初代司法卿江藤新平は、佐賀の乱で捕らえられ斬首の刑に処され、しかも梟首にされている。明治7年のことである。南洲翁は鹿児島でこれを聞き、政府の残酷な仕打ちを悲しんだという

 

南洲翁の首級は、別府伸介が介錯して下僕の熊吉に持たせ逃げさせたが、山下町の橋下の溝に隠したのを官軍が発見した。さすがに征討軍山県有朋陸軍中将、同川村純義中将は、征討総督有栖川宮熾仁(たるひと)親王に奏してねんごろに葬った

 

南洲翁は、明治22年憲法発布と共に国賊の汚名を注がれ正三位を追贈された。何故このように死後まで優遇されたのかあろうか?如何に国家に勲功があろうとも最後に叛(そむ)くものは絶対に許したくないのが感情である。

それは、南洲翁が刑に落ちた人も愛する心を持って更生を願ったという心情が、政府要人は勿論、国民全体に浸透していたためにほかならないと思う

 

司法保護司は大西郷遺訓の原点に還って熟読玩味(じゅくどくがんみ)すべきであると今更ながら痛感する

 

〇「おぎおんさあ」の由来 2023.7.17(月)

 

千数百年の昔、京都に疫病が大流行した。この時、神戸の明石から牛頭天王(ごずてんのう)を分祀してきて7月の夏の盛りに疫病神送りの祭りをやったそうである。

牛頭天王というのは、印度の祇園精舎を守る神と言われているが、本来は疫病神で、これを祭るということは、体よく疫病を封ずることであった

 

これで祇園精舎を守る神を祭るのだから「御祇園祭」と称し、薩摩では訛って「おぎおんさあ」というようになった。明治4年、廃仏毀釈令によって祇園寺は八坂神社と改称した。城之口の心岳寺が大石神社となったのと同じである

 

八坂神社の主神は八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治した素戔嗚命(スサノオノミコト)だが、これは牛頭天王と素戔嗚命を同一視する信仰からきているという。

疱瘡が流行した時は「鎮西八幡為朝御宿」と書いた紙を貼り出し、稲に害虫が発生した時は、「斉藤別当実盛」の人形を立てたのと同じように、祇園祭りは病気から身を守るための庶民の間から生まれ受け継がれた行事と言えよう

 

宮之城では享保201735)年、祇園寺が建てられ、毎年725日にお祭りがあったらしく幕末の頃には、上町、中町、下町の3つの町に増加し1年交代で行事を行ってきたようである。足利義満(約600年程前)の時代になると医術が発達し、将軍自身が「医王宝殿」の扁額を書いていたくらいだから、その頃から疫病退散の意味よりも、庶民の存在を誇示するためと、農民の田植が終わりホッと一息ついた時期と一致して、五穀豊穣、商売繁盛のお祭りになったと思われる

 

「おぎおんさあ」のあの日に、田の草取りをして稲の葉に刺されると盲目になると伝えられているのは、この日は村中の皆が休むように仕向けた宣伝であったろう。しかし、ご神体の先導を承る「悪喰い(あっくい)」に幼児を頭から噛ませると健やかに育ち、身が強いと伝えられるのは、千数百年の名残が引き継がれているのではなかろうか

 

〇「窮すれば通ず」 20237.10(月)

 

屋地松ケ迫出身の大浦兼武翁は、明治維新のころ一巡査から身を起こし知事、警視総監、通信・農商務・内務の各大臣を歴任し子爵に列せられた。しかし、明治10年の西南の役で、官軍別働第3旅団の小隊長として宮之城を攻めたので生涯郷里から憎まれた

 

その妹・やさ子は、宮之城の三家老平田家の長男孫一郎に嫁いでいたが離縁となった。孫一郎は西郷軍で熊本城攻撃に参加したのだから、南洲翁を従弟の大山巌少将が討伐に赴いたのと同じである。更に悲惨なことは、今一人の妹・とえ子の夫・山本直紀も西郷軍に参加し熊本県松橋で戦死し、兼武の弟佐助は16歳で西郷軍に参加して負傷している

 

明治10621日、官軍の宮之城攻撃が始まったが、その前に大浦小隊長は親戚に連絡し、女子どもは弥三郎岡の「こしがなか山」に逃げよと指示し、部下には絶対放火と盗奪を禁じ小銃は空に向けて撃てと命じた。懐かしい郷土を攻めることはさぞかし断腸の思いであっただろう

 

彼の銅像が盈進校に建ったのは死後9年、昭和27月であった。しかし、これも太平洋戦争で供出され、現在は台座に記念碑があるばかりである。翁死して60年以上経過し今や語る人もいない。有為転変時代の流れは誠に早いと思う

 

翁には幾多の逸話があり、家憲も残してある。強く印象づけられる言葉に「窮する勿(なか)れ」というのがある。「窮」とは穴の中で弓を背中に突き付けられ進退きわまるの意である。

人間誰しも困窮する時がある。翁も政争のため内務大臣を退職している。

しかし、「窮する勿れ」という言葉には非常な気魄を感じる。それでこそ一巡査から大臣、子爵まで昇ることができたのではないだろうか

 

日本には昔から「窮すれば通ず」という言葉がある。これは「窮したからといって諦めるな」という意味であろう。理屈から言えば、窮して通ずる筈はないのである。本当は、「窮すれば転じ、転ずれば通ず」というのを略して言うのだそうで、これなら理屈に合う

  

ともあれ、「窮すれば通ず」という言葉は、我々に希望を与える温かい言葉のように聞こえ

 

〇交通談義 2023.7.3(月)

 

「♪駕籠で行くのはお軽じゃないか…」忠臣蔵のお軽勘平の時代は駕籠に乗って道中した。足の達者な人は歩いて旅をした。明治時代になって江戸の和泉要助が人力車を発明して大流行となったが貧乏人は乗れなかった

 

明治11年に、本県に185台、44年に1611台と記録にある。宮之城では、明治36年、4台でお医者さんや花嫁さんが乗った。虎居町に芝居がかかると、役者が舞台姿で人力車に乗り町廻りをした。四っ辻で「今晩の芸題は何々、芝居小屋が割れんばかりのご来場を」と口上があり、のぼりや三味線、太鼓で景気をつけるので子供たちがぞろぞろついて廻った

 

自転車は明治7年、外国から輸入されたが、本県には明治40年僅かに171台であった。宮之城では、明治32年、山崎の黒肱先生が初めて買い入れ往診用に乗られた。その頃は道路が悪く速力を出せなかったので、事故は多くなかった。ただ晩に穴川橋から落ちて即死した人があった。無灯火禁止令が出てから事故は減少したが、今も昔も変わりなく酔っ払いが自転車に乗ったまま溝に落ちたりして怪我することが多かった。

 

自動車は明治33年、アメリカの在留邦人会から皇太子の婚約を祝い献上されたのが外車第1号である。明治40年には日本製の自動車が作られた。明治44には東京で82台とある。

本県では、本町の林田熊一翁が一番早く乗っていたが、鹿児島市の人(今村太平次)が大正元年、鹿児島・川内間に5台の自動車営業を始めている。林田さんは、大正710月、川内・宮之城間の営業を始めた

 

その頃から現在はどうであろうか。一戸に2台、3台は珍しくない。自動車の増加に比べて道路の改良は遅れるので交通事故が増加すると言われている。全国の死亡者16千人(S50年当時)、日清戦争の戦死者とほぼ同数である。日本は毎年日清戦争をしているようなものだ

 

これからも自動車は増加するだろうが、次の「人口100人当たりの国別自動車保有数」データを見て欲しい(S50年当時のデータ)

 日本:5.1    英国:20.2            仏国:23.0    西独:19.5

米国:41.4台 イタリア:15.1      スゥエーデン:26.1

 

経済大国である日本もイタリアの1/3、米国の1/8である。何事も人に負けたくない日本人だから増加することは請け合いだ。道路も広くなり舗装もされる。必然的に交通事故は増加するだろう。何故なら、交通事故は道路の改良舗装と正比例するという事実がある。船木の松寿園付近の広い舗装道路で10件近い事故があり、あの危険な紫尾山越え(旧328国道)では1件もないということがこれを証明している。要は運転する人の心掛け次第である

 

「走る凶器」「交通戦争」…あたら春秋に富む(しゅんじゅう:若くて将来<年月>が長い)青少年が、我々の家族・近所から短い生命を失っていく。親の嘆きも知らないで…

速度厳守、酔っ払い運転追放を世の親たちに代わって提言する次第である

 

〇子供の知恵 2023.6.26(月)

 

昔の言葉に「親はせっかん、子はきかん」というのがあった。中国の漢の時代に成帝という王が居た。張禹という利口者が王に取り入り横暴を極めていた。これではやがて天下の大乱になると心配した朱雲という正義感が張禹を厳しく罰するように成帝に諫言(かんげん)した

 

成帝は、朱雲が一番の寵臣を激しく罵るもんだから大いに怒り、役人に命じて朱雲を宮殿から引きずり出そうとした。朱雲は諫言をやめず廊下の檻(てすり)につかまって動こうとはしない。ついに檻が折れて庭に転がり落ちた

 

それから、厳しく責めること、打つ、叩く、苛(さいな)むことを「折檻(せっかん)」というようになったのだそうである

さて、昔は乱暴な子供が多かった。親たちも手を焼き口先だけではこたえないので折檻をすることが多かった。棒て打ったり柱に縛り付けたり物置に放り込んだりした

 

「もう絶対にしません」と「悪うございました」を言えば許されるものだったが、なにせ生傷の絶えない腕白時代だから、45日すれば痛さを忘れてしまう。一番こたえるのが飯を食わせないことであった。最近では、子供に食事を与えないのは虐待になるが、昔の親たちは良く考えたもので、皆が寝静まってから母親が膳棚から握り飯を取り出し、「もう父ちゃんの言うことを聞くか?」と言えば、しゃくりあげながら「ハイ」と答えて握り飯にかぶりつくのである。誠に寛厳(かんげん:寛大にして厳格なこと)よろしきを得ていた

 

ともあれ、子供には子供の知恵があって当意即妙の折檻撃退法を考え出す。佐志のK老は11人の子供があって1516人の大家族であったが、3番目か4番目の男の子は村一番の腕白小僧。「お前は煮ても焼いても食えん奴だ」と言えば「父ちゃんは僕を煮て食うつもりか!」と逆襲する始末である

 

或る日、味噌部屋に押し込んで絶食の折檻を課した。農家は味噌醤油すべて自家製だから桶や樽に入れて何本も格納してあった。樽は下の方に丸い穴をあけ、木の栓を差し込んである。入用の時はドンブリを当てがって栓を捻ると必要なだけ出る仕掛けになっている。腕白小僧は、しばらくは喚(わめ)いていたが、やがて静かになりトントンと戸を叩いて「父ちゃん」という。父は「なんだ」と問い返す

 

小僧は、「何番目の醤油樽栓を抜けば良かと?」という。豊臣秀吉の高松城水攻めと同じで、本当に抜けば数分間で座敷まで醤油びたしになる。そこは味噌部屋から出して貰う交換条件としての駆け引きであって、腕白小僧もやはり家の子、一家の大損害になることは承知の上である

「父ちゃん、あいつは本当にひん抜っがソラ」と母ちゃんが言うので頑固な父ちゃんも心張棒(しんはりぼう:戸や窓が開かないように押さえる“つっかい棒“)を外さざるを得なかった

 

この腕白小僧、大きくなって名古屋で大成功し、両親への手紙も一番多くくれるそうで、折檻必ずしも親子の断絶とはつながらないようである

 

〇「天と地」 2023.6.19(月)

 

鳶職(とびしょく)は高い建造物を造る時、空の上で仕事をする。鳥の鳶も空を飛んでいることからこのように呼ぶようになったと考えられている

実際は江戸時代、火消しの人たちが鳶口(とびぐち:注1)で防火に当たり、吉宗の時代に「町抱え」となり専門に火消組を創設してからは「鳶」というようになった

 

火事のない時は土建の仕事を兼ね、明治以後消防が制度化してから建設業を専業とするようになったということである

さて、人間は断崖絶壁や橋の上に立つと恐怖感に襲われる。(当時)宮之城で一番高い建造物は片倉製糸工場の煙突であるが、昭和の初め3倍の高さにしたのであり、厖大(ぼうだい)な足場を組み型枠を嵌め、セメントを流してだんだん上部へ造り上げて行った

 

見物人も多かったが、上になればなるほど労務者が減っていったことは仕方のないことであった。しかし、頂上まで頑張ったのが県下随一の鳶職、木下兵作老であった。その後は、轟原で好きな竹細工して暮らされたそうであるが、工事の頃は屈強な働き盛りであり、最後のセメントを入れて両手をつき、逆立ちをしたのである

 

高い建物は少し揺れるように造るそうで、その頂天(てっぺん)での逆立ちなので見物の方が肝を冷やしたという。彼は高いとか低いとかは心の持ち方の問題であって、この倍の高さでも同じだと言ったという

 

この話とは反対に、地下も気味の良いものではない。掘れば掘るほど暗くなり土が崩れて生き埋めになることもあるし、メタンガスが出たらイチコロである。ところが川原出身で柏原の野村善太郎老は、穴掘りなら地獄の底まででも掘って行くという人であった

戦時中、佐世保海軍軍需部から出頭命令があった。自分もお国のためにご奉公が出来るのかと勇んで鹿児島まで行き、試験を受けた

 

先ず筆記試験?文盲の彼は一字も書けず白紙で出した。「しばらく控えて居よ」とのことでビワウッナゲ(?)て控えていたら、満点一番合格との決定であった

そして任地に出征した。鹿児島を出発する時も夜、上陸する時も夜、それから一年半外出も許されず穴の掘りどおし。給金は一銭ももらえなかった。勿論食事は万端官給であった

 

一年半ぶりに帰ってみたら、佐世保から毎月2倍の給金が送ってきた。今でもハッキリとは解らないが、大島の古仁屋軍港要塞の穴掘りであったらしい

 

2人の仕事の方向は一人は天へ一人は地へと違っていたが、その精神は徹底した職業魂と必死の技術錬磨確固たる自信という点で全く同じであったと思う

 

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長さ1.52mほどの木製の棒の先に、名前の由来となったトビの嘴(くちばし)の様な金属製の金具が取り付けられている江戸時代には、鳶職を中心に組織された町火消の消防作業に用いられ、鳶口で出火した周りの建物を引き倒すように破壊して延焼を防いだ

 

 

〇泊野の謂れ 2023.6.12(月)

 

昔から泊野は、殿さまが狩に来て泊まられるので「泊野」と名付けられたと信じられている。

薩摩では何でも島津の殿様が始めたと伝えられ、秋津洲舞(あけすめろ)も六月灯も十五夜綱引きもそうである。例えば、十五夜綱引きは義弘公が朝鮮から凱旋した祝いに始まったと言われるが異説がある

 

綱はもともと雨乞いをする為に藁(わら)で龍に似せて細長く作られ、子供たちが村中を担いで回ったもので、後に青年たちが力比べをするようになったとのことである。即ち、稲作には水が一番必要なので、龍は雨雲を呼んで天に昇る故に龍神信仰がその始まりというのである

 

それなら、何故稲が稔った秋にするのかという疑問が生じるが、龍神に雨を降らせてもらったお礼と翌年の雨乞いを兼ねて仲秋の名月を選んだという解釈も成り立つ

 

泊野は、昔は「留野(とめの)」と言ったのだそうである。昔々、京の現王という神様がお供を連れて船で下向され、出水の折口に上陸して高い山に登って矢を射(い)、その矢が留った所を永住の地と定めることとされた

 

この山を、矢をはずしたということから「矢筈岳(やはずだけ)」と言い、矢が留まった所を「留野」と言った。後に「とめ野」が「とまい野」となったという。現王さまは、矢が飛んだあとを歩かれたが途中で御腰をおろして休まれた。そこが今の「三腰」で、鷹狩をされた鷹峯がいつした「高峯」となったという

 

現王さまは、田や畑を拓き村人に農耕を教え水路や道を作り、今日の泊野の基礎を造られたので村人たちが「現王神社」を建てて祭ったという。昔は小高い山上に在ったが、現在はすぐ下の平地に移してある。山上の社跡を発掘したら昔の遺物を発見できるという人もあり、いやいや、神仏覿面(てきめん)、障らぬ神に祟りなしという人もある

  

昔から墓をあばくのは罪悪とされているが、発掘して丁重に現在の神社にお納めするのだから神様は喜ばれるのではなかろうか

 

〇聖徳太子と宮之城 2023.6.4(月)

 

みんな聖徳太子を最高に好きである。少々古いが、お金らしい紙幣について言うと、岩倉具視が500円、伊藤博文は1000円、聖徳太子は10000円である。物の物価をはかる単位の最高にランクされる太子はどんな人であろうか

 

1400年の昔、聖徳太子は推古天皇を補佐して日本の進むべき方向を定め、厚く仏法を護って国民の幸せを増進することに努力した方である。現在も憲法問題はやかましいが、太子が定めた17条憲法は大変立派なものであるそうである

 

「和を以て貴しとなす」「厚く三宝(仏さま、仏法、僧)を敬え」「役人は何事も一人で決めるな」など僅か17ケ条でも我々の日常生活の指針となるものが多い。親鸞聖人は20年間仏法の修行をされたが、どうしても悟りがひらけず、夢の中に聖徳太子が現れて遂に浄土真宗開教のこととなったという。隋(中国)や朝鮮との文化産業の交流に努力されたことも有名である

 

ある年、太子はお供を連れて宮之城の上平川に来られ、この地方一帯に仏法を弘められた。「太子が段」は「てしがだん」と言われ、その住居地であると伝えられている

 

太子は各地で国民を教化し都に還って政務を執り、ひたすら国利民福に努力されたが49歳で亡くなられた。平川の人たちは太子の死を悼み、命日には法要を営んでその霊を供養したという。その跡は、上平川のH家の在る所で供養段(くよんだん)と呼び、庭に真水が湧き出る泉水がある

 

しかしながら、日本歴史の中にはそんな記録はない。おそらく昔の宮之城の人たちが作りあげた伝説であろう。そうだとしても、都を遠く離れた薩摩路まで聖徳太子のご人徳が及んでいたことは事実であろう

 

太子のお札は最高の価値で崇高でもあり、発行された時代を彷彿させる誠にお金らしいお金である。勿論最高に大事にされるべきであるが、宮之城は太子のお人柄やご功績を敬慕申し上げるゆかりの地ではなかろうか

 

〇馬頭観音様 2023.5.29(月)

 

馬頭観音様は6本の手を持っておられる。牛馬を肥やすには2本の手では足りないという教えであるそうな。山崎の荒瀬に馬頭観音に似た人がいた。馬に肥料を背負わせ、手綱を腰に結び付け、自分は肥料を担ぎ右手で天秤を支え、煙草は口にくわえて吸いながら、小用は左手で砲身を操縦し、決して着物にひっかけないで用をたしたという。全く3人前の仕事である

 

惜しいかな、今はこの世の人ではないが、少子高齢化、労力不足の今日まで生きていたら大したものだっただろう。それこそ全国津々浦々から講師に招かれたり、3人前の働きぶりを伝授してもらう人で門前は行列をなしただろうと思えば、今に誰もその秘伝を伝承していなかったことが残念である

 

聖徳太子は一時に17人の訴えを聞き、即座に明快な判決を下されたそうだが、一人の訴えに何年も何人もかかる時代とは雲泥の差である。しかしながら聖徳太子も、荒瀬の先輩もその人だけの特殊技術であって普遍的でないし、また近代の複雑化した社会には望むことはできない

 

法律も農業も商工業も専門化することによって進歩する。農業も多角経営では行きづまってきた。商業と農業は一本であるという行き方に変わってくるようだ

荒瀬の先輩は、なるほど考えた人であり努力家であった。今一度この世に現れたらどんなことをするだろうか?

 

きっと何かやり出すであろうし、笑い話としても面白いし何となく親しみが持てるので、時々思い出しては一人微笑んでいる次第である

 

〇消えた鳥居 20235.22(月)

 

昔、川原町に豪傑がいた。生業は川内下しの船頭であったが、年中裸で暮らし、轟の瀬の渕に潜って大鰻や鯉を捕ることの名人であった。ある年の728日、例の十尋(20m程)もある渕に潜ったところ、轟原側の方に大きな穴があってかすかな明かりがあった

 

さては、大鰻の棲み処と喜んで進み行くと奥の方に黄金の鳥居が見えた。明かりはこの光が反射したものであった。しかし、もう呼吸が苦しくなったので一応引き上げることにした。昼飯は卵や鰹節で元気をつけ、ヨキ(斧)を腰にぶら下げて渕に飛び込んだ。ヨキは黄金の鳥居を打割りで引き上げるつもりである

 

しかし、今度はどうしても穴が見つからない。辺りは「ぐあご(岩が覆いかぶさった暗いところ)」ばかりであった。豪胆な彼は、二度三度と挑んだが穴も鳥居も消えてなくなっていた。この話は噂が噂を呼んで、轟原の人たちは水神様が神社を建てて祭ってくれとのお告げではなかろうかと、水天宮を建立したとのことである

 

実際は、天保14年(1843)轟の瀬の川浚え終了後、舟運の安全のため水波触売命(みずはのめのみこと=水神)を勧請したいうのが本当ではなかろうか。その時の川浚えは、曾木の滝の下流神子轟も掘削が行われたので天保146月神子に水神祠が建てられている。轟原水天宮は728日が例祭となっているが、子供たちは六月灯をして神霊を祈っている。おそらく728日が神社竣工の日ではなかろうか

 

対岸の川原上にある水波触売命の碑は、穴川橋が明治8年国費で建て替えられた時、建てたものである。これには「滑り(なめり=畳々の岩石群の浅瀬)」が藩政時代以来の難所であったことや、明治3年初めて木橋が架けられたこと、延べ7,000人が石橋の架橋に働いたことなどが記されている

 

このように轟の瀬下流域は、藩政時代は鶴田、永野金山に通じる街道であり多種多様の往来で賑わったこと、古くは川浚え、茶屋、川原相撲、上納米の集積地、川内川下し・その管理、黄金の鳥居や与謝野夫妻の歌碑、今もなお川底に沈む金庫など、今と昔の物語は尽きないようである

 

〇宮之城の由来(通説) 2023.5.15(月)

 

800年程前、この地方は祁答院と称され大前氏が郡司として統治していた。その頃は、屋地村、虎居村、平川村など小さな村に分かれていて宮之城村というのはなかった。東郷大前氏から別れた大前道助は、いまの宮之城中学校のある台地に城を築いたが、その台地が虎の居ずくまっている姿に似ていたので虎居城と名付けたという(諸説あり)

 

大前氏は100年余ののち、関東から下向した渋谷氏から追放され虎居城は渋谷氏のものとなった。それから300年後、渋谷氏は13代良重の時、島津氏に滅ぼされたので、天正8

1580)有名な金吾様(島津歳久)が領主となった。450程前のことである

 

金吾さまは太閤秀吉に徹底的に反抗し、最後は文禄元年(1592)竜が水で自害された。入城後12年であった。文禄4年、都城から北郷時久が入城し、虎居、時吉、鶴田を始め3037千石を領した。北郷氏は代々8万石を領し、日向の伊藤氏に備えた島津一門の名家だったが、金吾さまや新納武蔵守(忠元)と同じく、秀吉を領内深く引き入れて糧食に尽きたところで生け捕りにするという強硬派だったので秀吉から憎まれていた。

これは、伊集院家忠棟(島津一門で藩家老)が、秀吉の九州平定の時石田三成と通じ主君に降伏を奨め、また交戦派の内情を報告していたからである

 

講和後、忠棟(ただむね)は都城庄内の領主に抜擢され、反対に時久は祁答院に移封(4万石減)となり虎居城に入城した。北郷一族は、長年住み慣れ地味も肥え、帰服(支配し、つき従えた)した故郷を忘れがたく、虎居城を都城に因んで「宮之城」と改名したという(「みやこのじょう」から「こ」を抜くと「みやのじょう」)。いまから400年も前のことで、それからこの地を宮之城というようになったという(命名については新説あり:注1参照)

 

時久は、五日町や時吉、求名などから商人を城の麓(信教寺東方豊川付近)に集めて市町を(いちまち)を作った。これが現在の屋地商店街の前身である

時久は、慶長元年(15962月、あわれにも67歳で死去した。宮之城に来てから僅か1年足らずであった。彼は、宮之城の命名や市街地の建設など忘れてはならない功労者であると思う

 

さて、忠棟の末路はどうであったでろうか?慶長4年、石田三成から忠棟謀反と告げられた太守家久は、京都で忠棟を手打ちにした。都城に居た息子の忠真は直ちに兵を挙げて反抗したが、家久は10万の大軍を率いて討伐した。これを庄内の乱と言い、北郷一族は死を決して勇戦したので慶長6年、都城に復帰することが許された

 

北郷氏は、宮之城に僅か6年居城したので遺跡は余り残っていないが、時久が都城から天長寺を移し祈願寺とした所が東谷にその地名だけが残っている

 

1:この説は非常によくできており説得力がある。「宮之城記」などが出所であり通説とされていた。時久の前の領主は島津歳久であり、怒った秀吉の歳久誅殺の命を受けた義久に呼ばれ、歳久は鹿児島に入り最後は竜ヶ水で自害する。その後、宮之城へ籠城した妻や説得する義久の手紙が発見された。その中で、「みやのしよう」「宮城」がみられ、歳久の時代より「宮之城」は使われていたことが判明した。従って、時久が直接的に命名したのではない。

 

個人的に想像するに、当地でも宗家でも使われていたが、上層部など一部の方々で使われていたのを時久の時代に“みやこのじょう絡み”で広く広めてのではないだろうか!!

但し、そもそも「何故、宮之城としたか?」の由来は、正式には解っていない

 

 

〇猫を飼え 2023.5.8(月)

 

日当山の侏儒(じゅじゅ)どんは、身長90cm程、体は人の半分もなかったが、知恵は何十倍もあった。日当山の地頭職を勤めながら、鶴丸城に登城して殿様の話し相手もしていた。

或る日、大阪から貨物船が入港した。家久公は侏儒をやり込めようと、積み荷は鉄であることを調べさせておいた

 

「太兵衛、太兵衛、あの船は何を積んだ船であるか当てて見よ」と仰せられた。徳田太兵衛(とくだ たへえ、又は大兵衛<おおひょうえ>)こと侏儒どんは、早速、「三味線船と見受けまする」と答えた。殿様は、アハハハハと大笑い。「さすがの侏儒もしくじりおったぞ。あれは鉄を積んだ船じゃ」と大満悦

 

侏儒どんは少しも騒がず、「三味線は、鉄積船(テッツンセン)、鉄積船と鳴きまする。然るによって三味線船と申し上げました」。家久公は、なるほどと合点されたそうである

別の日、彼が領内を巡視していると、ある百姓が、ネズミが多くて困る。手早く退治する方法はないものかと聞くのであった

 

「丁度、昼食どきじゃ。秘訣を教えるのだから飯のご馳走くらいは如何じゃ」とねだってご馳走になる。腹が膨れると眠くなりウトウト…。「旦那様、早くネズミ捕りの話を」という声で目を覚まし、「では、お前だけに教える。戸障子を閉めて盗み聞きされないよう計らへ…小声で言うから耳を近づけよ」誠にもって慎重である

やがて耳に口を寄せた侏儒どん、たった一声、「猫を飼え…」

 

【茶の実】(web情報より転載)

ある時、侏儒どんは殿様から、茶の栽培を進めたいので茶の実を集めるように言われます。

 「ウッツ!今は百姓たち忙しい時だし、その上茶の実など季節的に集められないな!」と思った侏儒どんは一計を講じました。さあ、いざ殿様に茶の実を納める日、しかし、茶の実など集められませんでした!

 

そこで何を思ったか侏儒どんは、殿様のいるお城にお婆さんを連れて行きます。これはどういうことでしょう?

殿様が「茶の実はどこじゃ?」と聞きます。殿様の前に拝見した茶の実を持たない侏儒はこのように説明します

「ここにいるのは(茶飲み)です」と傍らにいたお婆さんを指して言います!

 

これはこれは!お婆さんはお茶を飲む人、すなわち「茶飲み」要するに「茶の実」と「茶飲み」をかけたわけです! 殿様は激怒!!とはなりませんでした。しかし追い打ちを殿様が仕掛けます。

「茶ならば生えるであろう」と!

 

侏儒どんはすかさずお婆さんに命じ、そのあたりを這わせました!

 おおっつ!!今度は「生える」と「這える」をかけたのでした!これには殿様も苦笑いです!でも、殿様もさすがです。最後は逆転ホームランを打ち上げます!

 

「お諌めするのは勇気が入り、さすがに喉が渇きます」という侏儒に対して殿様は水を侏儒に与えるかと思いきや、「その者(おばあさん)に早く水を与えよ!」と言います。

侏儒は「茶飲みに水は可哀想でございます」と返します。

 

ここで、一言殿様、「茶飲みは生えると言ったではないか!はよ水をやれ」

 

 最後は、殿様に華を取らせることが出来た侏儒でした!

 

〇辺見十郎太と宮之城 2023.5.1(月)

 

西南の役で勇名をはせた辺見十郎太は、樋脇、宮之城、山崎、佐志、大村など九大区を管轄する宮之城区長であった。西郷隆盛を神の如く尊敬し、維新後も御親兵(近衛兵の前身)として東京に残った明治6年には大尉に昇進した。南洲翁が征韓論に破れて官を辞した時、桐野、村田等と共に故山に帰り翁と開墾に従事した

 

翁は明治維新の功により賞典禄二千石を賜ったがこれを辞退した。しかし、政府は返納を許さなかったので私学校を建てて子弟を育成する経費に当てた。篠原国幹少将が校長役となり、辺見十郎太は教官に任じられた。県令大山綱良は政府のやり方に反対だったので、県庁職員や巡査、県下区長は殆ど私学校党を任命した。十郎太は北薩の要所、宮之城区長に任じられたわけである

 

副区長は、松永、長崎両名が居たので、彼は専ら南洲翁のお供で狩りに行ったり、私学校の教育に携わっていた。これは彼の業績や逸話が宮之城に残っていないことからも推測されるところである。ただ一つ、楠公社を宮之城に勧請したことは忘れてはならないことである

 

幕末の頃、薩摩の志士・有馬新七は河内のお寺にあった楠木正成の神像を盗み出し、郷里の伊集院に奉納した。のちに京都の寺田屋で横死(不慮、非業の死)したが神像は鹿児島に移され、皇軍神社と称されて私学校徒の守護神となっていた

明治101月、十郎太は大山県令に願い出て、これを宮之城に勧請(遷宮?)した。大山は辺見の言うことであり直ちにこれを許可した

 

神像は松尾神社に合祀され、後に社殿を造営し湊川神社と称した。これが現在城之口にある楠木神社の前身である

さて十郎太は、西南の役の直接のきっかけになった弾薬庫襲撃事件、及び西郷刺客問題で桐野、別府両将が篠原邸に会し、遂に翁の蹶起(けっき<決起>)を断じた時、大隅山の狩倉の翁を迎えに行く大任を仰せつかった

 

その時、川村海軍中将が高雄丸で鹿児島に入り、南洲翁に謁見を求めた。翁は、川村どんなら会うと言い永山弥一郎も賛成したが十郎太は大反対であった。「もし翁が軍艦で連れ去られたらどうするか」と正に永山を切ろうとしたので翁も十郎太の意見に従ったという

 

出陣に当たっては、三番大隊一番中隊長であった。宮之城、山崎、佐志から約500名が出征した。永山大隊長が御船で陣没してからこれに代わり、のち雷撃隊長となり神出鬼没、いたるところで官軍を破った。数度の負傷にもへこたれず最後まで南洲翁を護り苦闘8ケ月の末、遂に翁以下桐野、村田等と共に城山の山のもと霧と消え果てたのであった。行年僅か28歳であったという

 

十郎太の子・逸彦(はやひこ)は、満州に渡って馬賊の頭目となり、日露戦争の時にはロシア軍の後方を攪乱し奉天陥落を早からしめたと伝えられる。昭和10年墓参に帰国した際、かつての父の任地宮之城を訪れ、盈進校で馬賊の話や日本の将来などについて講演した

 

 

〇須杭の十五郎 2023.4.24(月)

 

面白い話がある。それまで食うものも食わず強盗すれすれすれの事をして億万長者になった男が、フトした病気がもとであっけなく死んでしまった。持った財産を鐚一文(びたいちもん)持ちいくことならず、頼みの妻子も何のお供にならず唯一人行きなんずれ(…死んで行かなければならない=浄土真宗の葬式で読まれる蓮如上人の白骨の章の一節にある)

 

誠に淋しい死出の山路をトボトボと三途の川を渡り閻魔様の前に立った。この時さすがは一代にして巨万の富を成した強者(したたかもの)。「仮染めの病でここまで来たがまだゞ娑婆に残した仕事がある、財産もある」とハッタと閻魔大王を睨みつけた

 

何でも知っている閻魔大王は、「よしゝ、また元の娑婆へ帰してやろう」と仰せられたので、「有難や有難や」と随喜の涙を流して目をパッチリ開けた。ところが、「火葬場の時間は?」とか「霊柩車はまだか?」などと六親眷族(ろくしんけんぞく:いっさいの血族、姻族)、その他大勢が騒いでいた

 

さて、息を吹き返した主人はどんなものであったろうか!信頼した妻や子は遺産分割の手続きを既に済ませ、我が物顔に遊び放題、食い放題、爪に火を燭(とも)して貯めた財産が湯水のように使われていくのを切歯扼腕(せっしやくわん:残念がったり怒ったりする)してみているという地獄の責め苦であった

 

この話にくらべると須杭の十五郎という正直者の話は夏の涼風のようにスガスガしい。彼はよく人に雇われて筏下しをしていた。ある時、二渡のアバン瀬で子供を背負ったみすぼらしい老婆から、船木の方に筏を渡してくれと頼まれた。今のように橋はなく夕暮れは迫っていた。十五郎は、「一人の難儀は我が身の難儀」と快く引き受けて渡してやった

 

船木の岸に降り立った老婆は、「このお礼に欲しいものがあったら何でも言ってくれ、必ず望みを叶えてやる」と言った。十五郎は、「何も欲しかもんはなか、元気が宝、元気せかあればよか!」と言った。この瞬間、老婆の姿は佛様の姿に変わり、パッと後光がさして闇に消えた

 

それから十五郎が下す筏には、鯉や鰻が飛び込んでピンピン跳ねるのであったが、彼は全部逃がしてやった

 強欲男の一生と正直者の一生とを較べてどちらが幸福かは別問題として、高度経済成長の中に失われた昔の心に郷愁を感ずる人も案外多いのではないだろうか

 

〇拳骨の行方 2023.4.17(月)

 

日当山地頭徳田太兵衛(侏儒<じゅじゅ>)どんは、世の中の事に詳しく頓智が良かったので殿様の話し相手を勤めるほどであった。また領民も何か事が起きると、侏儒どんの知恵を拝借するのであった。ある年、加治木郷の百姓衆から日当山の百姓衆のおもだった1415人に招待があった。今でいう交歓会というようなものであったらしい

 

日当山衆は、どんな挨拶をしたら良いか礼儀作法など恥をかいたらいけないと、侏儒どんに教えを乞うた。難しいことを教えても本番で後先になってはいけない。「俺がついて行くので、お前たちは俺のするように真似をすれば大体間違いはあるまい」。ご馳走好きの侏儒どんが言いそうなことである。一同は大いに喜び勇んで加治木郷に出向いた

 

双方の挨拶なども順調に進み、今で言う意見交換や珍しい話などはずんで後は酒宴となった。

この酒宴で拳骨が出てくるのだが、甚だ物騒な話のようでも内容は次のようなことで、まことに愛嬌のある話である。ご馳走の初めは里芋の味噌ころがしで、大変おいしいが厄介なことに箸を上手に使わないと滑り落ちることである

 

侏儒どん程の人だから、その辺のことは承知して念を入れて挟み「これは、これは大好物」と口に入れようとした途端に滑り落ち、コロコロと畳の上に転がしてしまった。これは、シマッタと思ったがもう遅い、次に座った男が「これは、これは大好物」と言いながら里芋を畳の上に転がしてしまった。次の男もこれは……、と忠実に実行する

 

たまりかねた侏儒どんが、拳骨で隣の男の脇腹をコツンと突いて、「里芋を転がしてはいけない」という合図であったが、隣の男はやはり加治木衆の招待ともなれば作法が難しいものだ、拳骨を握り次の男の脇腹をコツン、三番目もそら来たと次をコツン。

ところが最後の15番目の男は、里芋はうまく転がしたものの拳骨のやり場に困ってしまった。まさか、向こう座の加治木衆を突くわけにも参らない

 

拳骨を高々と上げ、「地頭さまァ、こん拳骨は何処い、やればよかとなァ」。これにはさすがの侏儒どんも返事に困ったが、とっさの頓智で、「大事な拳骨じゃ、加治木衆にくれるのは惜しか、持って帰れ!」と切り抜けたが、一世一代のしくじりであったという。

ことの仔細が解り加治木衆は大爆笑!(現代風に言えば)天然的ボケ的余興に座は盛り上り、親交は深まったことだろう

題して「拳骨の行先」のひと口話…

 

〇山姥(やまうば)の話 2023.4.10(月)

 

昔は、出水の名子浜で捕れた魚を女房たちが紫尾山峠を越えて宮之城へ売りに来た。峠は石ころの坂道で、元気な男でも難儀するが出水の女房たちは屁とも思わず超えていたのだから偉いものだったと思う。しかし、あまり遅くなると宮之城の懇意な民家に一泊したそうで、それと言うのも、夜は峠に追剥(おいはぎ)が出て銭をとり着物を剥ぐという噂が立ったからであった

 

或る年の或る日或る女房は、少し遅くなったが子供たちが待っていると思えば恐ろしさも忘れ、急げば暮れぬうちに峠を越せると思って帰途についた。秋の陽は暮れやすく宮之城を出る時は高かったお天道様も尾坐原に来た頃には早や西山に傾いてしまった。だんだん心細くなって引き返そうかという思い、折角ここまで来たという思いで心は二つ、身は一つで迷いながら、結局、峠を越えさえすれば、という気になって足を早めた

 

いよいよ峠に差しかかった時、焚火を囲み、頬かむりをした二人の男がドッカと胡坐をかいてギョロギョロ目玉をむいているのが見えた。

事ここに至り女は観念し腹を括った。とっさの知恵で髪にさした柘植(つげ)の櫛を口にくわえ、元結を解いてザンバラ髪にし、風のように焚火に近づいて行った。それは、まさしく口が耳まで裂けた山姥の姿であった

 

忽然として煙の中に現れた山姥の姿に、一人の追剥は「出たーッ」と悲鳴を上げて上宮神社への小道を転びながら逃げて行った。もう一人も「アッ」と叫んで石ころに躓(つまずき)きながらあわてて逃げ去った。

それから紫尾山峠には山姥が出ると言う噂が立ち、夜間は余程の急用か、人数が多くなければ通らなくなった

 

戦後、宮之城、出水、入来、郡山が共同して国道編入とトンネル掘削を陳情し、昭和45年建設省は国道328号として認定した。工事は、出水側と宮之城側から工事が進められ早期開通が図られた。国道3号線の出水・川内・鹿児島経由が渋滞であることや、本国道は、出水から鹿児島まで30分短縮になることからトンネルが貫通した時には、朝から晩まで貨物、自家用車、商用車など多くの通行車が往来した。

 

昨今では、宮之城と出水市高尾野町を結ぶ国道504号線が開通している(これは、出水市と鹿児島空港を結ぶ線)。トンネルも近代的で道路も準高速道路仕様で、紫尾山の、結構標高の高い所を通っており、山の左右の麓を超える道路となっている。

いずれも夜はヘッドライトが紫尾山渓谷を照らし、山姥物語は忘れられている。逆に、現代のような車社会で、高速で山越えできるので、昔のロマン溢れる話は生まれなくなっている

 

〇六月灯の起源 2023.4.3(月)

 

六月灯は虎居の恵比寿様が73日、川原の水神様が79日、湯田八幡と山崎の飯富神社が710日、轟原の水天宮が728日、佐志の招魂社が810日…以下略、と決まっていて夏の夜を彩る風物詩であった

 

子供たちが何日も前から寄付を集めたり、長灯篭(ながつる)や陳列品を準備したり無我夢中であった。街の画家が描いた長灯篭の武者絵は圧巻であった。宇治川の先陣争い、川中島合戦、一の谷軍記、加藤清正の虎退治、さては忍術児雷也(or自来也)と白妙姫、高田馬場の仇討ち、岩見重太郎の狒狒(ひひ)退治など勇ましいものばかりである

 

長灯篭は、神社の前に一つ、残りは本通りに吊るす。灯篭の中に立てた蝋燭(ろうそく)の光で、鮮やかに浮き出された極彩色の武者絵は一晩でおしまいとは勿体ないくらいである。各家庭では、小さな灯篭に絵を描き、左右に「御神前」「奉寄進」と毛筆で大書きして門口に吊るす。その晩は団子を作り、砂糖をうんと効かせた小豆餡(あずきあん)をぬって食べる

 

道路脇には、にわか氷屋ができ杉の葉で囲った中から威勢よく客を呼び込んでいた。大正時代は、カンナに下駄をはかせたような削氷機を使っていた。向う鉢巻き姿の小父さんがガラス皿に氷を高く盛り上げ砂糖や糖蜜をかける。崩れぬように匙で食べるのが楽しみであった。スイカも大安売りで、スイカ割りはおもしろい遊びであった。110銭、当たれば50銭ぐらいのスイカ買えるので大変繁盛した

 

さて、六月灯の起源は、今から約400年前の19代島津藩主家久公に男子がなく、京都の観世音さまへ祈願したくさんの灯篭を寄進したところ、玉のような男児(光久公)が生まれた。島津家はこれを祝って旧暦六月十八日に城中の観世音さまに灯篭を飾り、成長を祝ったのが始まりといわれている

 

現在は、家内安全、商売繁盛を祈る夏祭りともなっているが、宮之城の六月灯は子供たちが主催することに意味があるようである。明治2年、廃仏毀釈に伴いお寺や観世音さまは神社に名称変更した。城之口の心岳寺は大石神社というようになったことで「奉寄進」「御神前」と書くようになった

 

〇金の牛 2023.3.27(月)

 

宮之城が立つか立たぬかという時に、広瀬の山を掘れば「金の牛」が埋まっている、という伝説があった。明治時代までは宮都大橋の上流から金塊を引き上げた人も多かったそうだから、永野金山から流れた金塊が広瀬の浅瀬に止まっていたと推測して生まれた伝説であろう

 

390年前、4代宮之城島津家領主久通公は薩摩藩家老として、島津77万石の財政建直しに躍起になっていた。新田開発や製糸・造林などの政策をとり、幕府に頭を下げ、領内で採金する許可の運動を開始した。ことの起こりは、佐志川でキラキラ光る砂金を見つけたことに始まる。川上には必ず金鉱脈があると、彼は確信した

 

偶(たま)さか大阪落城で有名な千姫ゆかりの坂崎出羽守の家臣、内山与右衛門、島津三郎二郎の両名が採金の専門家として召された。2人は数年間佐志川流域を探鉱し、久通公もみずから草鞋ばきで谷々を探し歩いた。ある谷の野宿で「黄金の牛」が寝ている夢を見、内山も赤牛が道案内する夢を見た。紫尾権現の御夢想に間違いなしと喜び、その箇所を探鉱した結果、果たしてそこに金脈を発見した。ここを夢想谷という

 

内山与右衛門は寛永18年死去した。その子孫は川原の内山印刷所の当主であったという。永野金山は一時佐渡金山以上の産出があり、幕府は寛永20年に採掘を禁止している。しかし久通公の外交手腕によって13年後の明暦2年再開され、採鉱人夫、家族、商人など2万人が狭い永野村に入り込み、三方川には料亭が立ち並び宮之城市街をしのぐ繁盛を呈したという

 

下流の佐志や川原にたくさんの水車があって鉱石を砕いた。金を採るには擂鉢(揺鉢<ゆりばち>)が使われる。鉱石を水車で砕くとき水銀と水を入れ、ドロドロになれば擂鉢で水を入れ替えながら擂(す)る。残った砂金を磁石で金、銀だけを吸い取らせ坩堝(るつぼ)に入れて加熱し、金銀銅に振り分ける

 

擂鉢は木地師(きじし)が作った一木(いちぼく)作りのひび割れしない直径1mの鉢で、今日では小牧氏、手塚氏所有のほか数少ない。永野金山は、寛永18年に1718kg、明暦3年に1777.3kgと増え、万治2年には1868.6kg(時価2461億円)となり最高であった。

 

久通公は、串木野、枕崎にも金山を開発し藩の財政を建て直した。延宝2年、71歳で逝去、墓は宗功寺にある。「金の牛」の伝説は、先祖が我々に夢を持て、と教えた知恵の遺産ではないだろうか 

 

〇地獄と極楽と仏飯講 2023.3.20(月)

 

今の人たちは、地獄極楽は本当にあると見届けた人はいないのだから仏教は信じがたいと言う人が多い。勿論、お釈迦様は庶民にわかり易いように譬(たとえ)話が多いので、今どきの弁証法的な考え方からすれば地獄極楽の絵図のような光景はナンセンスと思うのかも知れない

 

しかし、お釈迦様は、人間みんながもっと苦しみ悲しむ苦の世界、これを地獄と呼び、これは人間の持って生まれた煩悩即業(ごう)であると悟った時が極楽であると説かれた

考えてみよう、人間は母の胎内で十カ月、暗く狭い所で暮らし、いわゆる生みの苦しみを受けて世に出る。オギャアーという産声は勇ましく聞こえるけれども、生みの苦しみの悲鳴ではないだろうか

 

学校に入れば試験地獄、社会に出れば生存競争、苦しいことの連続である。林芙美子は、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と詠んだ。然しこれを人間が生きるための業(ごう)であると観じ、これを乗り越えて始めて平穏に暮らせるのではあるまいか。義務(地獄)を果たして権利(極楽)があると読み替えもよいと思う

 

百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師は「一日作(な)さざれば一日食わず(一日不作一日不食)」と言った。お釈迦様は、過去(因縁)、現在(煩悩)、未来(極楽)を説かれた煩悩の世界を克服した人が、未来も楽しく生きられると考えたらどうであろうか?現在を煩悩の赴くままに自分本位で生きればそれで良い、とばかりは割り切れないものがある

 

ここに、県下ただ一つ真の仏教信者の集落がさつま町に在る。仏飯講を持つ柊野地区である。薩摩藩は天正15年から念仏を唱えるものは死罪とした

明治2年には廃仏毀釈が発令された。それでも柊野では山に籠って念仏を続けていたのである。いわゆる隠れ念仏であった。仏飯講として蓮如聖人以来400年連綿として続いているのだから我が町として県下に誇ってよい。明治9年信仰の自由が発令され、それからは堂々と仏飯講を開くことができ、本山にも参詣することができた

 

柊野の人たちのねばり強さ、勤勉さ、礼儀正しさ、人情の深さすべてが仏飯講に由来すると思う。仏飯講のことは、新宮之城史にも詳細が記されている

 「火の車 作る大工は なけれども

   己(おの)が作りて 己が乗りゆく」

先祖からうたいつがれた歌だそうである

 

〇「鶯の声」 2023.3.13(月)

 

天正15年(158758日、川内泰平寺で島津義久の降伏調印をすませた太閤秀吉は、山崎を経て鶴田に向った。途中、二渡地区の須杭で小休止した。悠々たる川内川の流れを眼下に、大満悦の太閤の耳にホウホケキョ、ホウホケキョと鶯の声が聞こえた。お供の細川幽斉が「殿下、一首いかかでしょう?」と催促した。ご承知のように秀吉は織田信長の草履取りから立身出世したのであるから、学問や詩歌、茶の湯など教養面はなかった

 

しかし、地位が上がるにつれて、和歌は家臣の細川幽斉に、学問は藤蔭大納言に、茶の湯は千利休について修業した。63歳で大阪城に没するとき、

 露と落ち 露と消えにし この身かな

  浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢

と詠んだ。いかに位人臣を極め、黄金は大阪城の庫にうなり、朝鮮中国まで震いあがらせた英雄でも人生は僅か60年の夢であったという意味が一抹の淋しさを伴って、われわれ凡人にも好感が持てる辞世である

 

さて、鶯の声で一首をと幽斉にうながされた秀吉は、次の句を詠んだ

 薩摩路の さつきの岡の 鶯はれて 山は山… 鶯の声 

 (訂正案:薩摩路の さつきの岡の 空はれて 山は山とて 鶯の声)⇒他にご存じの方、ご教授ください!

現在も須杭に鶯山という岡が残っているのだから、伝説だと言っても本当であったかも知れない。鶯は法華経を読む鳥として、また人間の苦しさの中にも明るさと希望を持てとうたう鳥として大切に考えられている。二渡新田水路工事の新田節にも、

 梅の宿とる鶯さえも 末は大事と法華経読む

という一節がある

 

鶯が鳴くと、春はたけなわとなる野も山も燃ゆるような新緑と化し、うららかな陽光は川底まで透き通って小魚もはね飛ぶ、まさに静から動への躍動期である。

ところが、必ずしもそうではないことを最近知った。旧宮之城駅前のK食堂で飼っていた鶯は、秋も暮れて初冬となった11月末、ホウホケキョ、ホウホケキョと鳴いたのであった。この鶯は、主人が須杭の隣の南瀬の山でマイクを使って捕らえたもので、彼は鶯にかけては県下のベテランである

 

竹やぶの中に作られた丸い巣は、入り口は小さく奥座敷は広い。45個の卵を産み孵化したときから父親の鳴き声を習得する。飛べるようになってからは、いくら教えても駄目らしい。鳴き声には4種類あるが、そのうちの谷渡りは、ホウホケキョの後噺(あとばなし)に、ピッチョウタ、ピッチョッタと鳴く、これが最高である

 

旧陸軍に行った人たちは、鶯の谷渡り(注:新兵を寝台の下を潜らせ、その間から首を出させ、ホウホケキョと言わせる上等兵のいじめ。他に「蝉」や「自転車」など)をやらされたのでほろにがい思い出もあろうが、酒好きが酔っぱらうと借金取りの話も鶯の声に聞こえるそうで、さてもめでたい鳥である

〇「倒さずの槍」とは 2023.3.6(月)

 

昔、102外城の領主たちの行列は鹿児島城下にはいると、槍を倒して通行しなければならなかった。ただ1本、宮之城領主の行列だけは槍を立てたままで鶴丸城の館に入ることが許されていた。元亀31572)年5月、島津氏は飫肥(おび)城(宮崎県)を攻めた。領主伊東日向守は猛将といわれるだけあって城を打って出(い)で、木崎原で島津勢を一挙に叩き潰そうと計った

 

この木崎原合戦で伊東軍には豊後勢の援軍もあって島津勢は大いに苦戦し、総崩れの危うきに陥った。義弘公は日向軍の大将(伊東祐信か?)と一騎打ちを覚悟し、わずかの手兵を率いて伊東軍の本陣に突入した。

この時、義弘公の馬の腹帯が解けているのを見つけた宮之城家の家臣和泉勝左衛門が、とっさの機転で腹帯を絞め直した

 

両雄は互いに馬を乗り入れて手練の槍を繰り出し、虚々実々の戦いとなった。やがて伊東祐信の力量や秀でた鋭い槍先は義弘公の胸板に突進した。あわやと思われた瞬間、乗馬栗毛が前膝を地についた。伊東祐信の槍はわずかに義弘公の兜をかすめて流れ、反対に義弘公の槍先が伊東祐信の肩を貫いた

 

大将が重傷を負ったので伊東軍は大友宗麟を頼って豊後の国(大分県)になだれ込んだ。島津勢は義久、義弘、歳久など急進撃して大友勢を各所で撃破したので、宗麟は豊臣秀吉に救援を頼み、遂に秀吉の九州征伐?(平定)となる。

 

さて義弘公は兄義久公から継いで太守となり、木崎原合戦で宮之城の家臣が馬の腹帯を締直したこと、栗毛が膝をついたことを思い出し、馬には「膝つき栗毛」と命名し、もし腹帯が解けていたら馬が姿勢を低めても躰(たい)は宙に浮いて日向守の槍先にかかっていたとして、和泉家に槍を与え「倒さずの槍」の恩典を許したものという

 

この槍は、大和国の住人平安長義が鍛(う)った穂の長さ1メートル、柄3メートル、石突きまで全長4メートル余りの大身の槍で、いかにも戦国時代を髣髴(ほうふつ)とさせる大業(わざ)物であった。しかし、この名槍も昭和2010月、進駐軍の刀剣取締りで供出し、川内市の鉄工所で焼き捨てられてしまった。本当に惜しいことである

  

〇麻利支天(まりしてん)の由来 2023.2.27(月)

 

佐志=仮屋瀬・道西山のまたその上の岡に麻利支天さまが鎮座ましておられる。全国でも珍しい猪に乗った麻利支天像で花子とり(代々お守りする家:花香)の桐野家でもその由来はよく知られていないということである。しかし、その由来については次のような伝説が残っている

 

天正154月、豊臣秀吉は20余万の兵(諸説あり)を従えて島津征伐に出陣した。当時、肥前、肥後、豊後の国まで進出していた島津勢は、「猿面冠者、何ほどのことやあらん」と迎え撃つことに軍議一決。ただ一人、宮之城領主左衛門督金吾歳久は、秀吉は古今、類(たぐい)なき英雄、和睦して島津家の領地を保つ方が良いと主張したので諸将から臆病と言われた

 

果たして、島津勢は戦利にあらず歳久の養子忠隣(ただちか)は日向の国根城白で討死し、同年5月には川内の泰平寺において降伏調印式が行われる始末であった。歳久は薩摩隼人の意地にかけてもと大口領主新納武蔵守忠元と共に秀吉を領内深く引き入れて討ち取ろうと謀り、病気と称して泰平寺にも出頭しなかった

 

秀吉は山崎城に一泊し、船木の幡ノ尾に千成瓢箪の馬印を立て、52騎をもって宮之城の態勢を探らせた。しかし、逆に追い返され、船木の牛渡瀬で6騎を討ち取られてしまう。

秀吉は、宮之城、鶴田、大口を経て人吉、熊本を通り凱旋する予定であった。歳久は城下通過を許さず、家臣に命じてわざと鉾の尾、弥三郎岡の険路を案内させた。この時、秀吉が休息した所を今でも古陣が岡と言っている

 

歳久の臣、本田四郎左衛門(のち、龍ケ水にて殉死)が秀吉の駕籠を強弓で射たが駕籠の中にはカメツボが入れてあったという。その矢は、カメツボを真っ二つに割り、穴川の岩にあたり、さらに飛んで仮屋瀬の山頂に突き刺さった。

麻利支天は、いつも武装して釈迦如来を護ったといわれ、昔から戦場での勇ましい働きぶりを「麻利支天の再来か」と形容している程の勇将であった

 

村人たちは、末永くこの村を護らせ給えと矢の立ったこの地に、麻利支天をまつったとのことである。現在も錆びた三股槍、劔(つるぎ=剣)などが奉納されている

 

〇俚諺(りげん)-1 2023.2.20(月)

 今週はしばらく休憩!!この地方に伝わる(ローカルな)ことわざ、言い伝えを一筆啓上

 

【三味線の無か家(うち)は多(う)かどん、琴(事)ん無か家は無か】

家庭生活にも色々波乱が多い。子供の入学、就職、結婚、或いは、家族の病気、不仲など生きているから「事」がある。他人から見ると、四苦八苦な生活はもとより羨ましくも順風満帆にみえても、どんな家庭でも家庭ならではの悩み事は存在するものである

 

【富限者三代、孫はちらく】

富限者とは金持ち、はちらくは乞食。一代で成り上がった金持ちは、二代目までは親の感化でどうにかやっていくが、三代目は甘やかされ、華美になり乞食のような生活に戻っていくこと

 

【たましや使けどっ、とんこっや下げどっ】

頭はその時どきで使わなければならない。時にはつきたくない嘘もつかなければならない。とんこつは煙草入れ(いんろう)のことで、とんこつを下げる時は、話を打ち切ることである。物事には切り上げ時というものがある

 

【しょゆと下り坂は、走らんらちゃおらん】

しょゆとは酒席のこと。酒好きの人は、取るものも取りあえず、着るものも着あえず夕方は落ち着かない。飲めない人が酒好きを皮肉ったのか、奥様方のうらみ事か、今も昔も変わらないのが世のなれあい

 

【がね、どんじい】

「がね」は蟹のこと。「どんじい」はかけや(掛矢)のこと。蟹をどんじいで叩けば「ドン、ピシャッ」と潰れ「ドンピシャリ」と正に的中した時、昔の人は、「がね、どんじい」と言って喜んだ

 

【もえんでん、とつ】

昔のいろりには、火のおき所として割木の大きいものや木の根の割れないものを必ずくべてあった。これは他のたき木が燃える時に少し燃えるだけであったが、空気が流れる空間を作ってなくてはならないものであった。このように、家には仕事は出来ないでも家の要になる人(例えば、年老いた爺さんとか婆さん)が居てくれたほうが良い。黙って居てくれるようでも存在は役立っている

 

【うして飼い】

放ったらかしで育てられること。戦前は鶏を放し飼いにしていた。鶏は夕方小屋に帰って泊まるだけで、餌は床下、菜園、裏山の虫や落ちているものをついばんだ。このように人間もあまり手をかけないで育てられた。裸足、薄着、粗食など現代の過保護とは正反対の育て方

 

〇焼石法 2023.2.13(月)

 

焼石法とは?ご婦人方は石焼いもを連想されるかもしれない。最近は、至る所で香ばしい石焼いもを売る商売も成り立っており、昔の焼いもが懐かしく思い出される。石焼いもとは違って、焼石法というのは、少し硬い話ながら轟之瀬に新川を通す時に用いた方法である

 

昔は、藩に上納する米は、大口市(現伊佐市)の下木場から舟に積み、時吉の舟津田で降ろして馬に積み替えて穴川を渡り蔵元の祁答院倉庫(菱刈蔵)に納められていた(注:更にその昔は、大口から馬などで旧道(悪路)を陸運し、鶴田の宿場<旧宮之城線の鶴田駅傍>まで運び、そこから陸運または湯田の舟津田から舟で時吉の舟津田まで運び、以後は同上で合計約40kmを運んだと考えられている)

 

馬が穴川の浅瀬を渡るとき、よく岩の上ですべって馬の骨折や米が濡れたりするので「滑り(なめり)の渡し」という名がついたとのことである。舟が川原まで下れば手間が省けるが、轟之瀬は薩摩藩第一の急流で、水勢が強く米を運んだ舟は沈没してしまう。そこで新しく川を堀り本流の水勢を弱める工事が必要になった訳である。天保13年、切戸の瀬は奉行町田孫太夫、大口の神官堀之内良眼坊などの努力で切り開かれたが、切幅が狭かったので「新川」の工事が始まったわけである(本流の右岸側を切通<きちど>または、切戸と呼び、左岸側に、浅瀬の川の中に川を掘ったのを新川と呼ぶ)

 

左岸側浅瀬一面の岩石に、幅10m、深さ1m程、長さ300mの川を掘るので何十人という石工が石割りにかかったが、一日1mも進まない有様だった。

町田奉行は寝食を忘れて監督に当たった。ある夜、工事小屋を巡視していると石工たちが焼酎を飲みながら大声で町田奉行の悪口を言っていた

 

「お奉行も知恵が無か、こげん固か石をノンで掘っちょったチ、何年かかってもでくいもんか、焼石法を知いやらんどかい、そいどん俺(おい)どんな仕事が続っで今ン方法がよか」と、普通の武士なら一刀両断というところだが町田奉行はよくできた人で、翌日その石工を呼び、教えを乞うた

 

「焼石法とは、岩の上で火を焚き、岩が焼けた時に水を入れる方法である」という。町田奉行はすぐ実行した。驚くなかれ、熱した岩は水が入ると轟音を発してダイナマイトのように破裂した。それからは豊富な藩林から薪を切り出し、山と積んで火をつけ、次々に岩を破裂させて新川を掘り切ったという

 

轟之瀬の本流は下ることはできても、上ることは絶対できない急流で、米を川原の蔵に降ろした舟は、新川を上り下木場の藩倉庫まで帰るようになった。勿論、新川は浅いので櫓はこげない。両岸からエンヤコーラと引いて上がったという。これに似た物語が四国の土佐藩家老野中兼山の事蹟にもあるとか!

 

〇九半駄(くはんだ)~2023.2.6(月) 

 

寿永・源平合戦の昔、宇治川先陣の誉れをあげた佐々木四郎高綱の乗馬「池月」は薩摩の産であったという。宮之城領主は、渋谷氏時代から弥三郎岡の台地に牧場を設け、百余頭を放し飼いし、島津金吾歳久の時代には毎年4月、船木の元(おろもと)で馬追い式をあげ良馬を選んでいたという。(「苙)とは、馬を追い込む木の囲い)

 

6代領主島津久洪の時代には、「追風」という名馬を出したと伝えられている。ところが、ある年、牧馬の数がだんだん減ってゆくので捜査したところ、牧馬の中に小椎ケ中山という深山があって、そこに住む怪物が夜な夜な馬を喰って持ち去るのだとわかった。その眼は、あたかも八寸鏡の如くであったという。

 

領主は船木の住人、牧馬守役の山下弥六兵衛(当時の山下教育長の祖先)に退治を命じた。彼は牧馬の櫓に登って「怪物、御参なれ」と待ち受けた。やがて、早や暮れやすい秋の陽は西山に傾き、一陣の風にザワザワとそよぐかや、すすきをかきのけて怪物が現れた。と同時にヒヒ-ンといななく馬の悲鳴……間髪を入れず放たれた雁股(かりまた:二股に開き、その内側に刃のついたやじり)は、ハッシとばかり怪物の喉元に突き刺さった

 

やがて夜が明け、血の跡をたどって山を越え、谷を渡り、入来峠八重山の頂上まで来たところ、息絶えて倒れているのを見つけた。あまりにも大きいので、手は手、足は足と切り離し、馬に積んだら九駄半あった。馬一頭に積む分量の荷が一駄である。城中に運ばれた怪物は誰もその名を知るものがいないので「九半駄」と名付けられた

 

その骨は、町村合併まで盈進校の土蔵の中に保存されていたが、校庭拡張のため解体されたので骨の行方もわからなくなった。土蔵は現在のプールのところにあった。古老は、山犬か狼か大猿(ゴリラ)ではなかっただろうかと語っていた。しかし、昔の宮之城の話は壮大である

 

〇理外の理 2023.1.30(月)

 

現代人は理論や筋の通らない話は絶対に受け付けない。昔の人は「理外の理」ということを相当重く見ていたようだ。諺として立派に残っている。「何も理屈通りいったら蟹も横には歩まない」とも言っている。11を足すと2になる。これは誰しも納得する数字の理である。しかし、にわか雨の時、里芋の葉に右と左に水滴がたまっていた場合、葉をつぼめて水滴を合わせると1足す11である。勿論、水の量は2倍になるが水滴は1つである。結婚して2人になったからといって生活費が2倍になるだろうか?

 

建武の昔、楠木正成は赤坂城を800の兵で守り、北条軍80万の軍勢と戦った。理屈では北条軍が勝つ筈である。しかし、北条軍は毎日負け戦であった。正成の旗印は「非理法権天」であった。すなわち、非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず、との意である。80080万とでは理の上では80万のほうが勝つが、正成の戦法には勝てなかったという訳である。理外の理とは、理に勝る法のあることを言ったのかも知れない

 

国民は、道路も、橋も、学校も皆国民の税金から払われるのだから、分相応の納税は当然の理であると理解している。今日、各種運動花盛りの中に、納税滞納運動ばかりは起きない理由はここにある。しかし、少しでも軽くてすむように所得を低く申告したり、隠したりする人がある。中には何十億という脱税を計る人もいる。理屈では割り切ったつもりでも、いざ、身銭を切って出すとなれば理論ばかりでは割り切れないものがあるからだろう。それを理外の理というのは少しこじ付けかも知れない

 

議論をして理論では相手を打ち負かしても、相手がその理論を絶対なものとして積極的に協力するかといえば決してそうではなく、逆にやっつけられた反感が残って非協力的になる場合がある。理外の理と言えるかも知れない。「泥棒にも三分の理」と昔に人は言った。5両盗めば首が飛ぶと言われた時代に、泥棒の身にもなって考えてみる昔の人の心の広さ胸の温かさに、ただ頭が下がるばかりである

 

〇南洲と海舟 2023.1.23(月)

 

「それ達人は大観す 抜山蓋世*(ばつざんがいせい)の勇あるも 栄枯は夢か幻か 

大隅山の狩倉に 真如の影清し 明治十年の秋の暮れ 諸手の戦打ち破れ…」

旧幕臣、勝海舟が、明治10924日、城山の露と消えた蓋世の英雄西郷南洲翁を弔った琵琶歌である。田原坂の激戦で21日間苦闘の末、ついに総退却となったとき、「桐野どん、村田どん政府軍もここまで強くなったのだからもうロシアや支那が攻め込んでも大丈夫でごわす」と莞爾(かんじ:にっこりと笑う)として笑ったという。事、志と違い逆賊の汚名を着たけれども国を思う心に一点の曇りはなく、真如(しんにょ:あるがまま)の月のような純な心を歌いあげたものである

*抜山蓋世:山を引き抜くほどの強大な力と、世を覆い尽くすほどの気力があること

 

宮之城は城之口の大磯家に南洲直筆の募兵依頼の書翰(しょかん:回達)が残っている。宮之城郷の三氏に宛てたもので、「一昨日以廻文……隣郷等への御談合有之有志の者は一緒に御出発可有之候……九月五日 本営 宇都宮幸蔵殿 平田幸助殿 大磯彦六殿」となっている(平田幸助は当時の戸長)

 

宮之城人士500余名が西南の役に従軍し、或いは戦死し、或いは捕らえられて市ヶ谷の獄につながれ辛酸をなめた。その招魂碑は楠木神社の境内にある。明治12年、生き残った人たちの代表和泉邦彦、宇都宮平一(のちに代議士)などが海舟の邸に伺候し、招魂の文字を依頼した

 

しかし、海舟は筆不精で初めは応じなかったが14回目の訪問でその熱意に動かされ筆を執ったのが「恫帳舊歓如夢(ちゅうちょうきゅうかん夢のごとし)」の大文字である。喜んだ宮之城の人たちは、川内川から大きな石を堀り上げ、松尾神社(現在は「一福」)の境内にこれを建てた。昭和23年、自治体警察の建設に伴い城之口の現在地に移した。明治維新は、日本の続く限り語り継がれるだろう

 

南洲翁と勝海舟が明治の夜明けに犠牲を最小限度に止めた根底には、天を敬い人を愛する心が両雄相一致したためにほかならない。とするならば、勝海舟の書は、宮之城の貴重な遺産として大切にしなければならないのではなかろうか

 

〇うちきい、しきい 2023.1.16(月)

 

昔の人は、よく「うちきい、しきいのなか人は役(やっ)せん」と言っていた。 いつ始まったのか、終わったのか、終わらんのか、こんな人間は役にたたぬ、ということである。相撲の仕切り直しも何回もやるとお客が怒る

 

徳川時代(1700年頃)、近松門左衛門という物書き(小説家)がいた。もとは歴々の武士で、堅苦しい武士よりも人間味豊かな庶民の生活を愛し、武士を廃業して小説家になったという。近松の小説は、庶民の哀歓をテーマにしたものが多く芝居や狂言に仕込まれて、庶民は勿論、殿中の女人衆まで見物し紅涙をしぼったものだそうで、近松物は今日でも結構大繁盛している。その文章は、漢字には仮名をつけ、文章の区切りには点を打ち、子どもでも読めるように書いてあるので彼の小説は飛ぶように売れた

 

ある日、京都の珠数屋が苦情を申し込んだ。「文章の中に句読点が多すぎるので読みづらい」と言うのである。45日して、近松から珠数屋に手紙が届いた。「二重にしてくびにかける珠数を買いたい」とある。珠数屋は早速二重にして首にかけるような長い珠数を作って持参した。近松は、「二重にし、てくびにかける珠数を注文した筈だ」と言う

 

しからば、二重にし、手首にかける短い珠数を作ってきた時には、「二重にして、首にかける珠数を注文した筈だ」と言うつもりである。どっちみち、珠数屋は引き下がらなければならない。「先生、わかりました」と深々と頭を下げたという話が残っている

 

「うちきい、しきい」と言うのも、近松の話と似たようなことで、ただ、ダラダラと書くだけが能ではなく「春の次には夏、次に秋、冬と区切りがあってこそ人生は楽しいのと同じように」始めは始めの如く、終わりは終わりの如く、区切りがあってこそ所帯暮らしは間違いがないと言うことであろう

 

◎俚諺(りげん) 中原 光明(会員)

  「がんない千年」

  「がんない」とはひ弱な人の事。かねて病気がちの人は、自分の身の程を知って養生を
し健康に気をつける。
それで却ってかねてから元気で逞しい人よりも長生きする。
かねて身体に自身のある人は、力任せに仕事をし、摂生に努めないので病気にかかったとなるともろい。このようなことを「荒らしかもんのひとねおい」と言っている。病弱でも、そ

の心掛けによって長生きできることを教えたものである。


 

「九十九郎」

佐志田原地区に伝わる話であるが、この地区に一反歩が100枚ある棚田(段々になっている田)があった。

 

この田の持ち主の源吉爺さんは田植えの準備に出かけたそうである。このような小さな区画の田んぼは、牛で鋤き起こしができないため、勢い鍬で田作りをせねばならないが、十時のお茶の時刻となったので、着ていた雨具(みのやたかんばっちょ傘)を外し畦に置き、煙草に火をつけた。

 同時に下から耕した田を数えだしたがどうしても一枚足りない。何回も数えながらこんなことはないはずだと思いながら

 ち上がり、たかんばっちょ傘を取ると、その下に一枚隠されていた。

 この故事から、百枚に一枚足りない「九十九郎」という地名がつけれたと言う。

 


「うして飼(げ)」

 

ほったらかしで育てられることである。戦前は鶏を放し飼いにした。鶏は夕方小屋に帰って泊まるだけで、餌は床下、菜園、裏山の虫や落ちているモミ、木の実をついばんだ。

 このように、人間もあまり手をかけないで育てられた。 はだし、薄着、粗食など現在の過保

正反対の言葉。