◎歴史散歩

〇渋谷良重は本当に妻に刺殺されたのか?(その2)  2021.9.20

 

良重暗殺は、仮説として「小姓・村尾亀三丸が刺客を城内に手引きし、良重と妻を刺殺し村尾小姓が妻を殺害したように見せかけた」というのが根幹である。黒幕は島津16代守護職義久ではとしている。念願の三州統一を阻んでいる薩摩の勢力は、薩州(出水)の島津実久・義虎親子、祁答院勢である。小姓は入来院の出であり島津宗家との繋がりは分からないが、義久には深謀遠慮な戦略があったとみている

 

島津宗家にとって、歴史に謀略など不名誉なことを残すことは避けなければならず、三段階の策を垣間見ることができると言っている。まず、良重の悪行振りを『宮之城記』などで喧伝し妻の嫉妬によるものとのストーリーである。他の史書などによると良重の実像は勇猛であり寺社への寄進など信仰心も篤く容易に守護方に妥協もせず他の国人領主からも信頼のある人物との評もある。武人としても思慮深く器量を持ち合わせた人物という実像を否定するため、悪しき面の強調など悪人仕立てが必要だったとの考えである

 

妻の刺殺動機は「嫉妬」との定説への疑問も投げかけている。嫉妬は現代人の感覚であり戦国時代には考えられないとしている。領主家にとって安泰が第一義であり政略結婚も当然であった。子の成長は不確実であり子だくさんが当たり前で、嫡子を頂くことは正室の義務でもあり、側室を迎えることもまた当然の時代であった。薩州島津家から良重に姉が嫁ぐのは、守護として義久を抱くのを良しとせず、良重は完全な敵であることから義久への牽制もあって姉の結婚は同盟構築が主目的の政略結婚であろう

 

このような状況の中で、三州統一の前に薩摩を統一したい義久は、合戦では大きな犠牲、負担が伴うので当時、戦略の一環であった調略や刺客を選んだと推測される。良重が亡くなれば渋谷の結束を乱しオール渋谷を軍門に下すことができる。一番得をするのは義久である

 

このため、小姓を篭絡し刺客を呼び入れ良重を刺殺し妻をも刺殺した。これは、良重の悪行、妻の嫉妬によるストーリーとしたのは、宗家の陰謀・謀略が表になることを避けるため、真相究明の矛先が薩州家に向けられることを図った、とみている。私の見解でも、1213歳の小姓は、奥方が良重を刺したら良重の介抱を行うか奥方を捕えるのが先決だと考える。良重は妻の守刀で絶命し抵抗の様子もないことも考えられず、不自然さ感じる。有無を言わさず奥方を刺したのは口封じではないのかと思ったりする。小姓の役目は刺客を呼び入れ、刺客が二人を殺害した後、偽装の証言者となったとの見立てである

 

村尾小姓は、直後の取り調べに「妻が殿を刺したので奥方に躍りかかって刺殺した」と証言し定説になったと思われる。3年後、村尾源左衛門と名を改め義久の家臣となっている。なぜ仇敵良重の小姓をここまで面倒みているか謎である。また、良重亡き後、入来院が虎居城に入り統治しようとするが義久は追っ払い、歳久の所領とし薩摩祁答院に島津のくさびを打っている

 

 

以上のことから「黒幕は島津義久」と推測されている。私の説明は稚拙であったが新原氏の論考は幅広く詳しいものであり一読を推奨したい。次回からは、さつま町郷土誌研究会の会長三浦哲郎氏の「歴史散歩」を取り上げたい

〇渋谷良重は本当に妻に刺殺されたのか?(その1)  2021.9.13

13代渋谷良重は、上宮山での狩猟の後虎居城で正月の酒宴を行い醉臥し正室に刺殺されるという最後を迎えている。これが祁答院渋谷一族の終焉となる出来事である。この出典は『宮之城記・祁答院記』の記すところであり、私もこれを信じており通説と理解している。しかし、頭の片隅に奇異さや影での陰謀など片鱗が頭をかすめたことはあったが、『記記』の通りで戦国時代の政略結婚や女性の地位、嫉妬、はかなさ等と共に、数多の合戦より一女性の守刀一閃、一瞬で渋谷の長い歴史に終止符を打った「実家への忠誠・意志の強いすごい女性」と納得していた

 

ところが、良重は本当に妻に殺されたのか!という主張に出会った。『千台』35号の新原誠也氏の「祁答院良重の謎、祁答院良重は本当に妻に刺殺されたのか」である。当地に住む私としては題を見て愕然とし、内容を読んでその説得力、洞察力に感嘆した。今回はこの要旨を伝えることにしたい。詳しく知りたい方は関連文書も参照している原本をお読みいただきたい

 

まず、古文書といえども作者の主観や思い入れなどで創作の例もあり、必ずしも真実とは言えないことから始まり、妻の動機について、政略結婚での父の命令であろうと、「はいそうですか、わかりました」の不自然さ、一念貫徹さや嫁いだら愛情も生まれ、殺めても得るものはなく嫉妬が主たる要因であるのかの疑問を呈する。しかし、記記では良重の人となりを記した部分はわざわざ項を設け表現も異様であるとしている。天帝を侮慢し剛毅を業とし礼を疎かにし、子供や下僕を弓で射るなど良重の異常性や悪行、積悪ぶりが記されている。妻が殺意をもつことも然りで、「良重=悪、妻の殺意=当然」の印象を与えている

 

妻は出水の薩州家実久の娘で島津薩摩守義虎の姉(腹違い)である。『川内市史』によると、

「大口市在住の祁答院氏の系図には、良重は妻と共に薩州家の刺客によって殺された」と記されているという。更に、「嫁入りした時に既に刺殺のことを言い含められていた」ともいわれる。いかにも薩州島津家のやりそうなこと、黒幕は薩州島津家と示唆している

 

話は次回の佳境に入る前にもう一言追加しておく。「…妻が躍りかかって思うさまにさし伏せたりその時、13歳(12歳説もあり)の村尾亀三丸小姓はこの有様を見るより早く室を取り伏せ一刀にさし殺した」。この小姓は後に義久公に召し出され村尾源右衛門となった

 

次回(または次々回)に、新原氏の考える黒幕や真相(?)について述べる

〇閑話休題(島津忠長は虎居城に住まず?―その3) 2021.9.6

虎居城の主は大前一族、渋谷一族の後、大筋では島津歳久、北郷時久のあと島津忠長となる。しかし、「忠長は虎居城本丸に居城しなかった?」と思われる記述が『宮之城記』に見られる。平和期に向けた「独特な城の使い方」なのか?歴史には直接関係しない事ながら、詳しくは、

「…城内に名所多し 塩の城 中の城、松社城 おきたの城 小城 小姓屋敷 普請場 歳久居城の時、太守義久公両度此城に駕を寄させ給ふ、又慶長の頃、図書頭忠長主の長女昌英大姉此城に移給ふ 旧跡御屋敷と号して今にあり、其砌(みぎり)家臣指宿治部入道猶存が居城は松社の地なり、竹田善左衛門、近藤孫右衛門、伊地知若狭、土持覚左衛門等のもの共、其外数多之家臣共城内に令居城、近藤屋敷と云い伝ふ…」と、その様子が記されている

 

それぞれの家臣が「各々の城に居城した」と言っている。その為、忠長は本丸には住まなかったというのは短絡過ぎるかも知れない。別屋敷を建てたかも知れないが、ここでは「なぜ本丸に住まなかったか」をテーマとして挙げたい

 

私が最初思ったのは下衆の勘繰り、邪推ながら、「歴代の領主が不幸にして強烈悲惨な死を遂げた城のため忌み嫌った」である。渋谷良重は妻による刺殺、歳久は自刃の後さらし首というとてつもない死に方、時久だけは幸運であり、67歳で畳に上で天寿を全うする。しかし、念願の都城復帰ができなかった点は少し残念であったと思う。魂は即帰還したのだろうが!

 まず家臣を城内に住まわせた理由であるが、東郷より宮之城に移っているが、この時、東郷は息子に任せているので一族郎党、家臣共々の移動ではなく、主だった家臣と共に移ったと思われる。この時、旧家臣団の住むところは麓に相当する城ノ口地区である。ここの主力は歳久の家臣が多かったと考える。前領主・北郷家は比較的少人数で宮之城にきており、僅か5年で都城へ帰還している。歳久の孫、家臣は最終的に日置家を継ぐが、残った宮之城の主力は歳久の遺領であり遺臣・遺民と考えられる。このため、忠長の家臣団の住処は城内居住が主力となったのではないか

 

時代的に、藩内は島津家で統一され以前のような豪族割拠の時代ではない。後に、朝鮮派兵や関ケ原はあるが、虎居城での攻防は必要性が無くなってきている。逆に、平和になると防衛重視の虎居城は不便であり、政務や領内統治が重視される時代になってくる。忠長は秀吉への人質体験や家康との接触、大阪、京都、江戸の体験などから最先端地域の人や組織、文化、町の在り方まで感ずる部分があったと思う。城の在り方、町の在り方などは深い見識を持っていたのではないだろうか

 

後日、見逃していた有力な情報を指摘された。忠長は家老職にあったことはよく知られているが、没した1610年までは藩の家老を務めていたのである。このことから、忠長は虎居城に常駐する必要も時間もなく、1602年の関ケ原の戦後処理で家康と折衝し起請文を得たことが最後の事績であろう。本丸は宮之城島津の家老を筆頭に政務を行う場であったと思われる。忠長は「さゆみ瀬戸」と呼んだり、曇秀寺の建立などの事績はあるが、虎居城では御仮屋的な屋敷に住んだのであろう。忠長は慶長5(1600年)祁答院地頭となり宮之城に罷移し、同11(1606年)鹿児島に罷移したと記録がある。この館も藩家老としての重責も果たす有益な人物だったと尊敬に値する

 

松社は本丸の地(曲輪)である。他の城も「令居城」とあり、これは住まわしめた、であり命令である。家臣に住まわしたのは歳久や良重の霊的な理由ではなく、藩家老の職務遂行に忙殺されることに加え、将来的に「御仮屋」を中心に町が作られる「青写真」があったのではないかと推測する

 

 

〇閑話休題(島津忠長に関する小話「さゆミ瀬戸」~その2) 2021.8.30

2代宮之城島津領主・島津忠長のエピソードはいくつか残っている。『宮之城記』の本文部の冒頭、“「宮城」 序文に委記候”の中に、

「…且又城之大手をさゆミ瀬戸と云也、夏は涼しき瀬戸なれば 紹益様名付給ふと云伝たり」

の一文がある。虎居城のある個所を言っているが、「さゆミ」とは何か?「さゆミ瀬戸」とはどこなのか?よく分からないのである。大略は、夏に涼しい所のことを紹益(忠長)様が言っているのは分かるが詳細が分かっていない(崩し字をここまで翻訳できればの話)

 

当初私は、“大手”とあることから大手門、即ち虎居城の入り口付近を思ったが、瀬戸とあるものの川内川と少し遠いので地理的に結びつかず、ここのどこが涼しいのだろう?「さゆミ」とは??であった。後程、この解釈に幾つかの説を見出した。『宮之城記読本』(道川内丁著)では、「城の大半をさゆの瀬戸(沢見が瀬戸)と言い、淋しい瀬戸」と訳してある。しかしこれは誤訳と言っても良い(尤も氏は、本全体の要旨概説を主体にしているので細部には余り拘っていない面がある)

宮之城歴史資料館の虎居城模型では、本丸・松社城と中の城中間付近北側の川内川に面した箇所を“さゆみ瀬戸”としている。同様に福田信男氏の『薩摩郡における古城址の調査』では、前記場所の南北反対側(松社城の南側付近)を“さゆみ瀬戸”と示している。いずれも川の温度や流れにより引き起こされる川風の当たる箇所(川岸)に比定している。これらの説は原文と合致しない点があり、もう一つ説得力がない。両方が渓谷のような山々に囲まれた瀬戸とは言い難い点と、人が往来、もしくは佇んで涼を求める場所なのか、そして「大手」とも結びつかない。時間により風向きも風量も変わり、暑い直射光も差し込み果たして涼しいのだろうか?「さゆみ」の意味もよく分からない

ここに拘る人は少ないようであるが、私は長い間なぜか引っかかり疑問に感じていた。私にヒントを与えてくれたのは、虎居城発掘調査の結果まとめである。孤丘とも言える本丸・松社城の曲輪と同じく孤丘の中の城の曲輪との地形と本丸の「大手」の位置である。写真で解るように、山々の合間、二つのピラミッドが向かい合う峡谷とも言える場所、そして松社城側には大手門が位置しているのである。

 

私の考えは、虎居城を南北に横切る両曲輪間の隘路のような通路である。ここは現代風に言うとビル群の並ぶ下の道路である。ビル風が吹き抜けるように川風が風の通路を作っていると考える。瀬戸とは瀬戸内海のように、狭い海が両方の高い陸地で囲まれている所を連想するが、瀬戸は古くは「狭門」と書き、相対する陸地が迫って狭くなっている海を指すらしい。陸地の気温は温まって上昇し、そこに温度の低い川付近の空気を吸い込み風の流れが川風となって生成されると考える(方向は定かではないが…)。ここは、松社城の大手が面しており、必然的に通行する人も多いだろう。これは忠長の言っていることに合致すると思う

 

当時のさゆみ瀬戸は、現在の地形で言うならば新設された「分水路」に相当する。当時、これ程幅は広くなく風が吹き抜けたと考える。「さゆみ」の「さゆ」は、古語では「冴ゆ」とも書き、冷えるや冷たいことを表す。「み」は不明であるが、「身」ではないだろうか。即ち「冷える身」⇒「冷える身の瀬戸」と想像する

その後、「形容詞の名詞化」ではとの指摘を頂いた。重い→重さ、甘い→甘さ…の末尾に着く「さ」である。従って、「さゆみ」は「涼しい」を名詞化した表現との説である

 

次回は、忠長は虎居城に住まなかったと記されている。では何故住まなかったのだろうか?想像してみたい


〇閑話休題-その1(島津忠長に関する小話) 2021.8.23

渋谷良重暗殺に関する「重い話」の前に、同じ虎居城がらみの茶話的な軽い話題を先に取り上げる。以前より疑問に思っていた宮之城島津家領主・島津忠長(ただたけ)に関する小話3話である

 

その1:忠長は始祖なのに、なぜ第2代宮之城島津家領主なのか

皆さんはこの問に対して何と答えますか?私の単純な疑問の出発点は次の通りである。

この地方は、大前、渋谷、島津歳久、北条時久と続き、島津忠長は1600年にここの領主となり、以後、明治維新までその系譜は続く。宮之城島津家の礎を築いた人であり、実際の「始祖」といえる。家系は、島津家中興の祖である島津忠良-尚久-忠長であり、父の尚久は相応の貢献・功績ある人であるが宮之城には封じられていない。宮之城での事績はなく、墓は加世田の竹田神社にある。なのに尚久が初代(第1代)宮之城島津家の人物なのである

 

この問題は家筋が重要である点と庶家・支族で決めることではなく宗家の専権・専決事項である点である。近世初期(江戸時代の始まり)、徳川幕府は大名統制、支配体制確立のため諸大名の系譜の提出を求めた。島津藩も同様な目的で、支配下の郷領主、家士の系譜提出と調査を行い支配体制の強化に役立てた。更に下って、宮之城島津家家士の家系を記した文書も存在している。宗家や庶家の婚姻や関係性を明確にし、家格や序列の基準を明確にし、紛争をなくして統制・秩序を確立していった

 

この原則に従い、宮之城家は御一門につぐ中核的家格であり、後には一所持家(1712年)に繋がっていったと思われる。それは、忠良公まで遡り、尚久は御一門家に次ぐ血筋であり、どこを治めたかは問題ではなく、宮之城家創設の祖、即ち第1代に処せられたと考える

島津歳久は、この地方では余りにも有名なため、よく、宮之城島津家の初代領主と勘違いする向きもあるが、歳久は「日置島津家」の祖とされている。秀吉に粛清された点で系譜の上位には位置できず、孫が日置領主となったので日置家の祖となった

 

宮之城島津家4代の久通は藩家老で金山開発をはじめ殖産興業をおこなっているが、同時に図書頭であり、『島津世禄記』も表している。島津貴久・忠将や歳久の位置づけなど島津家格付けに大きな影響力も発揮しているという

 

次回は、忠長公はなぜ虎居城に住まなかったのか?そして、彼が名付けた「さゆミ瀬戸」とはどこで、どんな意味があるのか?について私見を述べたい

 

〇「戸田観音伝説異聞」 その3 2021.8.16

戸田観音の異聞と言うより、次の話は現実性があり、この話の方が真実ではないだろうかと思ってしまう。その話とは、地元住人・萩原一男氏の近代の採話である(『千台』30号、江之口汎生氏より引用)

「昔、洪水の時、溺れた者がこの淵で助けられた。ここは昔から溺死の多い淵であり、その厄難から逃れようと平原勇衛門が堂を建立し、以後水難がなくなった」(注:堂建立は現在より80数年昔の話になるが、別の堂と思われる堂は八女瀬事故より早く存在する)

 

この様に、昔からこの淵での水難は多かったと思われる。もちろん江戸時代も含めて。以下、私の推論を述べたい。「伝説は矛盾点が多く、必ずしも事実(真実)ではない」。戸田観音の話はその代表例だと思う。「その1」で記したように、土持仙厳は、息女の死体を取り上げ城内の寺に葬ったと明言している。戸田観音話は一切記述がなく、戸田観音で引き上げた死体を葬ったなどの解釈は成り立たない。『宮之城記』成立の享保の初め(1717年頃)に戸田観音譚は存在しておらず「その後、伝説が生まれた」ことになる

 

私は、八女瀬譚が流布され、その後、尾ひれ背びれが加わり種々の伝説が生まれ、膨らんでいったと思う。その話の発生源は「水夫」にあり、と考える。『宮之城記』に「土地の者、川船を作り…川内の津に下し…農商の営みとせり」とあり、年貢米も船間島まで運んでおり、川内川流域の水運交易が発達し多くの水夫の往来があったことになる。陸路より水路である

 

そして、虎居城の地形は戸田観音の地形と類似した点がある。虎居城は左岸より半島のように突き出し、川はぐるりと回っている。戸田観音付近は右岸から突き出しているが、同様に川が周回するように廻っている。また、観音様、堂、支流の吐け出(海老川、樋脇川)も似ている。ここを通る水夫は共通点を見出し、両者の因縁を感じ八女瀬譚と戸田観音譚は結びついたのではないだろうか?気候や増水などにより足止めを食らったり堂への宿泊、土地からの買い物、交流もあったと思われる。他郷の珍しい話を聞き、共感や当地の自慢話、取って置きの話で盛り上がり「川」に関する話で引き寄せられるように結びつき、そして、上流は八女瀬譚、下流は戸田観音譚の“さもありなん”な傑作物語が生まれた!風評のように伝わり、或いは一人歩きするように伝播していったのではと考える

 

今のような科学的、情報化社会ではなく、「口伝え」で伝わるのである。真実性より途中で脚色が入ったり、話を盛ったり世代間を通じた伝言リレーでもある。川内川の本流、支流を遡るよう逆流するように話が伝わり地区ごとに我が地域の領主の姫の話になったのでは…

 

〇「戸田観音伝説異聞」 その2 2021.8.9

前回は虎居城下の八女瀬物語が戸田観音物語と結びついている話であった。この伝説を基にいくつかの登場人物、場所の異なる類似伝説が存在する。戸田観音伝説を要(かなめ)とする扇のように上流の“物語”が存在するのである。今回は、樋脇川、久富木川沿いの伝説を紹介する、話の性格上、題名を「戸田観音異聞」とする。

 

戸田観音付近に支流の樋脇川が打ち出している。上流へと遡ると渋谷氏の流れを汲む入来院の殿が治めた入来になる。そしてこの川は清敷城直下を流れている。「川内風土記」による戸田観音(青崎速氏)による骨子は、

「元禄31690)年、入来院重豊の娘が川遊びをし、川に落ち侍女7人とともに死んだ。数日後戸田観音崖下に浮かんだ。がらっぱの仕業とし、娘の冥福を祈り観音様を安置し、脇にがらっぱ像を置いた」である

 

元禄3年は1690年であり、重豊には若い息女はおらず、それより107年前の1583年に没している。伝説を細かく検証するつもりはないが、樋脇川の水量、川幅など雨季でないと流れつかないなど荒唐無稽すぎる。虎居城下の八女瀬伝説に感化され(または、伝説が途中で事実誤認や間違いなどで伝わり)現実を超越した話が地域特有の伝説として伝わっているとしか考えられない。

 

実はもう一件、支流の久富木川(瀬早川)の上流である祁答院にも伝説がある。『川内ガラッパ』(山田慶晴著:戸田観音由来記からの採話)による骨子は、

「天文221553)年、祁答院最後の領主・渋谷良重の14歳の一人娘が侍女たちと久富木川で水遊びをしていて藤の花を取ろうとして川に落ち死骸は上がらなかった。侍女6人は責めを負って入水自殺した。数日後、戸田観音で息女の遺体が上がり、ガラッパの仕業としここに観音様を祀り、足元に河童の木像を置きいたずらを封じたという」である

 

この後のおもしろい話もあるがここでは省略する。良重没の3年前の出来事であり、なぜか久富木川での7人の川遊びになっている。川沿いに良重寺があり、入水死した人の墓もあるが、時代的に合っていない。前記の樋脇川の話と同様、非現実的であり我田引水的に「我が地区の物語」に変質したと考えられる

 

更に「戸田観音異聞」とも言える話も存在する。その話も次回取り上げ、伝説が幾種類にも変質して拡散したことのまとめを行いたい

〇「八女(丈)瀬伝説」の不可思議 その1 2021.8.2

虎居城関連の話を続ける。今回は「八丈瀬伝説」である。『宮之城紀』『祁答院記』双方に出てくる話である。伝説の骨子は、

 

「古老の言い伝えでは、渋谷氏の息女が波高い瀬で遊覧中、いかなることか溺底に沈んだ。女中7名は驚き助けに入ったが7人とも波底に沈んだ。女8人が泡と消えたことによりこの瀬を八女瀬と呼ぶようになった。

その死体を取り上げ城内の寺に葬った。法号徳英祐公禅定尼、長禄三年巳卯二月七日、墳墓は八てふの壇にあり今悉く崩壊している。虎居村大圓寺の観音はこの息女の形像と言い伝える。

私見では、長禄時は祁答院の地頭渋谷播磨守徳重であり、この人の娘か。時代を考えると相応ずる。八てふ壇上に墳墓数多ある」

 

宮之城記の成立は享保21717)年頃とされており、長禄31459)年の出来事なので、258年前のことを土持仙厳は記している。さて、この伝説に関連して広く伝わっているのが薩摩川内市中村町の「戸田観音」伝説である。この伝説は、八女瀬伝説の後編のも相当する

「虎居城の更に下流の戸田観音の淵にこの息女の遺体が上がった。渋谷徳重はいたく悲しみ、ここに観音像をきざみ、その足下に姫を川に引き込んだ河童をこらしめるため、その像を配し姫の霊を慰めた」

というものである

 

川内川にはいくつかの支流が流れ込みその上流には相応の豪族が存在する。その支流の数だけ本伝説以外のバリエーションが存在するのである。私が今回取り上げたのは、各伝説の紹介と検証するとおかしい部分、なぜそんな伝説が生まれたのかを考えたいからである。虎居城の「八女瀬」は、戸田観音などの伝説には一切触れておらず遺体を葬って完結しているのに雨後の竹の子のようにとんでもない話が伝説となって表れたのだろう?誰が広めてのか?疑問はいくつもでてくる

 

〇「宮之城、屋地、虎居」考 (その4) 2021.7.27

今回は「虎居城」とした背景について私見を述べる。このテーマには定説はなく全くの個人的発想に基づいている

 

大前氏はなぜ城名を虎(動物名)にしたか?川内川上流に同じく大前氏が築城した時吉城がヒントをくれた。時代考証はできていないが、時吉城を先に築き、その後、虎居城を築いたと考えている(後に渋谷氏はこの城を「上ノ城」、虎居城を「下ノ城」と呼んでいる)。その支城の一つに「龍崖城」がある。出城か砦的な城で、それ程大きい城ではないが城名がユニークである。山の高い断崖の上にあり、当時、下は十分な通路はなく直角に方向転換した川内川が迫るように直下を流れている。これを龍に見立て「龍と崖が守る時吉城」から命名したと考えた

川内川上下流に同じ大前氏が作った同一発想で「竜虎」があったのではないだろうか?時吉(含む佐志)地区を開発し、下流へと向かった。途中、長岡城、轟原城があり、更に下流には要となるような平地と川に囲まれた山城を作るにピッタリの地区があった。

英雄・豪傑、勢いをイメージする竜虎の如くありたい大前氏は、拠点になるであろう左右岸のこの地を虎の居る所、「虎居」を名付けた(私案は右岸のみであったが『角川日本大辞典』に従い左右岸とする)。即ち、現在の屋地+虎居地区である

 

村が先か城が先かは分からないが、さ程問題ではない。屈曲した大河には龍が住み、平野部、丘陵部は虎の住む所、即ち、「虎居」である。城は通常、土地の名前に由来する。大阪城、姫路城などメジャーなものに限らず、先ほどの城、山崎城などもその例に漏れない。築城するにもベース基地と、人、物、家屋など多くが必要で村は自然に大きくなる。その後、象徴になり、支配の拠点となる「虎居城」を築城する手順を踏んだのではないだろうか

 

「虎居」「虎居城」と言うのは実に良い名前である。ここら当たりには無い名前で、強そうで城に相応しく語呂も良くてインパクトがある。現在の私たちも、一番古く消え去ったのに宮城とか下城などとは呼ばず「虎居城」と言ってしまう。それは誇りであり、郷土のンボルとなっている。栄枯盛衰を見て来た虎居城は、自身が幕を閉じようとも虎居は歴史を継承しながら立派に名を残し多くを輩出している

 

前述のような歴史であれば、虎居、城と共に産声を上げたのは康治年(11425年=平安時代後期)であり、実に900年近い歴史を持つことになる。屋地も共に生まれた双生児であり、切磋琢磨する関係の宮之城の雄である。平成17年に「さつま町」と名前は変わったが「宮之城屋地」と歴史のDNAを受け継ぎ、数多くの歴史の糸を紡いできた両雄はこれからもそうあって欲しい。虎居城をめぐる歴史にこんな物語があるならば最高だ!

 

〇「宮之城、屋地、虎居」考 (その3) 2021.7.20

今回は「虎居」の由来について記す。このテーマは難題であり、史料のいう事を通説(正論)とし、疑問点も含め個人的発想も述べたい。まず、史料の内容からスタートする

【宮之城記】「宮城」項

「昔、大前氏ハしめて此城を取始しに虎の臥したるに準じて築之なり、其時ハ城の名を虎居城と唱ふ、今ハ村の名とせり、夫より渋谷が城と成りて十余代居住す、中頃時吉の城を上の城と唱へ此城を下の城と唱ふ也、島津左衛門督歳久の頃迄ハ下の城といふと見得たり…」

 

【祁答院記】序説部

 

「宮城は先ず大前氏が郡司となり、虎の猛威の図をかたどって築き虎居城と號した…(以下、上宮山、鉾ノ尾、城を取り囲む自然の地形は敵の侵攻を阻止する説明…然るに何代か続いたが、古名は消え村の名とする。後に渋谷家の居城となり、其の時は下城と唱えた…) 」

記述は数か所の中の代表箇所を示す。いずれも、大前氏が虎の形にならって築城し、後に(支配者となった)渋谷氏が居城し、村の名前となった。渋谷氏は「下城」と呼んだ。であり、渋谷氏が城名を変え、村名も命名したのであろうか?

 

【角川日本地名大辞典】屋地、虎居の項(当内容の出典は不明)

屋地は、中世期には虎居城の城下で虎居に含まれ(川内川両岸ともに虎居)、近世には、屋地となる麓

 

この説は初めて耳にした。これによると、「対岸地区が虎居村と呼ばれた由来は明白である」。城名が消え、左岸は屋地となり右岸の虎居が残ったことになる。記記はこの点が異なる。記記は「城名を村名にした」と言っている。私の持論は、この2説と微妙に異なる。いや、『角川…辞典』に近い説である。それと「なぜ虎居城としたのか」についても自説を述べる

 

その前に記記の述べることに3つの疑問を呈する。①臥虎にならって城を作るとはどんな形なのか? ②虎居城の呼び名をなくし、誰がどんな意図で対岸の村名にしたのか ③なぜ動物の城名にしたのか から切り込んでいきたい

 

虎は、絵や口伝えで獰猛な強い動物であることは知っていただろうが、臥虎に倣った城とはどんな造形の城なのか考えてみたい。敵に脅威を与える造りであろうが、山や台地を彫刻のように削る美術的立体的な造形や建物の形を虎に似せるのでは意味がなく「張り子の虎・張りボテ」である。それより、屈曲した川を深い堀と成すように幅、深さ拡張しり断崖を急峻にする方が効果的である。また、中世より城には「虎口」が作られたと言う。虎の口のように敵にとっては非常に危険なところである。孤丘曲輪を幾つか築き、各々に狭い登り口や虎口を設けたり、一ケ所の大手門(城の入り口門)も、そこに至るまで細く長い坂道にし、門も狭く頑丈に作れば全方位的に防御・攻撃できる(図に私の考える大手門<虎口>の想像図を示す)

 

低地からは雄大な山と崖上の凹凸を持った勇壮な姿が、或いは、虎居ノ迫のような高地からも起伏や土塁・柵・堀に富む城が見られたかも知れない。少なくとも大手門、本丸曲輪の土塁、虎口くらいはできていたのだろう。記記は「形」に拘っているが、土持仙厳の史書は広範囲にわたっており、この部分に多くを割くことはできなかったと思う。その時代当然の自明の理は詳しく書かず、簡潔且つ、イメージし易いような表現になった面があると考える

 

記記の通り、渋谷氏が虎居城を下ノ城に改名し、どんな意図で対岸を虎居村にしたのだろうか?敵の居城の名称にするだろうか?それ以前の村名は何だったのだろう?この地区は、後に渋谷氏の菩提寺である大願寺など寺社の多い所である。渋谷の宗教的な聖地である所にそのような名前を付けるとは思えないし必要性を見出せない。敵を滅亡せしめ城を占拠したら、城名変更に加え何事もリニューアルしたいことだろう。対岸に敵の象徴ともいえる「虎居」を残すことは考えられない。従って、記記のこの部分には疑問を持つところであるが、非情報化社会で情報も乏しかったことなのか!

 

消化不良気味ながら、次に村名の由来、城名をなぜ動物名にしたか肝要部分について私説を述べる

 

〇「宮之城、屋地、虎居」考 (その2) 2021.7.14

今回は「屋地」と「虎居」はどのような経緯で生まれたかについて記す。と言っても詳しい記録、言い伝えはないので大まかに絞れる点を見出し、そこからの判断になる。具体的には、当時の知行目録や藩政要録、雑録、記記(宮之城記、祁答院記記)などに記載されている土地名から調べた。手法として、新しい時代から古い時代に遡る方法で、いつの時代に「屋地・虎居」の初見が表れるかを調べ、その時代における出来事や要因について可能性を探る

 

   1823年】文政6年の内山軍兵衛の書いた「宮之城郷道路・門名図」には、川内川左岸広域を「屋地」、右岸広域を「虎居」

と表している。時代的に当然であろう

宮之城記(町発行版)に別載の「大字別字図」では、屋地、虎居などの江戸時代からの字図に加え明治期に名付けられた字名も混ざっている。この中で、虎居字図に、川右岸の宮之城橋のすぐ上流の狭い区画に「虎居町」、現広域公園の“のびのびランド”付近の「虎居ノ迫」が目を引く。虎居町は更に北方向に区画が広くなった字図もあり、いつの時代かははっきりしない

 

虎居ノ迫は虎居城がらみで自然発生的で古さを感じる。丘陵が虎に似ていたとか、虎居城を見渡せた傾斜部だったのだろうか?この字図は、昭和期に再編集したものであり、虎居町は隣の旭町と並び新旧合作の名前のようにも思えるが、古くはこのエリアを虎居と呼んでいたこともあり得る。また、虎居城の実物か記憶なくして生まれる名前ではなく、虎居の名がつくことは、虎居城があればこそ生まれるものと思える

 

②【1690年】宮之城記では、元禄3年の「高及び人口」を表している。虎居:1256石、733人、屋地:高と人口の記載なし…など他を合わせ8村で、虎居は石高の割に人口は最も多く、求名:1973石、103人、船木:1304石、428人に次いで3番目に石高の多い村となっている。ともかく、この時代には8村で屋地、虎居ともに出現している。屋地については高、人口の記載がないが、屋地の名称は成立している。城が領主仮屋に移り、麓武士、商工人が多く百姓が少ないことであろう

 

   1600年以降】宮之城記記載の『薩藩政録六十五』によると、宮之城郷は、屋地、平川、柊野、時吉、求名、船木、湯田、

虎居の8ケ村となっている。石高は、総高:8709石、家士高:4167石、用夫:771人、野町用夫:82人等となっている。こ

の領から判断すると、8ケ村は忠長が拝領したのが始まりであり、1600年(忠長移封時)以降、屋地も虎居も村として使われて

いたことが分かる。野町、82人の規模の大きさも興味を引く。また、別資料によると、慶長19<1614>年、知行目録で屋地村は

出現しており、この頃が初見と判断できる

 

   1598年】『都城島津家所領』慶長3年における長千代(北郷時久の孫)の所領は、川内久見崎や祁答院16村をふくむ膨大

なものである。その中に「宮之城:452石」「虎居:1048石」が入り、「屋地」は入っていない。「宮之城」は石高の大きさか

ら屋地に相当する地域を指していると考えられる。城の跡地を畑にしたのは城がなくなってからであり、「宮之城」はこの限られ

た範囲に使われていたと見ることができる

 

込み入った話であったが④に着目する。「屋地」は北郷時久代では使用されず、島津忠長の代以降に初めて使われていることである。この時代のエポックは「一国一城令による領主仮屋の建設」である。その1で述べた、外城=領全体の名前を「宮之城」とした時と同じく、領主仮屋とそこから広がる地区を何と称するか必要性が生じたと考えられる。最終的に、結果的にこの麓を中心にしたところを「屋地」と決めている

 

屋地の由来はいろいろ考えられる。まず、「領主の屋形(館)や家老など麓武士の屋敷の地」、そこを中心に士族の家並み、野町の商人作り家屋、看板、屋号などからなる「陣屋町」の形態となり、田畑はなくなっていく。「陣屋町」、「館、屋敷の地」、全体の町並みから「屋地」を名付けられたと推測する

 

さて、「虎居」は更に古い時代より使われたと考えている。次回は「虎居」について記す.。間に合えば私の考える城の一部(想像図)を図示したい

 

〇「宮之城、屋地、虎居」考 (その1) 2021.7.8

「宮之城」!いまは無き町名ながら昭和生まれにとってはしっかりと生きている。ここに生を受け、平成17年の大合併までの50年以上“不変のもの”との意識は今でも生きている。宮之城の由来については『宮之城文化』16号で私の思い付きを述べた。

(不勉強の為、重要な事を記載していなかったので追記する。吉田領は「大隅正八幡宮」と深い関係があり、この神社と上宮山の影響から「宮之城」とした、と訂正したい)

今回は、城の名前がどうして町の名前になったのか、「屋地」や「虎居」の地区名はどのように生まれたのかを考えてみたい。これらの資料や言い伝えもないので経緯は分からないのが実情である。ここからは私の推測、想像になる

 

これらの名前は、島津氏の三州統一(薩摩、大隅、日向)を果たした天正51577)年頃に端を発していると考える。その後、秀吉への敗北、この地の領主の変遷はあるものの島津氏を頂点とした薩摩藩の支配体制は確立する。武士人口の多い薩摩藩は、内城の鹿児島城(鶴丸城)に対し、領内各地を「外城」とし地頭や縁戚領主を配置して分散統治させ、薩摩藩の政治・軍事的ネットワーク化や中央集権的な統治体制を敷く

 

島津忠長が宮之城に入り(1600年)、徳川幕府の一国一城令(1615年)が出るまでは虎居城こと「宮之城(または宮城)」が本拠地になる。それまでは、本城、麓(城ノ口)の武士を中心に商工人、農家と広がる領で「不完全なるミニ城下町」風であったのだろう。農民は門割制度下にあり、村には10石以下の半農半士と呼ばれる武士も居住していた。農業に従事し自活するすると共に外敵に備えて外城の警備・支配に当たらせた(農民・農業の維持監視、秩序維持の任もあったと思う)

 

一国一城令により宮之城は廃城し、平地に「地頭所」を作った(当地は私領なので「御仮屋」と呼ばれた)。この時、大掛かりな「町の再編=街づくり」が行われたと考える。領内の中心部で交通の便が良く、防御も考慮した本丸に相当する領主の館を作る必要がある。城内に住む家臣、家士、つまり麓武士は御仮屋を中心に配置する必要がある。〇〇馬場などもこのように考えられたのだろう。漸次、市町、野町なども配置し「陣屋町」を呈していったと考える

 

3代久元の時、1644年から領主は鹿児島城下に住むようになり、領の政治は「御仮屋(盈進小跡地)」で所三役を中心に実務を行った。「宮之城島津家」の家格が「一所持ち」となったのは1712年で、一国一城令から実に100年後である。これは書面的な正式であるが、実質的にはそれ以前より「宮之城領の領主」と認識され追認したこと考えられる

 

山城は山の頂上に作り、石垣や堀で構成し難攻不落が城の代名詞でもある。武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と言った。薩摩藩の外城はまさにこの形態であり、113の外城に軍団が存在し、いざとなれば有機的に機能する(郷となるのは1784年)

 

さて、宮之城が町名となる起源であるが、領内を何と呼ぶか課題になったと考える。以前、宮之城と呼んだことは考えられるが、領内全域と言うより城とその場所・麓を言っていたのではと考える。また、祁答院から鶴田、佐志地区などを差し引かれた8ケ村に新たな領名が必要になる。「外城=領内=城」であり、山城である「宮之城」は消滅するが、形を変えて城は目の前に存在する。ここから領名=宮之城と言われるようになったのではないか!「宮之城」であれば、自然発生的に生まれたとも考えられ、城を守る武士を含め違和感なく納得するのではないだろうか。かくして歴史を引き継ぎ、明治・大正・昭和を通して宮之城郷から宮之城村、宮之城町となり、現在は歴史の流れを断絶するように「さつま町」生まれた!(皮肉ではない)

 

さて、次回は「屋地」、「虎居」(これは難題)の地名について考える

 

〇新「お供養どん」は黙して語らず(その4) 2021.7.2

島津歳久公と時吉との繋がりを言う前に「御霊信仰」について湯田信義氏の資料を基に述べる。史上何らかの災いにより非業の死をとげ、その怨魂の死後の祟りをなすものを、特に御霊と称して鎮魂に務め、これを神と崇めて尊崇するのが御霊信仰である。その元祖とも言えるのは、大宰府に左遷せられて流謫中に薨した菅原道真である。都に数々の災いを齎し火雷天神として祀られ、天満宮と尊ばれようになっている

 

不遇のうちに亡くなった菅原道真の御霊を慰め、同時にその御霊によって火の神、学問の神としてその神力をお願いする御霊信仰は古くからあったと言われる。このように見ると歳久公の御霊遺跡は、その御霊を慰めるとともに、その神力によって願い事をかなえてもらうという両面の信仰があったと理解できる。その現れが安産の神、腹痛の神、虫除けの神、航海安全の神として崇められきた事実がうなずける

話を戻すと、太平洋戦争終了の昭和20までの時吉区最後の神主は、旧士族の「伊地知七之丞氏」であり、この方がヒントを下さったと考えている。10年程前に既に廃墟となった氏の住宅を調べさせてもらったことがある。その際、2点根拠不明のものがあった。一つは「葉山神社御幸給」の木製の印(鏡文字になっているので)、もう一つは、3つの面(我々は神面と呼んだ)である

 

伊地知家は明治以来、彦権現(明治に多賀神社)の神主と目され、神事や神への奉納、祈願を行っていた血筋であると考えた(神官は代々の継承であるため)。神面は顔に装着して舞うような造りではなく信仰面と思われた。恐らく、天候を祈願する「日面・雨面・風面」即ち、天からの贈り物を左右する「日の神」「雨の神」「風の神」を祀る神具であり、彦権現では更に道真公の御神体、天忍穂耳命が祀られている。とすると、このような祭事はやっていたと思われ、それでも稲への虫入りや不幸などそれ以外の災厄も訪れたと考えられる

今回の問題は「葉山神社御幸給」である。当時は分からなかったが、隣村の湯田の供養山に歳久公を祀る「葉山神社」がある(以前は鵜木大明神だったがいつしか歳久公だけが祀られている)。湯田八幡神社に奉納する太鼓踊りも、まずこの歳久公に奉納してから踊る習わしだという(但し現在の秋津島舞いは、富満氏<大前氏>の前で舞っている)。「葉山神社御幸給」は明らかにこの神社由来のものであり、古さから江戸期・明治~平成にかけて祀り、保管されていたと推測される

 

用途は、お札(おふだ)として旧士族を中心に地区民に「幸せを給う」ために飾ったり、新お供養どんの内部に「ご神体」として「地区民総意の神」としてお納めしたと考える。何故なら、「仏作って魂いれず」の墓石では無意味であるから。現実に、内部には受け台のような石造りのものがある。現在は、それ以外は何も納められていないが、歳久公であれば、「小石」なども考えられるが、由緒ある「お札」の方が神威を高く感じる

 

かくして歳久公は時吉でも信仰されていたとする根拠である。代々の領主、大前氏、渋谷氏に加え、何もなくやるべきであった歳久公の霊を崇める供養塔ができたのである。稲田の虫入れ退散は、遠い曾木などからも信仰されている。金山の鉱害に加え、この時期に供養塔を作ったことは道理的に当然の帰結だったのではないだろうか。また、時吉の踊り(蜻蛉洲舞郎=虫退治の舞ともいわれている、金山踊り、石山源氏=源氏の供養か?なと)を、同じ区画にある供養塔に向って奉納するのもその信仰のなすところなのだろう

〇新「お供養どん」は黙して語らず(その3)  2021.6.27

新お供養どん造立の目的には、永野金山の鉱害による稲作不良は従属的要因と述べた。今回は、その主因について私見を述べる。と言うより根拠薄弱のため「こじつけ」、悪く言えば「こうあって欲しいファンタジー」の世界かも!

 

主因は、金吾様こと島津歳久公の存在あると考えている。歳久公が領有した12ケ村の内、金吾様の神社や墓、供養塔、位牌などのない村は、この時吉、平川、虎居だけである。他の佐志、湯田、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川には何らかが存在する。強いて言うなら「祁答院地区≒東部農村地区」では時吉のみと言ってもよい(こじつけたかな!)

 

反面、時吉はこの例外を除き歴代の領主を祀った碑は存在する。ここのお供養どんの渋谷重茂、高城にあったという渋谷重武と非業の死を遂げた渋谷良重の碑(古文書に記載有り、現在は確認できず)である。柏原の大願寺には、時吉民と柏原民により明治9年、墓の整備と牛馬病退散を祀り渋谷重武公の墓石に「大崎神社」を刻字している。つまり、場所は違えども前々領主・大前氏を祀っているのである(下方に記載の『古い時代の信仰』<その1>参照)

 

また、時吉の神社(昔は彦権現)にあったと思われる「天神宮」の木彫が現在は公民館の神棚に保管されている(これは近年では私が発見した)。江戸の中後期より菅原道真公が祀られ尊崇されているのである。このような信仰の事実から、天下人に反骨を示し最たる非業の死を遂げ無念の思い深き島津歳久公を供養し祀る何も存在しないのである。秀吉が洋々と凱旋通過した地であるにも拘わらず…

 

ここで江戸時代の時吉の古塔、史跡を列記する。神社、寺はもちろん薬師寺、阿弥陀堂、水天、延命地蔵、田の神、保食神、庚申塔、馬頭観音、十三仏、仏像画など…である。これらの意味するものは、明治に変わってもその宗教心・信仰心は引き継がれると考える。これらを考えると、歳久公に対する明治人の思いは如何なるものであったのだろうか?

 

古老に、当時は麓(屋地、城之口)の旦那衆に世話になりながら農業を営んでいたと聞いている。これは、城之口に神社、供養塔があるので特に独自の何らかを建てる必要はなかったかも知れない。しかしながら…実は最近、過去の疑問が歳久公との繋がりではないかと思い至ることがある。今回で結論を書く予定だったが紙面が足りなくなってきた。小出しにしているわけではないが次回で完結したい

 

〇新「お供養どん」は黙して語らず(その2)  2021.6.22

新しい「お供養どん」をいかなる理由で作ったのか?の続きである。「古塔お供養どん」と同じ区画に祠型の仏式墓を村中の意志で作り、現在も「お供養どん祀り」を行っているのでこちらが「お供養どん」と思っている。明治33年に造立されているので、この頃を中心に考えてみたい。以下のことは記録類を基にした私の個人的見解、仮説である

 

当時の時吉村は、旧士族農民の意識は強くても全世帯農村といっても良く、記録によるとこの頃に際立った台風・地震・洪水・豪雨・干ばつはこの地区の生業を襲っていない。また疫病に関しては、牛馬の炭疽病は10年頃で石作り堆肥舎に変わり、人や家畜に関する疫病の記録も見つけることはできなかった。一向宗解禁後であり宗教的なことも考えにくい。そうすると、この村特有の供養・願いはおのずと凶作に伴う五穀豊穣ではないだろうか!祀りの対象として、日清戦争での戦没者はおらず明治28年に終わり、同年に祈念して多賀神社を石碑とし、その記銘もある。日清戦争は対象から外し、「永野金山関係」その他に起因すると考えた。或いは相互に関係していることも考えられる

 

時吉田んぼ(現:約60ha)の用水は、永野金山に源を発する金山川(穴川)である。丁度この頃、金山川からの用水が鉱害で汚染し、田んぼの水口一帯は不稔現象を起こすなど被害が発生している。これは数年続き、水が命の稲作であるが明治3435年がピークとの記録がある。

 

永野金山の当時の稼働状況は、島津家の直轄業に加え自稼請負業が増え、各坑に良鉱が続出し大いに賑わっている。自稼請負者も水車を使い始め、昼夜分かたず回転の音がこだまし、金山一帯が大工場の感であったと言われ、最盛期で水車数 302台と記録されている。動力による搗鉱も行われている。また、確認できていないが「鉱害」というには相応の薬品も使われていることも考えられる。金抽出に青化法による薬物も使用されていることから、環境対策が十分とは言えない時代でもあり、泥漿のみならず毒性物質もあったかも考えられる。後に島津家と交渉し、3000円の資金を得て、穴川からの取水を南方川からに切り替える大工事(穴川の底に暗渠を設けるサイフォン方式)が明治36年から実施されている

 

33年前後は不作に見舞われたと思われ、当初は、原因は分からなかった事も考えられるが、天候や稲作に付随する虫害など複合での不作であっても、生活の糧である水田の異変は時吉水田しか使用していない用水の異常には早いうちから気付いていたと考える。33年頃に原因が分かっていても分からなくても、供養の対象とる人物の名前がないこと自体が解せないのである。お供養どんであれば、供養や鎮魂の対象が存在する筈である。従って、金山問題は「従」であり、他にもっと重要な「主」となる対象があったと考える

 

仏式の墓石であり、現在は神式の祀りが行われているが、当時はどの様に行われていたのか?考える程分からなくなってくる。次回は、金山関係が従なら主となるものについて、真っ先に供養すべき人物がいるのに代々されていない人物!を想像してみたい

〇宮之城島津家墓地「祖先世功碑」 2021.6.15

宮之城島津家墓地(通称「宗功寺」)にひと際目立つ立派な石碑がある。「島津久通祖先世功碑」である。巨大で林立するような立派な造りの祠堂形式の墓石群の中にあって、周りを圧倒する更に精緻で壮観にして威厳を感じる。まず目を引くのは、台座の巨大な亀と数多の漢字、即ち漢文で書かれた碑文石を亀が担いでいる点である。久通公の祠堂墓は直ぐ後ろにあり、前に位置する石碑と共に第2代領主・忠長公に仕えるように相対し西方を向いている。さて、墓地の由緒や何たるかなど一般的説明は省略し、余り知られていない「祖先世功碑」について述べたい。歴史的・美術的価値に加え、当時の文化レベル、祖先崇拝や宗教観の一端も窺えると思う

 

台座の亀は、姿は亀であるが正しくは「贔屓(ひいき)」で、後に「亀趺(きふ)」と言われようになった霊獣であり、牙があり角のような耳もついている。亀趺を台座にし、記銘の有る形式の碑は中国が淵源であり、わが国の各地に古くから存在する。東京にはもちろん京都、関西、鹿児島(薩摩藩)にも存在する。しかしながら、他の亀趺を見ると、甲羅を持ちながらも亀というより龍のようであったり、鎌首を持ち上げたスッポンみたいなものもある。基本的な考え・思想は同じであるものの時代や土地の違いが影響しているのであろう

Web情報などによると、贔屓(=竜蝠・りゅうふく)は、竜の九子のうちの一子で、日本での石碑台の亀跌(きふ)はこの贔屓から転化(変化)したものと考えられる。そして、重いものを背負う事を好み、甲羅に建つ石塔は永遠不滅と言われ贔屓は万病平癒のご利益があると信じられている。宮之城島津家が祖先崇拝と連綿と続き永遠の繁栄を願ったのだろう

 

他の代表的なものは鹿児島福昌寺の8代藩主「島津重豪(しげひで)公」の石碑があるが、久通公の世功碑が建立は古いせいか彫刻を含め造形美があり、亀趺の姿も威厳を感じる。文字の刻印も深く、優美な漢字であり一部欠損はあるものの現在でもくっきりと明確な深い掘り込みが見てとれる。江戸幕府の弘文院学士・林叟の撰文で書かれ、漢文の語る歴史、功徳、表現に素晴らしさを感じる。「読めたら亀が川内川を泳ぐ」というくらい難しく、私も白文(漢文)は読めないが、『宮之城郷土史』の訓読文の世話になっての感想を述べる

「原ルニ夫レ鎌倉右幕下闢國兵馬ノ權ヲ執リ那國ニ守護職ヲ置ク…」で始まる碑文は、漢・唐・宗詩であり朗々として理知的で韻をも掻き立て、短かく少ない言葉で綺麗に的確に語ることは「言葉の芸術品・魔術師」であると思う。内容は他の歴史書が述べる原書でもある。当時の高い文化レベルの財産が数百年の歳月を経て残っていることは、文化人、工芸人の情熱の粋を集めた結晶であり後世への伝言でもある。煌びやかな時を経、苔むす碑は伝統と歴史の重みを醸し出し装飾のデザインでもある

 

『亀趺を持つ石碑の系譜』(藤井直正著)を参照すると、京都に伝えた中国の禅宗僧・穏元隆琦(1659年来日)の影響で、この世功碑(1678年建立)の思想・造形はその特徴を忠実に現出している。その点は①台座は瑞祥とされる亀趺で上に碑文 ②墓前に建て西を向く ③碑は方形で上部は円首(けいしゅ)で丸みを帯びている ④上部は瑞祥の竜2頭が向かい合う文様 ⑤亀趺の首はすぼまり、足は可愛いらしい などである。 墓地の歴史などについては機会があれば述べたい

〇新「お供養どん」は黙して語らず(その1)  2021.6.5

今回から「お供養どん」に関するPartⅡになる。「古塔お供養どん」が語りたいことは前回通りと結論を述べた。実はこの一角に「新お供養どん(どう見ても墓石)」が存在するのである。そして、この塔を対象に設立以降、「絶えることなく怠ることなく」お供養どん祀りが毎年行われているのである(写真:近年は12月初め)。私は平成2426年、この地区の会計役員を仰せつかり、余り意味もわからず古式に則り「お供養どん祀り」を古塔ではなく新しい墓石(新お供養どん)を対象に執り行った!

 

何と意味不明なことをやったのだろう!その時の神主の祝詞では「農業(米作り)の祖、渋谷重茂を称え、災禍なく農業やこの地区の繁栄を願うように祀る」主旨であった。即ち、他地区でも行われている「切開けどん(きりあけどん)」の捉え方である。しかし、この地区では「切開け」との言葉を語ることはなく意識も殆どない。「お供養どん」と今でも言っている通り「死者を供養しているのである」、そして「不幸な事、災厄が訪れないことを願っている」と捉えるべきと考える。2つのお供養どんは二重の謎掛けをしているようだ。まるで推理小説だ!

墓石の記名には造立の主旨は無く、図のようなものである。時が過ぎ、ようやく造立の意味などを知りたくなり、調査した次第である。記銘はなくても目的はあった筈で、「願望、必要性」は地区における「言わずもがな」なこと、集落の住人に共通する願いであった、と考えられる。人民惣代とは共産主義的であるが地区民の総意で作ったものであり、身分制度が色濃く残る時期であるが、士族の有力士(庄屋を務めた家系)が代表で農家の世話人が二人代表となっている。共通するのは「全世帯、農業が生業」であり「士族百姓が平等」を強調しているのかも知れない。そしてこの時代は、まだ迷信などが生活、日常に浸透しており、宗教的にも科学的にも啓蒙されていない時期でもある(江戸時代後の集落は、馬場、新地、向小路、柳田、その後は馬場、新地、町、向江になり門割制度が士族・農民を含め、家業が継がれている世帯で再編されたのだろう)

 

さて、何故作ったのか?渋谷の三領主を祀るお供養どん、高城石碑ではその威力が失われたのだろうか?という疑問が生じる。古老の話によると、①昔から区民より寄付を集めて「お供養どん祀り」を行っていた ②町の郷土芸能祭の時は、お庚申元(現田中氏、下市氏宅の四差路)でお供養どんの方を向いて金山踊りを奉納し、更に権現様にある多賀神社でも奉納してから出かけていた ③祀りは、神事の後は花香の下市・中原両家が隔年交互で直会を開いた(現在もこの2世帯が花香を務める) ④祀りは新石塔で行われ、旧塔との係わりについては特に言い伝えは聞いていない であった。後に解った事であるが、戦前最後の神主は「伊地知家」であったが現在途絶えて廃屋になっており、郷土史関係者で古い資料・持ち物を見聞させてもらった。その時、「お面」と「お札を作る木印鑑(正しい名前は不明)」があった

 

よく分からないので、例によってこの時期の災厄について調査した。そしたらピタリと一致する災厄、歳久公と結びつく可能性、更に…? 次回、それらについて私見を述べる

〇郷土史の「トンデモ解釈?」 2021.5.30

~神獣・霊獣に強さ、繁栄、畏れを持つ古き思想か~

 

従来より疑問に思うことがあった。疑問と言うより「意味や概念、背景を今一つ理解きない」と言った方が良いと思う。『宮之城記』などの古文書に出てくる代表例として、①九尾牧(つづらお牧、きゅうび牧、ここのお牧)、②苙(おろ)、③宗功寺祖先世功碑台座の亀(実際は「亀趺(きふ)」)の意味合い であり、明確な説明に出会ったことはなく私の中にウヤムヤのまま眠っている

 

「九尾牧」は、馬を飼育・調教などを行う所で牧とか牧場と言えば想像がつく。山崎の「牧之峰」もそうだろう。問題にしたいのは「九尾」で「九」は幸運や神秘的なイメージもある。例えば、「九頭馬(“うまくいく”のダジャレも有る)」「九頭龍」である。話はズレるが、息子が小学生時代『潮ととら』という漫画に夢中になり、「白面の者」と呼ばれる「九つの尾を持つ狐」の姿を持つ最強・最終の妖怪、悪の霊獣(?)と戦うストーリーであった

 

調べてみると「九尾」はやはり「源は中国の神話にあり」である。古代中国の「九尾狐(きゅうびこ:図参照)」が、美しい妖婦に化け王朝を滅ぼす伝説的ストーリーである(小説『封神演義』に出てくる紂王(ちゅうおう=当時の庶民評は“バカ皇帝”)の妃、妖婦「妲己(だっき)」)。その後インド、ベトナム、韓国へと移動し、日本にも表れた話がある。鳥羽上皇の妃となり寵愛を受けた玉藻前(たまものまえ)と呼ばれ、陰陽師に見破られ武士に殺される物語となっている。中国の霊獣が基にある思想、伝説を物語に仕立てたものである

 

また、『宮之城記』に「九駄半」という伝承が書かれており、猛狼群が馬を襲い退治に向うも馬は他峰に去り「九尾狐兎」の住処となったとある。伝承自体は、怪物を仕留め体を寸断し馬の背で運んだところ「九駄半」あったことからその名がついたようである(この話は、中囿慶志郎氏の寄稿文「宮之城の伝承『九駄半』」<宮之城文化13号>を参照した)。いずれにしても、「九尾狐兎」「九駄半」と「九」のオンパレードである。何らか霊獣・怪物を畏れる思想的なものが底流にあったのだろうか

 

諸橋大漢和でもこのような非現実的なな物語が記されている。しかし、負の言葉を基に名付ける筈はないと思い調べてみた。するとそれらしき物があった。中国の各王朝史書では、九尾の狐はその姿が確認されることが泰平の世や明君(名君?)のいる代を示す瑞獣とされる。『周書』や『太平広記』など一部の伝承では天界より遣わされた神獣であるとされる。

 

古文書に戻り、「九尾」は旧記では「鉾尾」と呼ばれ、渋谷良重の時代に「五牧or為有之牧…判読不明)」とした。歳久代には(おろ)を作り、忠長の時に「九尾牧となり公馬領主御預かり馬」となった、とある。当初は、良重や歳久の時代に騎馬隊の霊力をも持つ鬼神的な軍団とするための優れた軍馬の飼育場と考えたが名前の変遷から違うようである。時代の流れから薩摩における島津の世を永く繁栄させるために名付けた忠長の配慮かとも思う

 

この解釈は飛躍し過ぎた荒唐無稽で、これとは逆に全く現実的な解釈も想像している。「尾」とは山々の頂上の稜線、つまり「尾根」を表しているとの考えである。「鉾尾」の命名はそのものである。この山系・山脈には高倉山(なたんとつ)、鉾ノ尾、太閤陣ケ丘、弥三郎ケ岡、田原丘や岩山などが重なっている。つまり九つではないが幾多もの尾根が重なる山並み、当時は牧草が茂り、高木は少なく見渡せたであろう尾根群、即ち、九十九折り(つづらおり)とも思える山並み、屈曲した路にある牧場から「九尾牧(つづらお牧、ここのお牧)」と名付けたのではないか、という解釈である

 

はてさて、皆さんはどう考えますか?このシリーズも続編が必要になり間口が広がってしまった。解釈というより少しずつ問題提起したい(『封神演義』は昔読んだ。『水滸伝』と同様すこぶる面白い本であった。近年140文字、写真+コメントなどの短文ビジュアル&デジタル社会であるが、文字でこれだけ面白く奥深く表現するなんて昔の小説の魅力を味わうのも一興だと思う

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その7) 2021.5.28

本砥喜右衛門らが渋谷重茂公の供養塔を作ったのは、享保161731)年に端を達し、翌171732)年から数年に渡り起きた飢饉・不作により愛娘(と思われる)を失い、墓を翌年の181733)年に「夢椿童女」として作ったことが主因と考えた。同様に冷害、虫害などにより米作被害も発生したと考えられ、当時の御霊信仰により怨霊を鎮める対象を、時吉城の本丸に居住したとされる前領主・渋谷重茂公を祀ったとの推測である

 

ただ一番疑問に思うのは、怨霊を鎮める対象であれば、妻に刺殺され不幸な死を迎えた渋谷良重公と思われることである。このことは後述する(仙叟寺の古文書の不確かさなどにより干支の間違いは頷ける)。また、記名よりこの供養塔建立は、地区全体の意志に係わることではなく個人的な建立と考える。これは、庄屋やそれ以上、以下クラスの関与が見られないからである

 

実は祁答院には渋谷良重の鎮魂を願い、追善供養塔を再興したものが存在する。享保161731)年に造立されたもので記銘の大意は「…昔の祁答院領主渋谷河内守平良重也、幾星霜を経破損しているのは残念であり当所や上手下手村の諸氏の助力で古き破塔を模して石塔を建てる。この地域に厄災や禍が無く、疫病の退散、五穀豊穣を伏して乞い願います」となっている。これもまさしく享保の飢饉を鎮めるための供養塔と推察される。ただ、それ以外の地区でも存在しそうであるが確認できていない

 

さて、ここで未解決事項がある。『祁答院記』によると、時吉城の「高城」に2つの石碑があり「此城ノ囲田縁ノ上ニ墓石有 是ヲ見ルニ仙岳登公 樹蔭鉄公大禅門ト有 良武・良重親子也 此城ニ居住セラレタルシカ」とある。現在、倉内団地となり造成された影響か私は探索したが発見できていない。しかし、大正時代の思い出を綴った『我らのルーツ岸良一族』の著者・岸良精一氏ははっきり碑を見てこのことを書いているのである。残念なことに造立年、造立者は分かっていない

 

『祁答院記』は、土持仙厳の『宮之城記』の事前まとめ、メモ的存在とも言われている書である。つまり『宮之城記』の成立は享保21717)年頃であり、素直に解釈するとそれ以前に建てられたことになる。ここで推測の上の推測になるが、本砥喜右衛門かその親が作ったことも成り立つのである(作りそうな人は彼らしかいない)。薩摩は火山灰土壌で稲作に適さず、台風、地震、水害、土砂崩れといった災害が発生しやすく、経済的にカツカツの下級武士も農民も豊穣や鎮魂を願うことは十分あり得る

 

私の結論としては、江戸時代に厄災や禍がないことを願い、渋谷氏の重点的人物、重茂、良武、良重の3領主の鎮魂、供養を行ったのではないだろうか、ということである。次回より「お供養どんPartⅡ」を述べる

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その6) 2021.5.22

室町時代にこの地方を治めた領主・渋谷重茂公は、応永221415)年に没しているが、約350年後の江戸時代(1750年頃)に生きた本砥喜右衛門らがなぜ供養塔を作ったのだろうか?この謎に迫るためには双方の接点が必要であるが直接的なものあり得ない。あるとするなら時空を超えた何かである。家族的なものや地域に不幸があった場合や土地の鎮魂や飢饉などの災厄が襲った場合の怨霊などが考えられる

 

この時期での災厄を調査すると「享保の飢饉」が考えられる江戸四大飢饉の一つで1732享保17)夏、冷夏と害虫により中国四国九州地方西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。1731(享保16)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためイナゴウンカなどの害虫が大発生し稲作に甚大な被害をもたらした。被害は西日本諸のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。この後、飢餓対策としてサツマイモの栽培が普及した(徳川吉宗の時代)


 これらの害虫は水稲や畑作作物などに限らず、全ての草本類(紙や綿などの植物製衣服にまで被害が及ぶ)を数時間のうちに軒並み食べ尽くしてしまう。当然、地域の食糧生産はできなくなるため被害地の住民は深刻な飢饉に陥いる。大量に発生したバッタ(いなご)は大量の卵を産むため数年連続して発生するのが特徴である

 

九州のある藩では災害が酷く、行き倒れや犬などの死肉あさりなどの地獄絵が見られたという。鹿児島県史によると、薩摩藩は大きな被害は受けていないようであるが西日本の広域に渡る被害であり、相応の米作の被害はあったと考えられる。薩摩には1700年の初め「サツマ芋」が伝来し、農民は常食にもしており地獄絵は見ないで済んだと思われる

 

【怨霊と御霊信仰(Wikipedia)】

人々を脅かすような天災疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」の仕業とみなして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本信仰のことである。人が怨念を抱いて死ぬと、その魂は怨霊と化し災害や疫病を引き起こし祟ると恐れられていた。そしてそれらの怨霊を「御霊」~神や守護霊として祭り、鎮めることで種々の厄災から逃れられるとも。これら一連の思想、行為を「御霊信仰」という

 

以上で私の説の根拠は想像できたと思う。次回、まとめを行うが、「お供養どん」の話はまだ終わらないのだ。「Part2、『お供養どん』の話」があるので引き続き述べたい

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その5) 2021.5.8

「お供養どん」を造った(或いは依頼して造った可能性も含め)のは本砥喜右衛門と断定した理由は、①享保111726)に名寄帳に記載されていることと、夢椿童女の造立者の名前はないものの、7年後の181733)年の同時期であること ②その他の石像があること、半農半士身分であれば大工や石工などの職業も独占的であること ③僧侶は、木像製作は考えられるが石を使った仏像を作ることは考えにくい ④室町時代に、お供養どんを造るような「本砥」と名乗る人物の存在も像の形状・形式もあり得ないと思える ⑤裕福ではなく、お供養どんも含め財力で作ることは考えにくい等である

 

もう一点、寺の変遷について考察する。古文書や史跡より、「利昌寺」「尖叟寺」「仙叟寺」が出現する。この地区には、大前一族が築城した「時吉城群」があり(すぐ傍に本丸の富岡城がある)、渋谷、島津の歴史を持つ地である。開山、廃寺の歴史を持つのは、支配者の変遷と妻帯禁止などにより、確実な継承はできなかったと思われる。「利昌寺」は現在も字名として残っているが、享保初期頃作成の『宮之城記』でもその由来は不明としている。この為、大前、若しくは渋谷時代に作られたのが「利昌寺」であると考えられる

 

墓石などを参考に考えると、その後「尖叟寺」「仙叟寺」となったとことが分かる。この地に江戸時代以前の天正121584)年、島原で戦死した稲留左京亮(写真:後に宮之城島津家の筆頭家老となる「相良氏の祖」)の墓石がある。墓には「尖叟寺殿尖叟宗利居士」と記名されている。その後幾年も経過し宮之城島津家の時代となり、寺は相良家の菩提寺となって「仙叟寺」となった、と考えられる。卵塔に寺名は刻まれていないが、お供養どんへの記名から「叟寺」となったと判断する。寺の僧侶が寺名を間違えるとは思えないからである。つまり、「叟寺」と記してあるお供養どんが作られたのは時代的にも「江戸時代」なのである

 

紙面が少なくなったので、お供養どんを造った理由は「悲劇が襲ったことに起因する御霊(ごりょう)信仰」にあるのではないだろうか、という考えを次回述べる

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その4) 2021.5.1

本砥喜右衛門と「お供養どん」建立のもう一人の願主「仙叟寺 大鏡」の接点について述べる。まず彼らは家が近所同士である。仙叟寺の僧侶である大鏡と士族の彼の家とは数十メートルの距離にあり、墓石や彫刻、仏師(根拠は後述)の面を持つと思われる彼とは懇意の間柄と推測できるのである

 

本砥家にはいくつかの石像、彫刻物が残っている。その中の一つは「親鸞聖人」と思われる像を彫った墓石で「〇妙〇〇大姉」と刻まれている。これは妻か親族のものか?。もう一つ注目するは、我が子で幼い少女を弔ったと思える高さ60cmほどの墓石で「夢椿童女」、享保18年とある(1733年)。家族若しくは近親者の立派とも言える墓石が残っていることは、士族と言えども裕福とは言いがたい郷士の身分ながら高尚で宗教的、個性的であり、信心深さと共に自身が彫刻したとも考えられるので仏師と言った一つの根拠である。これには寺や僧侶の影響もあることも考えられる

図のように仙叟寺跡(字名;利昌寺)に開山、廃寺、再興を繰り返した僧侶の墓石があり、この中に大鏡と思われる卵塔があり、年代は分らないが前後の塔の年代より「大鏡は17491766年の4世和尚」であることがわかる。刻字は「當寺四世太鏡圓〇〇」とある。ここで「大鏡」と「太鏡」の文字違いがあるが、お供養どんの記名は「大鏡」というより「太鏡」と読めるのである。「、」は明らかにあり、傷跡と解釈して「大鏡」と読んだと思われる。「圓」は名前の一部と言うより僧の地位や呼び方を表す称号や自身が仏師であったことも考えられる。どちらが仏師であったかは更に根拠を後述する

 

ここで史跡、史料を基に出来事を時系列に並べてみたい。左側に示す通り、享保111726)年の名寄帳に本砥喜右衛門の記載があり、7年後以降に享保181733)年に我が子の命日と思える夢椿童女が作られている。更に、太鏡和尚は、前後の僧侶卵塔より16年後の17491766年の間に存命していたことが分かる


つまり、本砥喜右衛門と太鏡は江戸時代の同一時期に生きていた人物であり「お供養どん」は少なくとも17491766年(江戸時代)の間に建立されたと言える。本砥喜右衛門は他の時代に生きた同姓同名の人物ではなく、名寄帳に記載された人物であり、「お供養どん」を建立した人物である、と結論が導かれる

では何故、室町期の領主の石塔を江戸時代の人物が作ったのか?と疑問が生じる。少し残る他の疑問点と共に次回述べたい

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その3) 2021.4.22

今回は「本砥喜右衛門は享保~元文~寛保年間(17301740年)の人物」という主張をし、その根拠について述べたい。まず、偶然ながら『薩州伊佐郡宮之城時吉村 御検地名寄帳』という古文書の存在が知られ閲覧する機会に恵まれた。享保111726)年<江戸中期>における時吉村の土地台帳ともいうべき文書である。23戸の百姓門と24戸の郷士(村に在住する半農半士の武士身分)の一人として、浮免(武士に給与されていた土地)、屋敷などの所有者として本砥喜右衛門が記載されている。彼が古塔を作った人であるとの検証を進めていくが、まず言える事は、享保111726)年に古塔に記された同姓同名かも知れないが本砥喜右衛門は存在していたのである。この幸運ともいえる「めぐり合せ」は、幾百年の時を経てたまたま興味を持った私に伝えたいことがあったのだろうか、と調査に力が入る

名寄帳の実際の文書は図に示す通りである。崩し文字を現代文に直すと、

 下下屋敷(十九間…)九畝八歩 本砥喜右衛門 大豆三升…

と解釈できる。

まず、彼のルーツを見てみたい。その子孫の方は現在も時吉に在住しており、熊本県天草市の本渡さんを中心に「本渡一族の調査」が行われ、本砥家もその一族と認められている。「渡」と「砥」の違いは、長い年月の間に支族が別の同音文字を名乗る例は多くあり、異体字的な意味合いと考え同祖と判断する。また、本渡城は、本戸城や本砥城とも呼ばれていることもある。彼らの調査である一族が時吉にも在住しているとの結論は、以下に述べる私のルーツ根拠を補強するものでもある

家系調査の第一人者、川崎大十氏の『さつま姓氏辞典』によると、「本渡一族は天正91581)年本渡落城後、出水に移住、一部は島津に登用される」「本砥氏の祖は日置島津家が東郷領治の際その家臣となり、4代目に喜右衛門が出て来る」とある。時期的に島津勢が肥後・相良、肥前・
龍造寺を攻めた九州統一の頃の戦いになるが、本渡城落城の経緯は確認できなかったが、島津義久の配下で龍造寺と戦っている。本砥家の祖先は、この後の「島津への登用、領治の際その家臣となる」は島津忠長の家臣と解釈される。宮之城島津家の実質的「祖」は忠長であり、東郷から主君に従い宮之城に移り、時吉に居住したと見ることができる

 

今回はここまでとし、次回は「お供養どん」を建立したのは「この時代の本砥喜右衛門」であるとの確証を述べていく

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その2) 2021.4.14

疑義1は石塔の形態についてだが私は詳しくないのでWeb情報を基に述べる。五輪塔は鎌倉、室町、江戸時代中期頃まで用いられたと言われ、江戸時代になると角碑型や先端が尖った尖頭型となっていったようである。五輪塔は、下方より地輪、水輪、火輪、風輪、空輪を表し、供養すると死者の肉体は五大に還元され極楽浄土に往生ずる、という意味合いが込められた

 

ここの「お供養どん」は自然石の一面を平坦に削った板碑、または角柱タイプであり先端は尖っている(現在は欠損してい

るが昔の写真では尖っている)。また、室町期の建立だとしたら、遺族、子孫、家臣と思われる。この地区、その時代に

関係者がいたことは考えられるが、僧侶名と私人と思われる人物の名前を記すだろうか?。そして、柏原大願寺の墓石群

に比べると明らかに形態、規模が単独・貧弱であり室町期のものではないと考えるのが妥当ではなかろうか

 

疑義23は造立年と十干十二支間違いである。没年月日は古文書、大願寺の墓石と一致しており、これ自体が造立年ではないこと

を物語っている。では干支の間違い(「庚戌(かのえいぬ)」とあるが、正しくは「乙未(きのとひつじ)」)はなぜ起きたのだ

ろうか?古文書では、「渋谷重茂公は時吉城に居城した」と書かれており、死後数年経過して造立したのであれば間違うことはな

いだろう。つまり、相当経過してから建てられ根拠資料自体の間違いか、存在しない為干支の算出に間違いが発生したのではない

だろうか。よって、室町期に建てられた可能性は極めて低く相当後年に建てられたと思われる

 

疑義45仙叟寺と大鏡)の前に、次回は決定的な「本砥喜左衛門は江戸時代の人物」と断定した根拠を述べ、疑義45も矛盾

なく整合することはその後にしたい

〇古塔「お供養どん」の語るもの(その1) 2021.4.7

今回は、郷土史の中でも更にローカルな私の住むところに鎮座する「お供養どん」と呼ばれる古塔の話。「この渋谷重茂の石塔は江戸時代に作られた」というトンデモ提議である。重茂は室町時代、この地方を治めた罤7代領主で応永の頃(1394〜1428年)の人物である。『宮之城史』によると、その古塔は4ケ所出現する。3回は、その時代の出来事を述べる時「このように刻字された古塔がある」との表記であり、上っ面を読むと「その時代に創建された塔」と思ような誤解を与えると思う。決定的なのは、4回目に出現する「年表」への記載である。「1415年にお供養どんが建てられた」と記述してあり、創建年代を室町期に断定しているのです

 

地区の「郷土史研究会」に入会した時、個人的な研究テーマとして取り組み色々なことがわかってきた。同じような時期の古塔に、船木の「トッコドン」、平川に「平川どん」があるが、これらとの関連性、共通性は調査していないのでわからないが、今後精査を要する。他地区の古塔はその時代の物なのであろうが、お供養どんは、どうしても疑いがあるのである。まず、碑文を紹介し、その後おかしい点を指摘したい

 

碑文は、正面:「徳翁誉公庵主」、西側面:「應永二十二年 庚戌十一月二日」東側面:「願主   仙叟寺 大鏡 同 本砥喜右衛門」とある。疑問1は、この時代の供養等、墓などは「五輪塔」が多く見られるが、板碑的な塔は時代が下がった江戸時代のものと見られる点である。疑問2は、造立年を應永二十二年と見ているが、これは没年日である。従って、造立年はわからないのである。疑問3として、「庚戌(かのえいぬ)」とあるが、同年は「乙未(きのとひつじ)」であり、刻字は間違えていると考えられる。何とお粗末な事だろうか?

 

疑問4として、「仙叟寺」とあるが「尖叟寺」の間違いではないだろうか。疑問5として、「大鏡」は「太鏡」と思われる事である。これらの疑問事項について詳細は次回述べる

〇「祁答院太閤道」~須杭を通ったのは誰?(その4) 2021.2.26

川内川右岸を通った説に結びつくような推測を想起させるような事実を取り上げていく。秀吉軍は多くの実践を積み戦(いくさ)巧者である。騎兵、雑兵、重火器、馬車や荷車、駕籠などの装備で戦闘兵以外に兵站部隊、施設工営部隊、(偵察&情報収集的など)先遣隊など自己完結型の構成で、複数の番隊を指揮する命令系統がしっかりしていると考えられる。牛嶋英俊氏の稿によれば、事前に兵糧の準備、そのための城(倉庫)、鎧兜・刀剣の給付、馬糧(馬の飼料)、道路・橋つくりまで進めるという。軍も武力討伐というよりも沿道の人々に秀吉という存在の巨大さを実感させるために、目一杯の飾り立てで行進していく大宣伝部隊である、と言われる

薩摩藩に入ってからは梅雨や食料供給、長期戦には悩まされただろうが、激戦なく終結しており、山間部踏破、川の渡河、野営なども進軍を止める程のことはなかったと推測する。あと5日、義久の降伏がおくれれば秀吉は敗北しただろうと言われるくらい衰弱した中での思いがけない勝利に起死回生し、軍は凱旋の意気揚々さが漲った面  

  鶴田の太閤陣跡(北側の一部)    もあるのだろう

まず。歳久は秀吉に屈服しない最右翼であり、城に入れないばかりか暗殺も上申するくらいである。そして。広段から尾根伝いに高祖まで難渋であろう険しく狭い山岳行を案内している。現在は車が通る林道があるが、私の小学生時代は道らしき道ではない狭い山道であった。「んべちぎり(アケビ採り)」で一部分であると思うが太閤道を通っているのである。今考えても、あの起伏ある細い道を数万ともいえる秀吉軍が通ったのである。馬や甲冑姿の兵、駕籠、荷馬車などが通ったのである。九尾の牧という牧場のような所は太閤陣が丘(こじんがおか)があり、陣を敷いたのである。軍隊なら薩摩街道も、川内から二渡までの山道行軍も通れない筈はない

その後、鶴田での太閤陣(鳶ノ巣陣)、大口の関白陣(天堂ケ尾)と続く。驚くのは、いずれも山上に敵からの攻撃を防御する「陣城」を短期間に本格的に築いていることである。鶴田太閤陣は大掛かりな曲輪や防塁の跡を示す)。秀吉は都、大阪、中部地方を平定し、四国の長曾我部を制し、九州を平定した今、西日本の制覇の仕上げである。力の誇示はあらゆる面で権威を納得させる必要があり、不満分子を屈服させる帰路だったのであろう

鶴田では、抗戦派の総大将の義弘も拝謁し、大口では忠元も拝謁し、歳久以外全て軍門に下った。忠元は関白陣で秀吉に対し、「主人の命さえあればすぐ敵対する」と言い、秀吉の「口のあたりに鈴虫ぞ鳴く」に「上鬚をちんちろりんとひねりあげ」と上の句をつけ秀吉を感嘆させたという。小気味よいやり取りであるが、穿った見方であろうが、秀吉は内心「おみゃーは、そげん国盗りで暴れたきゃなも、明の国でぎょうさん暴れんしゃい、ちい~と、待っちょき
しゃい!」と思ったかも知れない

私の結論としては。秀吉本人は左岸側を通ったと考える。ただ、単列の長蛇の陣形では薩摩の桶狭間になりかねない。当然、相手への威圧と防御を兼ねて並列、重層的に行軍したと思う。即ち、左岸の秀吉本体を中心に先遣隊、同じ左岸に右翼となる番隊が、右岸に左翼番隊が進み歳久からの攻撃の隙間を与えなかったと考えた。従って、須杭へは幹部クラスの番隊が展開し歳久へ圧迫を加え、付近の浅瀬で渡河し合流したと推測する。伝説では駕籠から降りた人物がいるが、これは敵を惑わすため各隊に影武者がいたと思う。高祖近くで暗殺を試みて矢で射ているが駕籠が複数あって難を逃れた話があり、敵を警戒していたことが窺える

〇「祁答院太閤道」~戦の実態(その3) 2021.2.18

A:渡河問題(続き)

川内平佐城における戦いで攻め方の主力は水軍である。川内川河口の京泊から平佐城を攻めるが、陸地の橋頭保を左岸の猪子岳、猫岳、安養寺丘に築いている。この拠点は、曲輪、堀、土塁等を擁する本格的な陣城構造で、短期に築いている。戦においては、戦闘兵士以外に兵站や施設工営隊が多くいたことを表している。秀吉本隊軍は出水から薩摩街道沿いに(船での移動説もある)遅れて川内泰平寺とその周辺に陣取る。中郷池付近に蜂須賀陣(日向隊)などの記録もあり、肥後・日向両軍含め20番隊もある番隊が集結し部隊毎に自己完結型の陣容だと推測する。最終的に、平佐軍(桂忠昉)300vs水軍8,500人で死闘・奮闘するも「寡は衆に敵せず」で降伏する

 

ここで兵士の渡河であるが、「舟橋」という方法が言及されている。これは、因幡の白兎よろしく船を横一列に並べ錨やロープ等で舟を固定し、渡し板を何枚も重ねて陸地の如く橋を渡る如く渡る方法である。舟橋を築けば全軍左岸に渡河させることは可能でもある。楠元付近でも使ったのではと言われているが、上流の宮之城近辺での出番はなかっただろう


川内市史や川内中学校(川内高校の前身)の古い文書や諸書によると軍勢や川の様子を次のように表現している。「(川内川)へは兵船数千艘乗り込み、川下の京泊まで三里の間、繋ぎ隻べたり…昇(幟)指物、幕を打ち飾り立てたれば河風に翻り、松風波の音に動揺す。…諸軍勢、十三里四方には尺地もなくこそ見えけれ」とか「折しも梅雨未だ晴れやらず川内川は濁流滔々として渦を巻き、秀吉をして水郷川内の特色を遺憾なく味はしめた」と誇張気味ではあるが、天下に号令する男の圧倒的な軍事力・経済力・動員力を誇っている様を想像できる。川については船の浮かべ方、平地の洪水はなく差ほど増水していないと想像される

B
:秀吉軍、川内に進軍する

秀吉軍の経路を見てみたい。まず本隊は出水から川内へは複数の部隊が各々の経路で攻め入ったと思う。大軍でもあるので海路の部隊、高城へは薩摩街道の山道で、新田神社や藤川天神などでも乱暴狼藉を働いていることから、本隊全体が一丸となって直線的に進軍するのではなく、陸海の複線的で「面的」な攻め方ではないだろうか?。楠元の三光寺も祁答院に向う途中の立ち寄りではなく、言い伝え通り平佐城攻めの時、一部が攻め入ったこともあり得ることである。

今回は、ここで終わり次回、最終としたい

〇「祁答院太閤道」~東郷→山崎道はきつい街道だった(その2) 2021.1.20

右岸通過説を強化するため、先日、腰掛岩等の史跡、地理の確認、東郷→須杭の街道調査を行った。「通るとしたらこの道だろう」を、歴史に詳しい須杭のM氏に案内してもらい踏査した。結論を先に言うと、

①「通過できなくはないが、右岸通過は避けるだろう。理由は、右岸通過は兵士の負担が大きく士気も低下するだろう」との思いを強く持った。車でようやく通れるよう所も多く、「ひよどり越え」とは言わないが、狭く上り下りの山道の連続で避けたい道である。もちろんこの道であろうという推測であるが、時代的には妥当性がある。川内国府時代からの官道で東郷大前→宮之城展開、渋谷の展開から街道は存在しているが、現在の国道267号に沿った街道ではなく、もっと北側の山間道だったと思われる(写真は「腰掛岩」 3個中1個は紛失)

 

②須杭での景色は良く、見通しの悪い凹凸クネクネの山中を歩いた後なら開放感があり、尚更感じたと思われる。腰掛石は少し貧弱ながら存在している。前言撤回すると須杭伝説の解釈をどう考えるかであるが、私は、今は創作とは思わない。権力者が創作や誇張して作ることはあるが、一般民の作為・意図の動機は薄くメリットは「天下人が立ち寄った名誉」だけであろう。今回は右岸通過説もあり得ると考えた根拠を羅列し、次回以降、秀吉軍の状況を述べ、その後、改めて考えてみたい(写真上;後方右は「蛍山」、字名は「石橋」。写真下:左の南瀬の山から右山の須杭に移動したことになる)


A:渡河問題

北九州から西側を南下すれば現在の一級河川は、遠賀川、筑後川、菊池川、白川、緑川、球磨川である。下関の海峡は水軍などの協力で渡ったと思うが、大河のいくつかは、戦国時代の「掘」にも相当し多くの橋はなかったと考えた。島津軍も九州制覇の時、北上しているのである。即ち、軍団は昔も渡河はさほど問題ではなかった、と考えた。秀吉軍も最後は大口で川内川(少し小さくなっているが)を渡っている。西南戦争時、規模は少ないと思うが大浦兼武の官軍は川内川の広瀬を渡っている。秀吉軍は多くの兵站部隊に加え、施設・工法隊がいたと考える。川は浅瀬や川幅の狭い所は存在する。左岸経路としても支流ながら、樋脇川、久富木川が存在し難なく渡ったとしている。問題は梅雨時の水量と待てる時間の問題である

〇「祁答院太閤道」~You(秀吉)はどこからさつま町へ?(その1) 2021.1.12

島津勢が九州制覇の目前、豊臣秀吉が九州侵攻に乗り出し現薩摩川内市の「平佐城の戦い」で趨勢が決した。その後、天下人・秀吉の威光の誇示や屈服の不満分子ともいえる祁答院の諸将を鎮めることもあり、帰路は川内川沿いに遡る経路を通っている

 

本稿は、特に最終決戦地川内から山崎城に至る通説の経路と異なる経路の可能性を述べるものである。この件は過去議論があったと思うが、通説に落ち着いているようだ。天邪鬼精神ながら、確たる証拠や発見はないが唯一とも言えるさつま町須杭地区に残っている伝承を信じ、その可能性を先人の諸資料を基に状況証拠的な出来事から推測するものである。秀吉がどこを通ろうと歴史の事実に無関係であり、戯言、巣篭りのネタにして頂きたい(図は『薩摩の太閤道伝説』(牛嶋英俊)より)


通説は川内→白浜→楠本→久住→倉野→荒瀬→山崎城(川内川の左岸)と推測されている。これは、秀吉が泰平寺(川内川右岸)で島津義久(龍伯)と和睦を結んだ後、平佐城(川内川左岸)に渡ったことが資料にある足取りであること、楠元近くの三光寺を立ち寄った寺(或いは宿泊)と見ていること、丁度、梅雨時であり川内川を渡河する必要がないこと。また、コースから少し外れるが樋脇、入来、久富木地区等平野部は大軍通過に相応しいこと、右岸は古くからの官道と言えども山間部の起伏に富み、且つシラス台地の地形、敵方との戦略上の不利等もその根拠と考えられている

 

私の述べる説は、川内平佐城→泰平寺→東郷→南瀬→須杭→倉野or荒瀬経由→山崎城の川内川右岸経路である。また、大軍であるので別動隊、左右岸の二手に分か れことも考えられる。『旧宮之城史』は、通説の経路を通ったと思われるとしながら、以下の伝説を述べている。天下人の大軍が勝利し凱旋とも言える行軍を見たり、領主敗北後、自己の運命の行方を心配し見物すると思うが川内・山崎間で唯一、須杭に伝承が残っている。今も残る土地名、腰掛岩などを含む伝説は後付けの創作ではなく、伝説の真実性が高いと思うのである

「東郷から右岸の山道を辿って来た秀吉は、前方にわかに開けた二渡の田畠、村むらが一望される景勝の地、須杭石橋で駕を降り休憩した。折しも鶯の美声が聴こえ秀吉の心を慰めた。また、所の名を尋ねられた土地の者は勘違いし、遥か向こうに見える二渡の広い田んぼのことかと思い、“千町が玉田”と申しますと答えたので、今でも狭い山田に3枚しかない道路下の田んぼを“千町が玉田”と言い、この付近のことを鶯山とも言っている。秀吉が泊まったと言われる山崎城は小城ながら祁答院の南の入り口を扼(やく)する戦略上の要点になっている。20日山崎城に陣した秀吉軍は、まず第一に秀吉の在陣を示す旗(例の千成びょうたんの馬印)を山崎城の北にある小高い岡に押し立てた。この地名を“幡の尾”という」。(注:〇印の石橋、鶯山は旧字名で須杭に位置する。ここの腰掛岩、土地名は今も残る)

この後、歳久軍の騎馬兵が秀吉軍の斥候を数名殺害したことは史実と言われている。昭和621987)年、関連市町村で秀吉の侵攻ルートを観光開発されている。私の在所(時吉)にも「秀吉ルート」があり、近辺には「太閤陣」もあって興味を惹かれるテーマである。次回より史跡、資料、前後の布陣、九州ルート全域などを参考に本題の根拠を述べたい

〇求名ゼミ棚田の用水路(No4)~ 江戸時代、個人が隧道を掘る 2020.12.24

さつま町には用水路はいくつもある。前述以外に時吉、母ケ野、一ツ木、永山、市野、栗山、白男川、大畝、加えて湯田、求名のため池を利用した用水路もある。各地域、田んぼのある所には棚田であろうと存在する水路である。今回は求名の北平(上中福良の通称「ゼミ」)地区の「この田に水を」で名高い水路について述べる(「ゼミ(ぜん)」とは、鶴田から肥後・球磨への街道が通っていた所で「是見」、何らかの制札が立てられていた所と思われる、と郷土誌は説明~鶴田郷から再び宮之城郷に入る肥後街道であり、「標識」や「管轄権」の札か?)

江戸時代の求名上中福良の農夫・清左衛門(この頃は宮之城郷だろう)は、用水に恵まれている田と違って、山の傾斜部分にあるこの棚田は地形的に天水だけであり優良な米を作れないことに思い悩んでいた。そして、近くの高い所を流れる北平川から水を引くことを考える。しかし、それには文字通り大きな三つの岩山が障害となり簡単に引くことはできなかった


清左衛門・妙夫婦は、後世に美田を残すため岩山に隧道を貫通することに一念発起する。

村人の協力が得られず農作業の傍ら単独で決行する。金槌と鉄ノミを使って独力で粘り強く取り組み、3つの岩山の貫通に実に10年かけて隧道を掘り90mの用水路を作った。3つの隧道は、15m、10m、19mの計44mあり、完成後、「水は天下のもの」と言い村人にも分かち与えた。現在は拡張され1200mになり、田も拡張され棚田を潤している

二人は元文元年(1736)に亡くなり、子供や村人が遺徳を示すように二つの立派な墓が作られている。この話は、県の道徳教育の副読本にも採用されている非常に感動的な話である。この話は、二渡新田溝(17291731)頃であり、新田開発

が推奨されていた時期である


緩やかな勾配取りなどは「割竹水準器」や「提灯を用いた遠視測量」が使われたのではと推測されている。
話の主旨が逸れるが、すこし疑問を感じた。まず清左衛門の身分である。私の推測では半農半士の士族だったのではと考える。農民であれば門割制度に組み込まれ、個人プレイ的動きはできないからである。山奥部の開発は下級武士に多く、仕明地(抱地)や浮免地で自己所有であれば話に矛盾は生じない。鍛冶屋的なノミの焼き入れなども武士の職業知識であり、墓や戒名も一般百姓以上のものと考えられる。妻の名前が出る事は農民ではない証左ともいえるが、苗字がないことは疑問でもある

 

隧道の高さは二渡のそれより必要以上に高く2m以上ある。測量技術や田の拡張による水量確保は「修復」の必要があり、後に底部を掘り進んだのではないだろうか?現地に行ったが鳥獣柵で隧道は見られなかった。写真での推測であり思い違いがあるかも知れない。是非、見学してみたい

〇二渡用水路~水平測量考(No3) 2020.12.17

江戸時代の用水路敷設の際、「提灯を使って作った」などと伝えられるが、それ以上の説明はない。具体的にどんな方法だったかインターネットで調査したら色々と参考になる資料がいくつか見つかった。これらを基に素人考えながら推測を記したい。水路敷設は、実際には必要水量、流速、溝の断面寸法、勾配などが考慮されると思うが、ここでは水平と勾配の撮り方に絞って考察をすすめる。


提灯は、目印となる基準の墨線を入れ竿竹を上下にスライドできるようになっている。それを遠方から見る水平儀(トランシット)は、No1では原理を用いて現代で簡単に再現したものであるが、寛永91632)年、加賀藩の板屋兵四郎が用いた水平儀を図に示す。10m5cmと言うシビアーな勾配(0.05/100.5%)を実現している用水路敷設に用いた水準器である。見沼代用水(みぬまだいようすい)は、享保131728幕府の役人・井沢弥惣兵衛為永は利根川から取水した新田開発に、60km離れて二寸(約6cm)という誤差、即ち0.0001%1mで0.2mm)と言う神業ともいえる誤差を実現していると言う

二渡用水路をモデルにした「水平測定図」に示すように、給水口と排出口の「落差」と「その間の距離」が判り、地形の勾配を知ることが理屈の上では可能である(実務は大変だと思うが…)。また、例えば「杭」に印をつけておけば後日、縄(or紐)を張ることにより「基準となる水平」を知ることができる。この数字を基にある区間ごとに水平を割り出し、勾配量も計算出来たと考える。前述のような精度は最先端技術だと思うが、それ程の精度はなくても、現実に実現しているので測量技術は高かったと言える

多くの人を投入するなどの観点からも、区間を決め同時並列的に作業を進めれば効率的だ。その為には区間ごとに水平(面)と、地形に応じた掘る深さを設定すれば良い。これは、家の建築等で見られる図に示すような「遣り方」で水平面を出し、上流側と下流側の深さを決めればよいことになる。江戸時代の水準測量では、角材の一面に掘った長い溝の中に水を注いで水平基準面を定め、この水準器を水盛り台とよび、水準測量を一般に水盛りと称したようである。
弥惣兵衛為永の用いた水平出しと勾配測量の図を示す。現在の水平出しは、透明ホースを使って水を入れで水平を出すが(私もこれでウッドデッキを作った)、江戸時代も全く同じ方法を用いている。実際の作業風景の絵もあり、用水路工事の大よその想像はつくと思う


〇二渡新田溝(No2)~隧道掘削考 2020.12.10

今回は、享保141729)~16年に作られた二渡用水路工事の続編で隧道掘削を、次回は具体的な水平・勾配測量方法、更に次々回は求名の「この田に水を」について述べたい(記述は、資料調査や類似例を基に全て自己推測による)

まず経路の設計であるが、高い位置を流れる泊野川に山之内出堰を設け、排出口は約6km先の山田川に落とし込んでいる。流路途中に過剰な水や土砂を流す井出や山水の合流・非合流が見られる。特徴的なのは、比較的大きな大山口川と合流し「西ノ井出」を作り、ここから須杭・南瀬方面へ水路が導かれている。水の供給・排出・分配・補給をしながら全ての田に水を供給する水路網が地理を利用して実にうまく作られており、当時の技術の高さに感心する。この長距離水路の設計には提灯測量で基礎的な水平、勾配が計算されたのだろう

まず隧道の岩盤掘削であるが、高瀬和昌氏の「江戸時代の水路トンネル開削技術」に記載の用具と採鉱図に示す通り一目瞭然である。これは約1.3kmの長い単一隧道の工事であるが、二渡の隧道は敢えて最短経路の長距離隧道にせず10数か所の短い隧道にし、迂回した、と思われる


向堀り(両側より開削)の作業効率と水勾配の確保が容易であり、後々の保守管理も楽である。そう考えると、裾野の岩盤部を全域破砕すればオープンな水路が出来そうである。現場をその目で見ると、裾野が張り出して道幅の狭い箇所など岩山を急角度で平面的に削り取った所も数か所あり、張り出し具合等の地形・通路確保や労力面より、経路の回り道はするが可能な限り短くする考えから隧道化し且つ、隧道は短くすることが選ばれたのだろう。そして溝深さを浅くし勾配の深堀を抑え、幅を広くして流量を確保したのだろう。上流部でも溝幅は約2mもある

 

薩摩藩では大隅や加世田地方など同時代に新田開発が行われている。ここも藩命である。岩盤の貫通・粉砕は、その道の専門集団、永野金山などの金鉱脈掘削の集団、川内川轟ノ瀬の新川(川の中に川を掘る)掘削、などが考えられる。新川は「焼き石法」が行われている。これをやったのは串木野の仕明人と思われるが、石の上で濛々と火を焚いて加熱し、水を掛けて破壊、若しくは脆弱、クラック(ひび)を入れて破砕する方法である。ノミより効率が良い方法である。または、火薬も使用されたかも知れない。現在は、機械式による傾斜板の設置などが見られるが、当時は水門であっただろうし、石垣などによる築堤もあるという。真冬の今でもゆったりと多くの水が流れており、田植え時期に際しては区民の「溝普請」などの整備が行われ、現在の水路委員もスムーズな流れを担っている。昔から生活用水でもあっただろうし、防火や水浴びにも使われ生活に必要な貴重な水路だったと考えられる


当時の難工事を偲ばせる話がある。工事を進捗させる目的で、取り除いた岩石を運ばせるのに一升で米一升を交換したという。また、人夫が唄った「御新田節」もある
 「さても淋しや 日暮りの小屋よ 前はあばん瀬の 音ばかり
  小屋を建てるときゃ 涙で建つよ 渡り流れは 歌で立つ」

 

〇二渡新田溝考(No1) 2020.11.20(金)

『二渡新田周辺を歩く(さるく)』 2020/1/9(木)でこの用水路は取り上げている(本ページの下方参照)。今回、知人3人を案内して見て廻ったのだが、私には疑問に思うことがあって本稿を取り上げた。

この水路は、全長6km、短い隧道(トンネル)が10ケ所超あり、合計で1.8kmあるという。ここには明り取りの窓もある。水路は、岩盤の部分、土の部分あるが、特に岩盤部の隧道掘りと取水口から排出口に至る水勾配の確保をどうしたかである。松明とも提灯とも言われ、夜間対岸から見て測量したと言い伝えられている(う~ん、解ったようで解らん)    実験の様子⇒

実は、私の住む地にも用水路があり、松明を使って雨乞ケ岩より勾配を見て作ったと言われている。その時以来どんな方法でやったのか興味があった。このため、インターネットで調査を行い類似のものを調査した。結果、良い例を見つけたので参考にしながら推測を加えて稿を進める

 

1.新潟糸魚川で行われた、山腹水路で行われた提灯測量再現(HPより引用)
糸魚川市早川谷の右岸に流れている東側用水路は
、明治25年に全工事が完了したと言われている。この工事は、夜間に提灯を目印に測量を行い、勾配を決めて用水路が作られたと言われている。そこで「先人の遺業や思いを地域の人々に伝える方法はないか」

  <簡易トランシット>       と、話合って「提灯測量」を再現した。方法は、水路沿いに提灯を持って並び、簡易トランシットで水平を見通し提灯を上下させて「水平線」を出す方法である。簡単な割にはうまく行っている。これは一直線的に見ているが、二渡のように相対し角度を振って見ても同じである

 

2.『線香・提灯測量』(小平市玉川上水を守る会編より主旨抜粋)
玉川上水の測量について、伝説的に夜間の線香・提灯測量が行われたと語られている。ある文書では次のように書かれている
「昼夜、水盛掘割し灯燈の腰に黒い線を引き目印とした。この水路の高低を測るのに専ら夜に行った。役夫を動員し、近い所は線香の火を握らせ、遠い所には提灯を持たせた」「日が落ちてから、仕上げの“水盛り”にとりかかった。枡屋独特の線香測量だ」

 

昼間のうちに決めていた地点に、人足を立たせ、提灯なりろうそくなり、あかりを遠望して土地の高低、勾配を計る方法は広く用いられていたようである。水盛台(水準器)と呼ばれる竹の中に水を入れた道具を使って水準方向を出し、土地の高低を測る方法が用いられたのではないかとの説もある。次回、二渡での方法について推測を述べる

〇楠木神社のご祭神は楠木正成(くすのきまさしげ)

皇国史観を拒絶する方々には聞きたくないかも知れませんが、私にとっては、この町には誇れる神社があるので紹介します

・幕末志士の尊王思想の理論的基盤は、頼山陽の『日本外史』『日本政記』の天皇を中心とす
 る歴史、史論であり、幕末・明治の国民に広く思想的影響を与えたとされる

・楠木正成は、鎌倉幕府を倒し天皇親政に貢献するが、不当ともいえる待遇を受けながらも親
 子一貫して天皇へ忠義を尽くした人物で、尊王の実践者の代表的人物であった。自刃の際、
 七生報国(七たび生まれ変わっても国のための報いる)と唱え、尊敬の的となった

・足利尊氏側との戦いで自身の戦略が受け入れられす、決死の覚悟で湊川の戦いに挑む。息子
  の正行には故郷の
河内へ戻るよう告げる。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し
  て、自分が死した後でも帝のために身命を尽くし忠義の心を持っていつの日か朝敵を滅せ、
  と諭した。これが有名な桜井の決別である

 ・楠木正成は西郷の尊敬する人の一人でもある。周囲の人々も同様であったとみられる

・総社は神戸市にある湊川神社で明治5年に建立されている。ご神体は徳川光圀が奉納した傍
  の光巌寺に木彫りの極彩色の楠公の立像の三体の一体が残っていた。寺田屋
騒動で討ち死に
楠木神社(上)と境内清掃時    した有馬新七(俺いごと刺せッ!の志士)が譲り受け伊集院に社殿を造立した

・その後、鹿児島軍学校や私学校の守護神であったが、西南戦争時、宮之城戸長の辺見十郎太が県令の許可を得て宮之城に移設す
 る。場所は現在“一福”の地にあった松尾神社の地に湊川神社を造立した

・日中、太平洋戦争時の応召兵士は武運長久を祈願し出征した。戦後、現在の地に遷座され楠木神社と改名された。ご神体はここ
 に存在しており貴重な神体である

・皇居外苑には楠公と和気清麻呂の銅像が今も建っている。天皇家に尽くした文武の雄であり、戦後の皇国史観排斥のGHQの目を
 逃れている

・和気清麻呂は奈良時代、僧であり権力者でもある弓削道鏡が帝位を狙った時、宇佐神宮に額ずき、「我が国は開闢以来、君臣の
 分定まれり、臣を以て君と成すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の者は宜しく早く掃除
 (そうじょ)すべし」とご神託を受け、道鏡の野望を砕き皇統を守った文官です。その後、薩摩に流罪(和気公園は有名)とな
 りますが、今も楠木正成と共に皇居外苑で雄姿を見せています

・戦後は、政教分離となり管理者、氏子、総代が不在となっているのは残念ですが、関係者で再興の努力をしています 

◎宗功寺の疑問事項(前回の続き)

宗功寺に行った時、疑問に思ったことがある。墓地の下の埋葬品と構造である。エジプトのピラミッドでは王を埋葬するのに密室やミイラ化、黄金の埋葬品などがある。中国王朝でも皇帝は埋葬品や強制的な殉死、兵馬俑などが見られる。これは、権力の強さ、威厳、宗教的な面が強いと思うが、島津家でも規模は小さくても当時の宗教儀式に従って、殿と別れ黄泉の国(表現が悪かったら失礼)へ旅立たれる場合、相応の規式・儀式に従い武士の象徴である刀剣であったり、兜や正装の裃(かみしも)とか衣冠束帯であったりしたと想像する。そうすると「部屋」が必要になる

 

構造については、一般人の埋葬は棺に仏さんを納め土葬だと思うが、領主は埋葬品などがあり石室があると想像する。桝のような隙間のない石で作った空間に棺や埋葬品を治め、上部も石で蓋をした密室ではなのだろうか?これは、地上の廟は重量物であり、傾いたり陥没しないように支える下部構造もしっかりした構造が推測される。このクラスの墓は薩摩藩では数が多く、かなり技術や美術・工芸面も優れていたと思われる。

 

無責任に想像したが、何か情報があれば教えていただきたい

◎さつま町史跡探訪 2020.11.3(火)

 私の仲間4名(歴史探訪の会~川内在住者3名)で本町の宗功寺墓地、虎居城を主体に探訪する目的だった。この会は気楽な探訪ながら、皆さん結構鋭い突っ込みもあり、熱心で知りたい欲求は旺盛である。コースは、山崎御仮屋跡⇒二渡新田溝⇒八丈瀬⇒宮之城歴史資料館⇒宗功寺⇒虎居城跡巡り⇒楠木神社⇒宮之城領主仮屋&山本実彦絡みの盈進小巡りであった。

 

今回は、歴史資料館が企画展をやっていたので宮之城島津家と宗功寺墓地を主に述べる。虎居城祉やその他については私が説明をしたpdf資料やPhotoVideoMovieを参照してもらいたい(都合上、以前撮影・収集したものも含めた)

 

企画展の宮之城島津家と墓所は小倉主査に詳しく説明をしてもらい、知らなかった面もあり新たな気付きがあった。これは地元を巡る利点でもある。宮之城家の家系は複雑で文章では理解しにくいが資料の宗家と対比した図示は関係がよく解り、婚姻や養子縁組も、島津体制の家臣団の強化や家格付けの意図なども良く解った。多い寺社の由来や位置関係も整理されており、写真に撮って後日読むことにより私の頭も整理してもらった。また、主君が御仮屋に帰った際、一部の参詣は見聞きしていたが、規式を定めた文書では格式高く、家臣は主君を敬い畏敬する対応が見て取れる。また、貴重な薩隅を安堵した家康の起請文(写し)は、意外に簡素な文であることや同級生の祖先の所蔵物であるなど始めて知った。

 

苔むす巨石で作られた祠堂型の墓地は、いつ行っても重厚さと林立する墓石の迫力に圧倒され歴史の重みも感じる。装飾なども当時は極彩色に彩られ祖先崇拝や偉大さ、そして華やかさまでをも醸し出していたのではないだろうか?。説明で、石廟の並びや構造、材質、装飾は複雑で、家格などを考慮して当時の担当者は苦労したことが解る。現代の関係者は、この込み入った事情をよく解明したと感服する。友人も墓石群のなかの見えない思惑、意図に聞き入ったと感想を漏らした

 

私は特に忠長公と久通公のファンでもある。久通公の事績は大きな事業で県内にも広く知られているが、忠長公は多くの功績・事績があるものの地味である。私は以下の理由などで本町(特に宮之城)はもっと顕彰すべきだと思っている。耳川や沖田畷、朝鮮の泗川の戦い等武勲も多く、秀吉や家康との人質や交渉など目覚ましいものがあるが、個人的には歳久の首を奪還、その遺領、遺民を受け継いだことなど気概に惹かれ尊敬に値する。個人的見解ながら、都や大阪を見聞した見識や最高権力者とも対峙しており、その経験などで宮之城の基礎を作った人だと思っている。特に、宮之城を「陣屋町」として寺社や東西南北直交のお仮屋馬場、八幡馬場、屋地馬場、百間馬場で町作りの構想、青写真を作ったと思う。これは一国一城令の後、すぐできることではない、城内の武士を含めた家臣の再構築を一城令の前から準備していたのではないだろうか

 

文字数の制約から言及しなかったことは次回とし、最後に、川内市の彼らの為に山本実彦に関するエピソードで締めたい。実は、歳久以降川内には宮之城島津家の飛び地がある。泰平寺の少し上流で川内の古文書にも「島津図書殿持」と記されている。ここ政治経済の拠点に派遣されたのが山本家である。戊辰戦争の時は山本利平次が宮之城部隊に馳せ参じている。盈進小の石碑に名前が刻印されている。亀山小も盈進館としてスタートする関係もあり、その子孫が山本実彦である。古木鐵太郎との親交、与謝野夫妻の召致、アインシュタインの召致などで有名である。そして太平橋近くの堤防に彼の功績を称えた銅像が立っている

  ビデオ参照 >> 20201103宮之城島津家探訪 

〇天守閣のない城 2020.6.23

鹿児島には観光の目玉にもなり得る天守閣を持った城は一つもない。城跡は各地に存在するが、山城や平屋の館風であり、一般的に「城」と言えば、姫路城、大阪城、熊本城のように高くそびえる天守閣、反り返る武者返しの石垣、それを取り巻く堀を想像してしまう。加えて桜や銀杏などがあれば満点である。人々はそのような「お城」にロマンを持つ面があります。歌の「古城」、「白虎隊」などでも心に思い描くものにピッタリで「絵」になります。また、鶴丸城の「ご楼門」だけでも見てみたいと思いますが、鶴丸城が他県に匹敵するような城であったらなと思ってしまいます。なぜ薩摩藩にはなかったのか?                (右図は姫路城のイラスト)

 

以下、私見です。先ほどの城は南北朝や安土桃山時代に築かれています。即ち、全国的に「戦国時代」です。薩摩・大隅・日向は、室町時代の南北朝から戦国時代にかけて群雄割拠の時代であり、島津は守護でありながら全地域の制覇はできていない時代です。各地域の豪族が強く、領土獲得、生き残りをかけた合従連衡を繰り広げています。祁答院地区は、虎居城を築いた大前氏から渋谷氏にとって代わり渋谷氏の天下です。こういう風雲急を告げるような時に各豪族も立派な城を築く余裕もチャンスもなかったと思います。天守閣のあるような城建築に着手したら周りからすぐ滅亡されたと思います。虎居城(=山城)は防御に優れておりそのような城を築く必要性もなかったと思います。他地方の豪族も同じような事情にあったと思います

 

その後は、島津忠良は「島津家中興の祖」と言われるように、貴久や尚久の息子らの兄弟・従兄弟等の活躍により、薩隅日の三州を統一し九州の覇を握るべく九州制覇に打って出ます。そして秀吉の仲介案を呑まず戦いとなり、結局敗北します。地方の戦国時代⇒三州統一⇒九州制覇・秀吉の九州平定に至るまで居城を強化する暇はなかったと思います。秀吉に降伏した後に城を築くことは反旗を翻すことになります。各地方の豪族も同様で、島津に恭順した立場でそのような城を築くことはできません。立派な城を築く権力・財力面で可能性のある島津氏ですらできなかったのです

 

その後、徳川の時代になり、1615年には一国一城令が出て鶴丸城以外は城の機能をなくします。徳川の世になっても島津が謀反を疑われるのでそのような城は作れなくなります。徳川は、島津を牽制するため熊本城を重要視したと言われます。万が一、島津が進軍するのを防ぐためです。余談ながら、この説は実現されたのでは…。西南の役です。中央政府は“賊軍”を熊本で防御しています。その後は、士族人口の多い薩摩藩は、113の外城制度に移り、強固な防塞藩をつくります。築城の案はあったとしても、薩摩藩は最後までその機会はなかったと思われます

 

他県では城下町が存在します。鹿児島市も城下町と言えると思いますが、さらに地方にはその名前に相当する町はありません。宮之城は、御仮屋を中心に発達した街で、それは「陣屋町」というそうです。宮之城は、御仮屋を中心に、すぐ傍に家老邸があり、東西南北直交の〇〇馬場通り網があり、街が形成されています。虎居城のような「籠城機能」重視ではないですが、平和な時代になってはきたが、郷士や村の半農半士が配置され一応の防御体制にあると思います

〇『古い時代の信仰』(最後<No5>) 2020.6.2

島津歳久の辞世の句は「晴蓑めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」です。これは、追討軍と戦う前日に詠んだと思っています。同時に「島津家への謀反の心はなく、家臣とやむなく交戦する」こともしたためています(一説によれば「宮城へも伝令を送り、処罰を受けるかも知れない、ということから籠城に繋がったとも言われます」)。「晴蓑(せいさ)」とは島津歳久の法名で、今風に訳すなら「歳久の魂はどこへ行ったと聞かれたら、思い残すこと無く死んだので雲のかなたに消え去って分からないと言って欲しい」でしょうか。「自分の魂は、思い残すことなく成仏する」と覚悟しています。御霊はこの世に残ることはない、と言っています

 歳久公の供養塔(宮之城屋地)

 

しかし、事後が問題です。生臭い話ですが、歳久の首は肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられ首実験をされ、京都の一条戻橋に晒されます。ここは、昔から罪人の首を晒す場所で、千利休も晒された所だそうです。その時期に、歳久の従兄弟である島津忠長が人質として丁度京都にいて、大徳寺の玉仲(ぎょくちゅう)和尚と図って、市来家家臣に盗みとらせ(一説では自分も動いた)、京都浄福寺に埋葬しました。その後、明治になってから子孫が首を鹿児島に持ち帰り、帖佐の総禅寺に埋葬されていた胴体も掘り起こし、一体にして平松神社(心岳寺)に改葬されています。二百年以上経って、明治にようやく首と胴体が一緒に埋葬されたのです

 

忠長公はどんな気持ちだったでしょうか?一緒に戦った従兄弟が反逆者として晒されたのです。想像するに、辞世の時の気持ちと状況が違っているのです。非業な仕打ちを恨み、怒りや悲しみなどこみ上げてくるものがあったでしょう。安らかに眠らせ成仏させることではなかったでしょうか。浄福寺では、家族や島津家の人々、家臣を代表して懇ろに供養したと思います。そして…その後、歳久公自刃後の8年後、忠長公は慶長51600)年、宮之城の地頭(領主)となるのです。何という因縁か!丁重に弔った方、旧領主歳久公の遺領に遺臣・遺民の住む地、宮之城に赴くのです。

 

義久・義弘公の配慮もあったのでしょうか?良くできています。御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、人々を脅かすような天災疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして怖れ、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする信仰です。当初はこのような考えでスタートしたかも知れませんが変わって行ったと思います。きっかけはこの方しか適任はいません。そう思われる忠長公は、歳久公の遺志を継ぎ発展させる人と考えられ、歳久公を祀る機運は醸成されたと推測します。即ち、私は「歳久公は『神となって祀られる男』になった」と考えるのです。

 

さて、歳久公の領地以外の地でも供養塔など広く祀られ尊崇されています。湯田信義氏の調査では、種々含め44ケ所関連施設があります。実は、その中で私の在所・時吉では不思議なことに「ない」のです。他集落も数か所あります。農村ながら、古い菅原道真公の木彫像(近年私が好奇心から発見し幸運を感じた)はあるのに歳久公の供養施設はないのです。そして、今回一つ細かい結びつきを見出しました。以前、戦前最後の神主さんのお宅に「葉山幸給」なる鏡面文字、すなわち「印鑑」と思われる古いものがありました。意味不明でしたが、湯田氏の調査結果で繋がりの推測が浮かびました。

 

湯田の八幡神社の東側に「葉山神社」があり、歳久公が祀られているのです。重臣で龍ケ水で殉死した方の関係者が湯田に住み、知る人の弁によると、歳久公が湯治に来て宿泊したとも想像しています。時吉の神主(旧士族)さんは、「御神札(おふだ)」を授けていたと思われます。これは、現在の「お大麻さん」とも言う「天照皇大神宮」の御神札に相当するものです。意味は「歳久公から幸せを給う」と解釈しました。区民の人々は、御神札(=歳久公)を家で祀り、日々の暮らしの安寧やそれぞれのご祈願を心に手を合わせ祈りを捧げて、神様からのご加護を願っていたと思います。これは、「神の証明」と言えます

〇『古い時代の信仰』(その4の補足) 2020.5.28

歳久公の自刃後、すぐに文長・慶長の役が起こり、8年後には関ヶ原の戦いも起きるなど戦役が慌ただしい。歳久公との関係を考える人もいただろう。ここでは、県史を参考に「凶荒飢饉」についてまとめる。まず、歳久公の死去は文禄11592)年、大念仏踊り再興は寛永91632)年を念頭において欲しい。この地方では、合戦よりも凶荒飢饉が歳久公と結びつき易いと考えるからです。

 

損耗・凶荒の原因は風水害、旱害、害虫、珠に起きる噴火があり、当領での発生もあるが外部からの影響(米価)もあるようだ。慶長91604)年、旱天が続き被害は分からないが義久は「五月雨の雲かさなりて日比ふれ、なべて田面のうるふばかりに」と雨乞いをしている。寛永41627)年には小蠅の虫が発生し、同年・翌年、または、7816301631)年には領内全体に飢饉が発生している。同131636)年にも領内一帯の飢饉も発生している。同181641)年には田地に「虫入り」があったと記録にある。

 

大念仏踊り再興、寛永91632)年やそれ以前は虫害や飢饉に見舞われ、その後も農村地域は度重なる凶荒に襲われていた時代といえる。天候もさることながら「虫害」にも悩まされているのが解る。いろいろな郷土芸能は「虫を追う」ことの意味を理解できる。この後も旱魃や風水害、虫害に見舞われ役米(年貢)の減免や、諸士・百姓に対し儀式、祭礼、寄せ合いなどの浪費を禁じている。享保年間の飢饉も有名であるが、西日本は人の餓死一つをとっても地獄絵図が出現するところも記録にしっかり残っている。この時は、当領は餓死者は非常に少なかったとある。命を救ったのは「からいも(甘藷)」なのである

 

百姓は、絶えず何らかの厄災に見舞われており、「雨はからの贈り物、途絶えるのは神の罰」という観念であるから、鎮魂から更に威力のある祈る対象として歳久公は神格化したのではないだろうか

〇『古い時代の信仰』(その4) 2020.5.26

島津歳久公を祀った神社として、さつま町中津川の「大石神社」が有名で秋季大祭に「金吾様踊り」が奉納されます。この神社は、武の神・安産の神・稲作の神として崇敬されています。この地方を治め、居城や墓のある本家本元の宮之城屋地よりも篤く歳久公への尊崇の念を示していると言えます。現在はこのような形ですが、古くは「大念仏踊り」が行われていたようです。大正、昭和の写真を見ると、ルーツは現在と同じとみられ「金吾様踊り」の形で継承されていると思われます 

 

御祭神は、渋谷良重公と島津歳久公です。良重公は妻に刺殺され、歳久公は秀吉の怒りを買い、反逆者として京で晒されています。共に不幸な死を遂げており、武の尊敬や悲劇性の同情的思いがある中で、「怨霊」として厄災をもたらさないことへの祀り、鎮魂で執り行われたと考えてしまいます。私は個人的には、よく知らない頃はそのように考え、いまは歳久公は初期は平将門、後に菅原道真と同じ「神」となった人だと思っています。歴史も古いものがあります

 

さて、その発祥の念仏踊りをWikipediaで見ると、「念仏を唱えながら踊る日本の伝統芸能で、さまざまな様式で全国に分布している。念仏踊りの起源は、菅原道真886から8894年間、讃岐国司を務めた時に行った“雨乞い踊り”とされ、翌年から村人達が感謝の意味で踊ったのが今に残るとされる」とあります。中津川の大念仏踊りは、踊りの始めに頭鉦(かしらがね)が「南無阿弥陀佛」と大声で三回唱えることで起こったものと言われており、本当の起源はよくわかりませんが、菅原道真系ではないかと思います

 

中津川には古文書が残されており、それによると、この踊りは渋谷良重公の時代から踊られ、10年に1度は必ず踊ることとされていたが、それぞれの都合で中絶されていた。記録上もっとも古いのは寛永191642)年であり、歳久公死去(1592)より丁度50年経っています。これは「再興」であり、それ以前にも行われていることになりますが、この年は何と「寛永飢饉」の時期なのです。その前にも「虫害」が発生しています。これは、どう考えても厄災の発生と歳久公の”50年忌”にも当たり、「御霊信仰」から再興した考えられます

 

その後、元禄6年、同13年、正徳元年、宝暦6年、同12年、大正15年、昭和30年に行われており、不明も2回あるとのことである。実施に当たっては「虫追い」でお上に申請して行われていまが、実態は「両公の鎮魂」であると推察できます。また、大口の羽月、針持、曾木、菱刈には供養塔があり、実際に踊りに参加しているのは「虫害」の効果を聞きつけてのものらしい(今回はここまで、最後にもう少し…)


〇『古い時代の信仰』(その3) 2020.5.22

歳久公のまとめに時間を要している。いろいろ調べている内、旧薩摩町の雨乞いについて記述を見つけた。その3として、先にこれらを述べたい

 

薩摩町郷土史でも雨乞いを行っている。日照りが続くと田がすぐ干上がり危機がせまった。昭和2年の夏は、雨が少なく中津川全戸の人が大石神社に集まり雨乞いの祈願を行った。鉦や太鼓、石油缶など叩けば音の出るものを持ち寄り、天に響けとばかり打ち鳴らし雨乞いをした。

 

 

昭和9年7月6日、全戸から一人ずつ出て永江滝で雨乞いが行われた。滝つぼを干して滝の神を怒らせ雨を降らす方法をとったが雲さえない日が続き効果はなかった。その後も大石神社や白鳥神社で数回、地区別でも行ったが効果がなく水田の植え付け不能や出穂しないもの、立ち枯れが多く作物は枯死した。このため、代議士や県当局に救済措置を要請している

 

鶴田町郷土史では発見できなかったが、この地方は同じような文化圏にあるので実際にはやっていると考える。藩政時代より、米こそ命であり死活問題である。天気予報の無かった時代、天候は神の思し召しであり、「雨はからの贈り物、途絶えるのは神の罰」という観念で、高い山での儀式で神の注意を惹き、喜ばせ、同情を買う目的だったと思われている。今の知見や価値観で“滑稽なこと”などと考えるのではなく、当時の人の一生懸命さ、信心深さに敬服する。その1の稿に、商店街の人々も上宮山に上り、雨面を祀るなど協力したことを付け加えた


〇『古い時代の信仰』(その2) 2020.5.17

今回は「日本三大怨霊」の中から有名な「菅原道真」「平将門」の二人を取り上げます。島津歳久公の尊崇を考える上では非常に似た部分があると考えるからです。2人は良く知られているので簡単に取り上げます

 

菅原道真は公家の出でありますが、才能と詩歌に優れており、後醍醐天皇の寵愛、天皇家の娘との婚姻もあり、その出世ぶりは他の人の羨望や嫉妬に晒されます。右大臣のとき、左大臣・藤原時平の「道真は天皇の廃位を企てている」との讒言により太宰府に左遷されてしまいます。家族とも別れ、失意の道真が亡くなった後、都で異変が起きます。張本人の時平の死、天皇の皇子の死、宮殿への落雷、要人の死などが起きた。これを道真の「祟り」と恐れた朝廷は、亡くなった道真の位を右大臣に戻し、死者なのに左大臣、太政大臣へと出世させ、その怒りを抑えようとしました

 

菅原道真は京都の「北野天満宮」に祀られ、墓のある福岡にも「太宰府天満宮」が建立され『天神(雷神)様』として祀られるようになった。ちなみに「宮」と呼ばれるのは元天皇が祀られる神社のみで、その位を授けられたようである。その後全国各地に天満宮が建立され、道真公が元々学問に秀でた方だったので、天神様は学問の神様として信仰されるようになっていった。全国、津々浦々に「菅原神社」が建てられているのは御承知の通りだと思います。さつま町近辺では東郷の「藤川天神」が有名です。私の集落は、藩政時代初期は「水天宮」、後期は「菅原神社」となっていま。また、公民館の神棚には、天明31783)年の「菅原道真公の木彫像」もあります。平安期の人ですが、現在に至るまで全国的に、「あやかりたい」とか、尊敬・崇拝されています

平将門は桓武天皇の子孫である平氏一門ですが、スゴイ(むごい)仕打ちにあった人です。元々京で藤原氏に仕える武士の一人であったが、父の死後関東へ戻り力をつけ、ついには朝廷に敵対することとなります。独立国を目指した将門は自らを「新皇」と名乗り、当初は有利に戦いを進めていたが、後に討伐に本腰を挙げた朝廷側の平貞盛・藤原秀郷らに敗れてしまいます。

 

この将門の首が京都でさらし首になります。日本で最初のさらし首とも言われ、いくつかのエピソードがあります。例えば、数カ月「目を開いていたまま」とか、「自ら胴体を探して飛んでいった」など…。そして飛んだ先は、現在首塚がある東京都千代田区と言われています。この首塚が、現在の工事などで移転される際に多くの関係者に災厄が起こり、死者もでたことから、将門は大変恐れられています(ネット情報より)

 

平将門は首塚に葬られていましたが、疫病などが流行り、近くの「神田明神」にて供養したところ、事態が収まったのでそのまま祀るようになりました。関東大震災後の土地開発や、第二次大戦後、GHQの区画整理の際に不審な事故が相次いだことなどから、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるとされました。現在でも将門公にまつわる何かを行う際にはきちんとお参りしないといけないと言われています

 

このお二人、島津歳久公と共通する部分が多いですよね。そう言えば、フィクションの四谷怪談でさえ映画化する際は「於岩稲荷」にお参りするそうです。俳優たちは休憩のお茶に「伊右衛門」を飲むのかな…。最後は、歳久公の件について…


〇『古い時代の信仰』(その1) 2020.5.12(火)

現代は「科学万能時代」で、非科学的なことは全く信仰しなくなってきています。しかし、地鎮祭など「科学万能時代に生きる古き信仰」は矛盾していそうであるが共存しています。結局、科学は万能ではない、科学で説明できないこともあり得ると考えていると思います。古い時代より、私の親の代までは迷信や占い・祈祷などが信じられ、それ以前は、呪術、霊魂、引いては怨霊や祟りなどが生活の中に溶け込んでいたと思われます。島津歳久公の情報集めをする中で、この問題に興味があり、まず、身近な例、有名な例を示したい

1.  柏原大願寺の炭疽病退散

明治9年(1876)、時吉村、柏原村で悪疫が流行し牛馬が全滅した。川内の卜者(ぼくしゃ:占いをする人)が占ったところ、大願寺に古い墓があり、「供養を頼む」というお告げがあり、両村総出で藪を払ったところ、あまたの墓石が発見された。これを現在の地に集め供養したところ、それから牛馬の難を逃れた。このため、渋谷第12代重武の墓石に次の刻印をし、牛馬の守り神とした(川﨑大十著『渋谷党の足跡』)

 「牛馬病維除 宮之城時吉村  (牛馬病<炭疽病?>これを除く)

   奉建立  靍田柏原村

  明治九年

  大崎神社  八月八日」

大崎神社は渋谷氏以前の領主、大前(おおさきorおおくま)氏のことと思われる。大前、渋谷両氏を供養し守り神とていることは神仏混合の時代で間違いないが、字の違いや最も怨霊の権化と思われるのは渋谷氏最後の領主「良重」であり、歴史認識が不十分だったことも考えられる。また、大願寺の墓地群はこの時、きれいに整備されたのだろうか?

2..  宮之城役場における「雨乞いの達示」

町史によると、昭和9年(1934)に旱魃が続いたため、ため池も干上がり水は下流まで流れつかなかったという。各地区でも雨乞いをやっていたが、町役場、農会より各地区に「雨乞い」の執行参加依頼が出ている(8/28付)。各戸1名が上宮神社に鳴り物を持って集まり、祈願した後、雨乞いをする主旨である。更に幼老で参加できない時は、屋地公園に薪一束か鳴り物を持って集合し、雨乞いをするので9時30分から午後4時までは自由行動をとらないようにとの通達である。欠席者には適切な対応をとるようにとの強制力の強いものである。商店街も協力し、上宮神社の雨面を起こす行事をやり帰りには大雨が降りだし霊験あらたかなるを喜んだそうである

 

私の母も、雨乞石や十文字岡(佐志)で、火を焚いたり太鼓などを鳴らして祈願したのを覚えている。他に、弥三郎岡、牧の峰でも行われたようだ。この時代でさえも、祈願、神通力は信じられていたのである。また、「お上」の権力の強さもうかがえる

 

現在であれば、カリフォルニアやオーストラリアの大きな山火事や野外ステージの大音響でも雨が降らないので効果の程は一目瞭然であるが…(祈願しないからか?)…次回は「日本三大怨霊などを」


〇『旧薩摩町地区の史跡巡り』 2020.2.10(月) 町郷土史研究会、薩摩支部主催

 ~いつも通り過ぎ、行くこともない所、薩摩地区には埋まっている「いい歴史が」~

正直、こんな田舎(失礼!)や山間地域に、こんな“モノ“があるとは!(オレの認識不足だった)。求名、永野、中津川地区は史跡の宝庫、秘所なのだ。旧宮之城・鶴田・薩摩地区の見たがり旺盛な会員約50名が集合。このメンバー決して”老人会“ではない。勉強意欲も気力も服装も若々しい。2台のマイクロバスと好奇心で「訪ね尋ねして撮りまくった」。しかし私はチョンボをした。一眼レフカメラを忘れたのだ。しょうがないナ~、代打は自慢機「iPhoneX-R

ルートは、「別府原古墳」「下丁場の摩崖仏」「白猿のたたら跡・棚田」「大石神社」だ。ムム~ッ、「この田に水を!の北平隧道」がないではないか?(前触れと違って主役を変更したな、彼ら)。でもイイヤ、十分なコースだ。個人的には、「下丁場の摩崖仏」「白猿のたたら製鉄跡」に一番興味があった。…蛇足で字数が増えた。詳細は省略・簡素化し次の機会にする

古墳は余り派手さはないが、当時の人や様子を想像すると興味が湧く。墓は円形に石室をつくり、遺体を安置し平らな石を積み上げてある。全部で6基ある。丘の一番高い部分で南には穴川が流れている。現在は丘陵で平らであり日当たりも良い。副葬品は、鉄剣・鉄鏃などの武器が出土している(どこで入手、作ったの?)。農耕、漁業、備蓄など平穏な暮らしの中に、敵からの防御も必要だったのだろう。墓は集落の権力者だろう。隼人族では?と説明を受けた。誇れる祖先がいたのだ(素晴ラシイ)

下丁場の摩崖仏は、そこを通っても気付かなかった。高さのある長い崖壁が少し風化しているが、立派な梵字の刻まれた摩崖仏があるなんて!。身近には、湯田や倉野にもあるが詳細は解明されていない。鎌倉期に長野城を攻めた戦いがあり、戦死した者の追善供養では、と推測されている(戦士の鎮魂と祟り防止の除霊・平穏ではと妄想してしまった)


いよいよ白猿(熊襲のボスの名前から。ひょっとしたら兄の黒猿は「黒木」に逃げた?)。命名や棚田の素晴らしさは本項の【6月】を参考にしていただきたい。行く途中、険しい山へ向かうので皆さんは少し仰天。まるで「ポツンと一軒家」の実写版

到着したら晴れた空をバックの壮大さ、棚田の立派さ、たんぼのきれいな耕作、水源、民家があることに驚嘆!!(だからオレは「さつま町の秘境」と表現しただろう)。一番上まで歩いて上がったよ~。皆、写真で風景を撮りまくる。この広い風景をうまく撮るのは難しいヨ。パノラマ撮影やビデオ撮影で回す撮り方が最適。案内の米盛氏の説明が冴えわたる。皆感心 ビデオで周回して撮った>>

特に私は「たたら」の存在を知らず引き付けられた。遺構がないのは残念だが、溶鋼に必要な「ふいご(風を送るもの)」は発見されている(まるで「もののけ姫」の存在ではないか)。ここの存在は藩政時代に「秘密の地、工房」と推定されている。専門の方々が集り、たたら製鉄、農業を秘密裏に行っていた。武器や農耕・林業の製品を作っていたのだろう。鉄鉱石が転がっており、存在を裏付ける。材木の炭や砂鉄も利用したかも知れない。私はズシーッと重い鉄鉱石を持って帰りここのことを重く印象している。大石神社は残念ながら省略します(書ききれない)


〇『二渡新田周辺を歩く(さるく)』 2020/1/9(木)

今回は二渡地区の歴史散歩。この地域で目立つ物や歴史的史跡は何があるのでしょう?須杭モトクロス、南方神社奉納祭、そして鮎祭り、ホタル船は有名ですが、実は…実は、素晴らしい史跡・宝が現存しているのです。それは、『この地域の田んぼは紫尾山の恵みで潤っている』という突飛なことです。そのための“疏水路(そすいろ)”が造られ、民家も昔から生活用水に恵まれ、今でも景観が保たれているのです。遠くにある紫尾山はいたるところに恩恵を与えているのです

正確には、「二渡新田用水」です。国道247号線の山崎橋の手前が二渡、須杭地区。ここの水田100haは川内川と山や民家に挟まれています。ここの灌漑は紫尾山の堀切峠に源を発する「泊野川」(きらら川、とも言う)が主流で、外にも紫尾山系の水源が合流し、 川内川吐出し前の取水口
人工的に泊野川から取り入れているのです

川内川の“あばん瀬”近くに合流する800m程上流に「山之内井堰」と言う堰がつくられています。灌漑のため、土地を切り開いてつくった水路6kmを江戸時代の享保1416年(17291731)に大工事を行っています

藩命工事で、金山を発見した藩家老、宮之城島津家4代の島津久通が国分の新田開削や高山や小根占川の用水工事も実施しており、二渡の工事は数十年後に遅れて実施されています。その功績を讃えるため、昭和18年に「島津徳源公頌徳(しょうとく)碑」が建てられました

川内川の右岸沿いに二渡地区を経て須杭、上東郷村の南瀬まで続いていました(現在は須杭まで)。距離にして約6km、その間の隧道(トンネル)は10ヶ所以上延べ1.8kmあり、途中明かり窓を開けここから掘削した岩くずを取り出したと言い伝えられています。大変な難工事であり、なかなか作業人が集まらず、後には日暮の普請場に小屋を建て、掘り出した岩くず1升に米1升を支払ったと言われます。この難工事の末、灌漑水田約60町歩が潤ったとされています。水勾配をとるため、松明を立て対岸の窓よりチェックしたという。 他に、阿多殿塔、南方神社、二渡石塔殿、山崎の山姫伝説などがの史跡があるので、実物を見て頂きたい

さて、おもしろい話が一つあります。太閤秀吉が川内泰平寺・平佐城の後、山崎城に来ます。その際、休んで腰掛けた“腰掛石”がある、と言われています。また、うぐいすが美声で鳴いたのに気づき“鶯山”の名が生まれたという。このような伝説により、秀吉が古い商店街の通路を通った、と言われている(本当かな?川内川左岸を通過して山崎城に行ったと思うのだが…)。史実なら素晴らしい。日本史のスーパースターが来たことになる! 


〇雄々しい島津義弘を見に行こう! 2019/12/06(町郷土史研究会宮之城支部)

島津義弘没後400年の今年、郷土史研宮之城支部の一日研修は「日置地区の関連史跡を訪ねる」こととしました。少し天気が悪そうな予報の中、降ったら“島津雨だ!“と開き直って当日を迎えました。結論から言うと、若干のハプニングはあったものの多くの収穫を得て事故なく終了することができました

中世期、群雄割拠する中、薩摩・大隅・日向を統一し、九州制覇まであと一歩と迫り心ならずも秀吉の大軍に敗れます。朝鮮出兵での活躍、関ヶ原での的中突破など多くの武功で知られる島津義弘、その名は全国区である。改めて彼の偉大さ、成し遂げた大きさを知る研修でした

【義弘公騎馬像と伊集院駅イベント】
 えびの市の直立した義弘像も立派でしたが、伊集院駅にあるこの像は、今にも動き出しそうな躍動的で勇猛な義弘を
 表しています。これは中村晋也氏の作で、関ヶ原の敵
中突破の姿を描いたと言われます。その雄姿を見上げると、
 「その猛勢の中に、あい駆けよ」と下知しているようです。昭和63年に「薩摩の心」として英風を伝えるため建立さ
 れた、と説明書きにあります

 駅の階段、陸橋には、“ひおき武将隊”のポスターがあり、商工会などの関係者が当時の登場人物を甲冑姿で扮し、没
 後400年を盛り上げていました。その殆どは歴史の書物などで目にしていた人物であり、日置には多くの武将と史跡
 が存在していると思います。その中で島津歳久公は宮之城(さつま町)に縁のある武将であり、親近感が持てまし
 た。さつま町でももっと顕彰しなければならない人物ですし、伊集院との関係も深いと再認識しました

【徳重神社】
ここは義弘公を祀る神社で妙円寺参りが有名です。この催しも関ヶ原の敵中突破を見習い、平時に心身を鍛えるために行うもので今でも盛大に行われています。実際にここに立つと、「戦国薩摩武士の魂」に思いが至ります

【有馬新七・平野國臣】
有馬新七を詳しく調べると、時世はなぜこんな人物を早世させたのか!と思います。優秀な人材が国のために「ど真
剣」に生き行動したことは尊敬に値します。今の我々が失った「熱い魂、信念」を感じずにはいられません。純真で直情的すぎたのでしょうか…。あの「俺いごと刺せ~っ」のセリフには涙がでます

平野國臣もしかり、です。有能で熱い生き様、信念に燃え若くして命を落とした生き方には感服します。同時に自分の軟弱さが情けなくなってきます。彼は錦江湾で西郷の命を救っただけの男ではありません。歌人でもあります。薩摩人が思いつかなかった「我胸の 燃ゆるおもいひに くらぶれば 煙もうすし 桜島山」を詠み、平和時なら歌人のように生きたい、という内容の句を知るにあたり、傾奇者(かぶきもの)の異名を持つ彼の本心が窺えました

雪窓院跡は車窓から見ました。雪窓夫人は入来院の娘で渋谷の血を明治維新まで伝えました。島津三兄弟の母であり見事な女性です。義久の剃髪岩は、薩摩川内市泰平寺の和睦石、秀吉謁見の銅像に思いが巡りました

【蓬莱館】
断崖絶壁の地形と長い海岸線沿いの蓬莱館で食事をとりました。皆さん、何と言っても海の幸を堪能されたようです。思い思いの買い物をして次の目的地へ向かいました


【沈寿官窯】
 私はここは初めてです。美山の町を通り「陶器の町」の雰囲気を感じました。沈寿官窯は雑然とした職人の工房との
 イメージでしたが、非常に整然とし綺麗な佇まいでした。初代は異国の地で一から陶器作りを始めた訳ですが、ある
 のは技術のみ、ないないづくしから始めるその苦労が偲ばれます。与えられた身分と膨大な時間をかけ、技術を高め
 西洋でも高く評価される製品を生み出したことは代々の塗炭の苦しみ、執念、研鑽があったと思います

 私は陶器、磁器類の良しあしは解らないのですが、完成品を見ると美しく芸術品と思えます。登り釜や工房の製造工
 程を見学しましたが、経験や職人技に加え現代の技術も融合させていると感じました。ろくろの職人さんも絵付けの
 女性も真剣な眼差しで製品と向き合っており、完成品の美しさや高価さが納得できます

 説明の方に熱心に詳しく説明してもらい、その態度にも謙虚さが伺えました。素焼き・本焼き、温度管理など専門的
 なことも教えてもらい製品つくりの難しさが理解できました。敷地内はチリ一つ落ちておらず、茶室や日本庭園も美
 しく維持されており、いい環境・いい人心から良い製品が生み出されていると感じました。ギャラリーの香炉など精
 緻の極致と言えるもので人が作ったとは思えないものでした。28
1万円の値が付けられていました

【大汝牟遅神社】(おおなむち神社)
 この神社も詳しく知りませんでした。この地方の訪問先を調べる中で、流鏑馬と千本楠の存在に行き当たりました。
 研修も勉強オンリーではなく、楽しさや非日常の感動も必要です。”おおなむち”と読み、名前も独特で大国主命の幼
 名と知りました。各神社ともに謂れや独特の言い伝えがあります。男女別に祈願する銀杏の木やオトッゲ石などユニ
 ークなものでした。ご神木の楠も樹齢を感じさせる見事な巨木で神聖さを感じます

 参道横の千本楠を楽しみにしていました。想像に難くなく巨木と異形の枝ぶりに思わず歓声をあげました。これだけ
 の巨樹の群生は神秘さを感じます。幾重にも分岐した枝葉もみずみずしさが感じられます。まさしく「精霊の狩り
 人」の世界です。太古の世界の巨木、巨獣を彷彿させます。古人はここに自然への畏敬をみていたのでしょう。久し
 ぶりに自然の偉大さを感じました。  当日のフォトムービーはこちら>> 


〇『時吉を歩く(さるく)』 生涯学習 2019/12/05

歴史散歩第3弾は、「時吉を歩く」です。今回も歴史散歩教室のメンバーが、時吉の史跡を歩いて勉強しました。この時吉というところ、結構古い歴史をもっているのです。筆者(管理人)は、ここに住む先祖伝来の“原住民”です。まず特徴的なことを4点挙げます

 ①北側遺跡など8か所が発掘調査され、縄文、弥生、古墳、中世時代の遺物・遺構が発掘されています。先史時代よりこの地を選び、生活した痕跡があります

  鎌倉初期の建久図田帳(1197)という古い文書に「時吉15町」が出てきます。古くから時吉たんぼは開墾され、農民と支配者の関係があったことになります

 多賀神社は、800年以上前より時吉の村社であり、現在も時吉の象徴であり、集会やイベントの中心地です

いち早く5つの城が存在したことです。いずれも山城と考えられますが、本丸は富岡城、支城として、弓場ケ城、高城、鶴ヶ城、古城です。虎居城の下城に対し上城と呼ばれた時期もあります。川内川の上下流からの命名でしょう

 

以下は、歩いて見た史跡の説明です。時間や距離の制約で部分的なものです

【時吉用水路】
時吉用水路は、穴川から引いています。現在、5km上流から引いた用水が時吉田んぼ60町を潤していますが、その原型は、大前氏の時代に引いたと古い文書にあります。干ばつの時ほど豊作と言われ、この地区の生命線です

 

【田の神様】
ここの田の神さまは高さが2m程ある大きな神様です。めしげを持って時吉たんぼを一望するように建っています。江戸時代後期の建立で、すぐ目の前を伊佐街道が通っています。春に山の神が下りて来、秋にまた山に帰ると言われ豊作祈願と共に、街道の目印になっていたと思います。

【六地蔵】
旧新地地区にあります。記名がないので不明ですが、室町期に建てられたと思われます。この地区には、拾壱面、血合、血合瀬、庵の前、大御堂、加冶屋、弓場元、神楽田や多くの墓石などがあり、時系列もはっきりしませんが武人や僧侶、農民が混在した村で、何らかの戦いがあり、高位身分の人か犠牲者を弔ったと想像しています

【多賀神社】

時吉の村社、彦権現(現、多賀神社)のルーツは、福岡と大分の間にある彦権現で継体天皇の時代に創建されたものを大前氏の時にこの地に勧請したと宮之城記から読み取れます。大前氏は平安期なので、実に800年以上前より宗教的な関わりを持っていたと思われます

 

【相良墓地】
宮之城島津家3代久元の時代、筆頭家老相良家は尖叟寺を建て菩提寺とした。相良の前身は「稲富」であり、島津の九州制覇に参し戦死した稲富左京亮の墓があり、法名は尖叟宗利居士と刻まれている。渋谷時代に利昌寺が建てられ廃寺となり、それが字名となり、そこに尖叟寺が建ったと推察しています


〇『白男川を歩く』 生涯学習講座 2019/11/05

江戸時代の古文書『名称志再撰方志ら偏帳留(さつま町指定文化財)と地元の伝承を手引き書にして、中世の時代の人々に思いをはせながら時空を越えた散策をしましょう(さつまガイド: 市野國治.三浦哲朗.上間幸治)

【中世 白男川の概況 

◆泊野往還 宮之城と高尾野とを結ぶ道を泊野往還と呼ばれた。虎居村から白男
 川村・泊野村を通り、楠八重から山越えで高尾野郷柴引村へ通じていた

◆しらをかわ 「白男河」とも記し「しらかわ」とも読んだらしい。明徳3年
 (1392)の本田兼久譲状には山門院の一所として「同国しらをかわのむらの
  はんふん」とみえる

◆勢力圏 ①白男川は泊野・二渡と共に東郷大前氏の勢力圏であったが、やがて東郷渋谷氏に移り、 その後、祁答院渋
      谷氏が領置したと推定される

     ②島津氏が領置した頃は白男川・泊野、二渡は東郷に属していたが、明暦2年(1656)東郷領主島津久憲
      が1万石から3千石没収され、二渡、白男川・泊野は山崎郷となった(
宮之城島津久通の頃)

     ③明暦4年(1658)の竿次帳には「薩摩郡東郷内二渡村」とあり、近世初期までは東郷に 属し、万治内検
                 (1658)以後は伊佐郡山崎郷に属したと思われる

◆石 高(山崎郷)

   ①高  651石余 寛文4年(1664)の郡村高次帳
   
②高1185石余 慶応4年(1868)うち高723石余は蔵入・給地高の合計 

◆白男川の人口  

   ◎慶応4年(1867)           ◎令和元年(2019/10) 

    男:448人 女:317人 合計:765人   男:160人 女:195人 合計:355人

【城下・宇都エリア

1.紫尾神社 

 ・白男川氏の創建と伝わる。山崎再撰帳によると『紫尾三社権現 御正躰 ほこ2躰 寛永12年 再興棟札に勧請人
  内山杢右衛門、11月19日、村中、出米にて祭相調申候』とある。
紫尾神社は山頂近くの上宮神社、紫尾温泉の中
  宮、柏原、平川、二渡、東郷、上川内などにある

 ・明治2年(1869)須杭と二渡の紫尾神社を合祀、明治4年(1871)に「白男川村社」となった

 ・社殿の隅に破壊された3躰の「石仏」がある。この石仏はどこにあったのか? 

 ・諏訪神社 御神体 鎌、明治2年二渡の南方神社に合祀。紫尾神社の北にあり

2.阿弥陀堂跡 白男川殿の登り口付近、山崎再撰帳には『白男川城ノ下阿弥陀堂 木躰座像 高さ9寸余』とある

3.六 地 蔵 阿弥陀堂跡に建つ六地蔵には『大願主 普門寺中興周纂 天文三(1534)稔甲午菊月十五日 代官山口七
                   兵衛門  浄珍』と刻まれている

4.馬頭観音  石造 1躰、 田の神 石造 1躰               

5.庄屋屋敷跡 白男川殿への登り口。藩政時代に庄屋が白男川村と泊野村の行政事務を執った

6.白男川城跡と白男川殿(したがわどん)

 ・白男川氏は東郷領主渋谷又二郎武重入道覚善の末子(弘安・正応年間1276~93)の頃に始まると伝わる。第6代
  東郷領主渋谷氏重の第5子次郎四郎が居城したと伝わる

 ・白男川城中腹に墓石2基と石灯籠1基(倒壊)が残されており、白男川氏のものと伝わる

 ・『文化5年(1808)戌辰2月吉日 入来家家臣 白男川次郎 白男川金四郎 白男川金右ヱ門寄進』が残る。入来
  町から花香を手向けに訪問者があったと、米盛弘氏は話す

7.山之神   紫尾神社から浅井野へ約100m、町道白男川泊野線沿い山手に建つ 

 ・山崎再撰帳には『山之神 尊躰石神3躰 右何年間建立之訳相知れず 元禄2年仲春再興11月19日 現王園門より
  祭り申し候』とある

8.虚空蔵   「石躰立像2躰 高さ1尺7寸と高さ2尺2寸あまり」とある

 

【玉田エリア

9.千人が迫 ・塔の元(塔山),石塔

  白男川から浅井野に通ずる道路脇に「千人が迫」、戦死者を埋めた「塔の元」(「どやま」とも言う)という文明
  年間の古戦場がある。この地域で激しい戦さがあったという。水田整備で往時の地形は分か
らない。塔山にあった
  石塔が原田剛宅に保存されている(墨書で明徳2年(1391)とある)

   

【浅井野エリア

10.天神山 ・15 天満天神様

  浅井野集落の南方の山に天神様を祀り、この山を天神山と呼ぶ。御神田があった

11.大山祇神社(おおやまつみ)現王山神 7躰

 ・明治政府が神社の再編を行ったとき、「山の神」は祭神を大山祇命とし大山祇神社となる。藩政時代は「現王山
  神」といい村中で花香をとっていた。浅井野集落で祀っている

12.虚空蔵菩薩 浅井野 山神社境内にあり    

 ・境内の一角の小さな祠に、上半身だけの朽ちかけた木像が鎮座している

13.馬頭観音 石造1躰、 田の神 石造1躰  

14.観音堂  木躰立像 高さ2尺7寸余り 浅井野中で花香(山崎再撰帳に記載あり) 

15.山之神が満園門・内村門により祀られている。 (山崎再撰帳に記載あり)

 ・宮之城の山之神の分布状況 出典:「神社誌」(鹿児島県神職会編) 宮之城町史P885

    白男川 3、泊野 5、二渡 2、平川 3、柊野 1、虎居 1、求名 1

 

【高峯境と古戦場伝承エリア

17.栗脇城跡

  浅井野の泊野川右岸の小山に位置する。文明の合戦の際に進攻してきた東郷重理が、泊野川を挟んで祁答院10代重
  慶と対峙したとき、陣所にした山城の跡と山崎再撰帳に伝わる

18.切り込ヶ渕

  旧紫陽中学校の下流付近の川渕が、文明年間の古戦場と伝わる

19.栫城跡・一ツ木城 

  泊野川を挟んだ対岸は一ツ木といい、早くから水田の開発が進み、鎌倉時代に御家人の大井氏が下向し治めていた
  地という。城跡にはお供養どんと切開どん(開山大僧都快盛元禄16年7月8日)を祀る。供養塔は文明の合戦の戦死
  者を弔ったものとと伝わる。一ツ木城はその支城である 

20.井手山(いでやま)と大井手(ういで)

  泊野との境付近の泊野川に大井手(ういで)がある。井手の上の山(約40ha)を井出山いい、この山の巨木で井堰
  を作っていた

21.浅井野溝   

  井手尻で泊野川から取水する。長さ30町(約3.2km)と「鹿児島県地誌」にある(文責、上間幸治     


〇「宗功寺墓地」生涯学習講座(2019/09/05)

さつま町の有名な観光スポット「宗功寺墓地」。薩摩藩の家老職を務めた宮之城島津家領主の魂と歴史、事跡が眠っています。往時は、威容を誇る名刹の寺であったと言います。足を踏み入れると、厳かで苔むす巨大な祠堂型墓石群に圧倒され、歴史の重みを感じます。今回は、歴史教室のメンバーが、さつまガイドの案内で訪ねました

 

宗功寺は慶長8年(1603)頃、宮之城島津家の2代忠長(ただおき)が京都の臨済宗妙心寺の末寺として創建しました。寺は明治初期の廃仏毀釈により廃寺となり墓地だけが現存しています。

ここには、忠長から15代久治までの宮之城島津家の当主と家族の墓、殉死した家臣たちの墓石があります。15代久治の墓は、鹿児島市吉野町にあったものを17代忠丸が平成3年に移したものです。忠長夫妻の墓は宝篋(ほうきょう)印塔で板葺きの屋根があったようです。3代久元以降は祠堂型と呼ばれるもので屋根のある祠の中に位牌が安置されています


入口左に牙と耳がある大きな亀の上に祖先世功碑が建っています。この亀には「贔屓」と言う名前があるのです。5代久胤が、父・久通までの島津氏の歴史と功績を述べた碑を延宝6年(1678)に建てたものです。碑文は徳川幕府の学者、林春斉(林羅山の息子)に依頼したもので、難しい漢文のため全部読めれば台座の亀が動くと伝えられています

 

内容は、沖田綴りの戦い、豊臣秀吉の九州侵攻、史上名高い泗川の戦い、関ヶ原の戦い、及びその戦後処理、最後には長野金山の発見など興味ある史実が述べられています。関ヶ原の戦いで、石田方にやむを得ず付かざるを得なかったとの弁明は、領土を守るための必死さが伝わってきます。また、久元が京都で近衛邸に匿われて翌年帰国できたのは、島津家と近衛家が長い間親密な関係にあったからでしょう


墓地にはたくさんの石灯籠が寄進されています。これは殉死が禁止された以降のことで、4代久通からです。中に小松家26代当主・小松清行夫妻寄進のものがあります。島津家の家紋と言えば、丸に十の字ですが、宮之城島津家がこの家紋を許されたのは、宗家から養子に来た9代久亮(ひさあき)からです。それまでは、4代久道に菱十字紋を許されたとあります。久亮の墓の家紋は金箔になっています(文責:四位勝義)

 

管理人も取材で参加しました。ガイドさんの知られざるエピソードを織り交ぜた名トークに皆さん聞き入り、時間の経つのも忘れて藩政時代にタイムスリップした気分になりました。地元のことながら知らないことが多々あります(ふるさと再発見 Good Job!)

 



〇川内川ロマン「八女瀬伝説」

 梅雨真っただ中、川内川を見に行きました。通常より4m位増水しています。虎居の分水路を見ているうち思い浮かぶ 
 ことがありました。今から約560年前(長禄3年:1459)、虎居城下の瀬で起きた八人の女性が溺死した事件です。
 この悲劇が言い伝えられ、この瀬は八女瀬→八丈瀬と呼ばれるようになりました

 このことは、宮之城記や祁答院記に記されています。要約すると、  
 

  長禄3年2月7日、渋谷徳重の息女と7人の供の女中が舟遊びを行って
  いた。この瀬は流れの速い瀬であり、息女は突然川に落ち溺れてしま
  った。これを助けようと供の女中は思い思い川に飛び込んだが、女中
  7人と共に波底に沈み水の泡と消え失した。知らせを受けた城中は大
  騒ぎとなり、遺体を取り上げ、城内の寺に葬った。墳墓は八女の壇に
  あった。その後、虎居村大円寺に息女の観音像が建てられた

 

 本の著者、土持仙巌は今から約300年前の江戸時代に、更に260年前の
 事件を伝承として紹介しています。祁答院記では、四言詩で葬送してい
 ます。以下、我流の解釈です  <右図は、故川添俊行氏の想像図>

 

  花かんざしを投げ捨て  香はさざなみに没す

  八女の魂は消え     悲涙は一川となり

  泡沫はたちまち砕け   雨風は淵によどませる

  現実は幻で認めがたく  世の縁は移ろいやすい

  来世は妙なるところ   菩薩の道に座し

  あまねく迷いを救い   恩恵は延々と流れる

  全身に煌めきを浴び   玉顔は美しさを増し

  古きより今に      気高き徳は厳然とす

 

 この物語には、色々なバリエーションが存在します。川内・樋脇地区
 では戸田観音近くで息女の遺体が上がり、ここに観音像を造立した、
 とか、息女の父も入来院であったり渋谷良重であったり、川も久富木
 川であったり樋脇川であったりと地域により伝承が異っています 

                                     現在の八丈瀬(中州がある)

 検証すると矛盾点もあるが、先人が言い伝えてきたことであり財産でも (広域公園の、のびのびゾーンより見る)
 あります。否定するのではなく尊重していきたいことです(2019/7/1)


〇さつまふるさと体験塾(2019/02/23 紫尾神社と周辺)

 ◆ふるさとの歴史・史跡を体験し、昔を知り思いを馳せる◆

特大サイズの憲春大僧都(1590年、約2m)の五輪塔に興味津々(神興寺僧侶墓石群)

2019/02/23 小中学生を対象に「さつまふるさと体験塾」の紫尾地区探索が行われました。歴史好きの生徒が集り、紫尾神社(古くは神興寺)とその周辺の史跡を、子供らしくワイワイと賑やかに楽しく巡りました。案内は、さつまガイドの皆さんが、以下の内容を子供たちに分かりやすく説明しました

 

紫尾神社では、「紫尾山」の名前の由来、参拝方法、長野金山との関係、昔は神様と仏様が一緒に祭られていたことなどを説明してもらい、参拝の後、社殿内部も見学しました。この神社は、ニニギノミコト、ヒコホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトの三神が祭られています。神社に来ると何とはなしに厳かな気持ちになります。

 

境内には、この地方を切り開いた「キリアケドン」とも呼ばれる空覚の塔や、ある時期この地方を治めていた渋谷行重の供養塔があります。阿弥陀如来や薬師如来を表す梵字も刻まれています。昔の人の宗教心は篤いものが感じられます

 

快善法印入場の地…虎居の神照寺の住職であったが諸国修行の後、神興寺の住職となり寺を立て直しました。快善法印は「入定(お経を唱えながら穴の中で死ぬ)」という方法で一生を終えました

 

神興寺僧侶墓石群…神興寺僧侶の五輪塔や卵塔、板碑など約60基が立っています。最も古いのは応永22(1415)年の芸全僧正のもの。寺を再興した快善大僧都の墓は元禄2(1689)年で最上段にあります。見るからに壮観な墓石群です

町石…36cm□×1mの石柱で、種子田村から神興寺まで一町(約100m)毎に立てた道しるべです

 

管理人も参加させてもらいましたが、非常に良い企画だと感じました。私たち大人も長年住んでいながら知らないことが多くあります。子供時代に故郷の歴史や史跡など、自分の足を使って、見て、触って、感じることで昔を知り、想像し、思いを馳せることは無意識のうちにも故郷への愛着を育て記憶残ると思うからです。「こんな所にこんなものが…」という発見や物語を知ることは大切だと思います。

 

主催:さつまふるさと体験塾実行委員会、後援:さつま町教育委員会

   スライドショー>> (1分30秒)

 


◎宮之城の中心部(昭和30年前後)~宮之城文化15号より

「宮之城屋地今昔」~桑波田敏光(宮之城文化9号)より抜粋

 

   八幡馬場、屋地馬場

 

 馬場というのは道路のことです。昔々は、主に人はもちろん牛や馬が通っていたわけで、明治大正ごろまでは牛より馬が多かったと思われます。乗馬用・農耕用です。…明治5年には宮之城に馬が2801頭いたとなっています。馬場というのは馬が通る、走ることからそう呼ぶのでしょう。明治生まれの私の父が「俺どんの小学生の頃、若いデカンの衆(シ)が八幡馬場を馬で競争をシチョッタ」と話したことがあります。馬場は、人や牛馬が通るだけでなく、人が集まる時にも使われたようです。昔の道路ですから舗装もされず、馬ン糞あり、雨上がりは水たまりありでした。

 

 屋地の主要道路は屋地馬場と八幡馬場です。古い時代に東海道並みの幅で400米前後の直線道路作ったことに驚きます。その頃の都市計画であったと推測されます。それは、今からおよそ400余年前、1596(慶長元)年、北郷時久が大道寺川(豊川)沿いに市町(いちまち)を作った頃か、或いは江戸時代初期1615(元和元)年の元和偃武(げんなえんぶ:戦いが終わった宣言)で一国一城令が出され、虎居城が廃城となり、領主館が現在の盈進校の地に建てられた頃か、はっきりしません。

 

 兎も角も、佐志方面から山崎に行くとすれば、この道路を通っていたはずです。それからおよそ80年前、昭和に入って元年、国鉄宮之城線が開通しますと、線路は大道寺を壊し、八幡馬場に踏切を作らせ、屋地馬場を南北に分断しました。…以下略…