本ページでは、文化・教育面で貢献のあった方々を『さつま町人物伝』より抜粋・要約して紹介します。一部加筆あり
1.手塚 健二(てつか けんじ) 明治38(1905)年2月9日~昭和61(1986)年3月1日(81歳)
◆戦前~戦後を通じて教師・指導者として学校教育・教育行政に貢献。音楽の町の礎を築く◆(屋地城之口生まれ)
「音楽は地域や学校の活力の源泉!小中7校の校歌を作り、盈進小ブラスバンドを創設」
大正14年、鹿児島師範学校卒業後、柏原小勤務。その後、昭和2年盈進尋常高等小学校に転任し鶴宮中校長に転任するまで23年間勤務した。この間、親子で教えを受けた人もいるようである。後に、山崎小校長、上甑村の教育長を勤めた。任期満了後、宮之城文化協会を立ち上げ初代会長に就任し文科系諸団体の発展に努めた
平川・柊野・紫尾の地区と教師の協力を得て鶴宮中学校を開校する。校区を一つにするため鶴宮中建設音頭を作り、また、彼の情熱と人柄により地区民と共に通学道路と鶴宮橋を奉仕作業で作った。彼には音楽
の才があり、平川小、流水小、柊野小、山崎小、紫陽中、鶴宮中、鶴田中の校歌を作曲した。これは十余年に及ぶ盈
進校ブラスバンド活動の実績によるものであり、音楽は活力の源泉という信念によるものでもあった
彼は、県下で初めて盈進小にブラスバンドを創設した。教え子の一人は、楽器は校長室に保管し、「楽器を磨くこと
は魂を磨くことだ」とし一点の曇りも許さなかった、という。そのように楽器を大切にした
日中戦争の最中、街頭を整然と行進しながらのラッパの響きに人々は驚かされた。集団訓練に必要として教師集団に
より取り組まれたものという。ピアノ経験しかない彼にとって楽器調達から、譜や指使いなど指導は大変な苦労だっ
たという。また、当時の出征兵士を演奏で勇気づけ、「無言の英霊」の迎えもやったという。そのような時代だった
彼の薫陶を受けたOBたちにより、この伝統は受け継がれ県内外で広く活躍する人士が育った。小中高に吹奏楽部が作
られるとともに、現在宮之城吹奏楽団やちくりん生活音楽隊が活躍している。彼がまいた種子が育ち、音楽の町にふ
さわしい花を咲かせている(『宮之城文化10、11号』参照)
2.内藤 朗玄(ないとう ろうげん) 大正7(1918)年1月29日~平成15年(2003)年7月6日(85歳)
◆住職にして郷土史研究、町史の編集、文化財保護等多方面で活躍。郷土史研究・文化行政に貢献◆(山崎生まれ)
「『山崎再撰帳』などの古文書を発見・研究し、西南戦争や藩政時代の様子の一端が明らかになった」
昭和17年、東京帝国大学文学部を卒業。同年、第4代玄徳寺住職となる。同年、応召され西部18部隊に入隊。陸軍歩兵中尉として太平洋戦争に従軍し南方戦線に転戦して昭和22年復員。その後、司法委員、県教育委員や保護司を務める
昭和26年、山崎役場土蔵より古文書を発見。江戸中~後期の地頭仮屋で扱われた山崎郷御仮屋文書や、明治期の戸長役場関係の帳簿類で、県内でも数少ない当時を知る貴重な史料であった。特に『名勝志再撰方志ら遍帳留』は、郷内の様子や寺社の謂れ、また、明治10年の国や県からの布達文書類は政府の動きや西
南戦争の文書も含まれ、貴重さから県の指定文化財の有形文化財に指定された
彼は、長年これらの古文書を研究し『念仏禁制時代における祁答院の講』をまとめ、一向宗禁制時に門徒が「講」で
結びつきを強めていったことを明らかにした。また、昭和30年に発行された「山崎町社会科教育資料」では貴重な史
料を提供すると共に指導者として発行に尽力した
同37年、宮之城文化財保護審議委員会、民生委員など要職を歴任した。その後、町史編纂委員・執筆委員長、宮之城
史談会会長などに就任し『宮之城人物伝(初版)』や『(新)宮之城町史』発行など文化行政に貢献した
ボーイスカウトの育成・指導にも積極的に寄与し日本ボーイスカウト連盟より30年綬章を授与された。また、県保護
観察所長、九州地方更生保護委員長、九州地方保護司連盟会長を歴任し青少年の保護更生にも尽力した
3.鵜狩 淳一(うかり じゅんいち) 大正13(1924)年9月12日~平成2(1990)年6月19日(65歳)
◆郷土の眼科医療と文化振興に貢献。宮之城文化懇談会の設立者◆(虎居生まれ)
「芸術一般も大切ではあるが、もっと大切なことは郷土に伝わる歴史や民俗・芸能の研究であり、その継承に努める
ことだ」
昭和17年長崎医科大学を修了、同24年県立鹿児島県立医専卒業、同31年虎居に眼科医院を開業。また同55年~平成2年まで宮之城町教育委員を、同57年~平成2年まで宮之城町文化協会長を務める。
昭和20年、長崎医科大で原爆の間接的被害により、ガラス片が全身に刺さったが自分で近くにあったピンセットで一本ずつ引き抜き、全部を引き抜いた。この体験は彼の生涯に大きな影響を与えた。大学よりどんな経路で鹿児島本線にでたか分からないが、線路伝いに鹿児島方面へ向かった。約一か月を要して宮之
城に帰り着いたが、道中の食事や睡眠などはよく覚えていないという
彼は後年、美術同好会に所属しメンバーとよく霧島方面へ写生に出かけた。文化面への理解が深まると同時に文化行
政への関心も深まった。当時の文化協会会長は、松永南楽、手塚健二という名だたる名士であり、その後を継ぎ、満
場一致で押されて3代目会長となった。協会の役員は彼のコンタクトレンズの店舗に集まり文化に関する議論を戦わ
した(小辻清行宮文懇会長も当時のメンバーの一人)。彼は人を引き付ける魅力があり、話題も魅力があった
彼は文化について論ずる時、冒頭の言葉をよく口にしていた。このことから、文化協会とは一線を画した「宮之城文
化懇談会」を設立した。通称「宮文懇」といい、その活動は独自の視点と哲学で展開されている。その成果と意義は
誠に大きなものがある。(『宮之城文化11号』参照)