◎ほのぼの絵で見る「郷愁を誘う、あの日」  作画:小向井一成(会員)



5.かまど、水くみ  2020.4.17

どの家の土間にもレンガや粘土作りの”かまど”があって、鍋や釜をのせ、タッモンをくべ煮炊きをしていた。ぼくもタッモンでご飯炊きをしていたが、火の焚き付けが難しかったことを思い出す。杉の枯れ葉、わらを使うと着火しやすかった。今は、スイッチひとつでご飯が炊ける時代。でも母ちゃんが一人早起きして土間で「トントン」と食事を作る包丁の音。かまどで炊いたこげ飯、母ちゃんの割烹着姿が忘れられない。その母ちゃんは今はもういない

今蛇口をひねると当たり前のように水が出てくる生活。水の有難さを意識する機会はなくなったが、僕が子供の頃水道はなく、どの家も水源は井戸か湧き水だった。暮らしに欠かせない大事な水。粗末にすると母ちゃんから「コラー、ナイゴッカー」とガラレタものである。

 我が家も飲み水には湧き水を、風呂には小川の水を浸かっていた。その水汲みはぼくの仕事。遊びに夢中になっていても、夕方には水くみを思い出し家に走った。バケツを担ぎ棒で運ぶのだが、これが重たく肩に食い込んで子供には重労働だった。だから水の大切さは身に沁みていた。

 ぼくは過ごした昭和はどこにもなく、心の中でしか残っていないが、時々この昭和を振り返ると消えてしまった懐かしいものを再発見することがある



4.懐かしい四季のアッ(味)

春、桜の木の下に集落の人が集う。ごちそうは、シメモン(煮しめ)だった。母ちゃんは前日から腕によりをかけ、シメモン作り。作り方は簡単で、しょうゆでヤセとニワトイニッ(鶏肉)を煮込んで、厚揚げを入れて出来上がり。手作り厚揚げも味が染み込んでウンメかった。

 母ちゃんの味、それは慣れ親しんでいる「いつもの料理」の味。気づかないうちは特別に意識することはなかった。時々この母ちゃんの味を思い出す

秋、稲穂が実り、黄金色に輝く棚田。刈り入れの時、農家の人たちの顔はどれも明るかった。あの頃は、すべて手作業。刈り入れも一株一株ずつ刈り取り、イモドシ(共同作業)で一気に片付けていた。大人も子供も一生懸命働かなければ暮らせない時代、子供も貴重な労働力だった。
 稲刈りはきつかったが、ヨク(休憩)時に田んぼの畦でみんなと食べた小麦団子の味。今みたいに美味しいものであった訳でもないが、この味はしっかりと覚えている 

夏、暑い日が続くと、食欲がなくなるのは今も昔も変わりはない。そんな時よく母ちゃんが元気がデッドォ~と食べさせてくれていたのが「蕎麦がき」である。
 お湯さえあればいつでも食べられた「蕎麦がき」が懐かしい。今思うとおいしいものではなかったが、食べ物の豊富でなかった時代、美味しいと感じていたのかも知れない。作り方は、いたって簡単。そば粉に熱湯をそそぎ箸でかきまぜて、しょうゆをかけて食べていた

冬、年の瀬になると、ペッタンペッタンと餅をつく音が家々から聞こえてきた。当日は家族総出。庭にかまどを作り、セイロでもち米を蒸す。ふっくらと炊き上がったもち米の香りが漂う。セイロの底についた米粒がまたウンメかった。
 一番の思い出は、から芋ともち米をついた「ネッタボ」にきな粉をまぶして食べたことである。最近「ネッタボ」を見かけなくなったが、年の瀬を迎える季節になると、あのネッタボの味が懐かしく、あの頃の暮らしを思い出す



3.ぼくらの四季

春、5月に入ると田起こしなど田植えの準備が始まる。田植え機などない時代、田植えは全て手作業だった。

 泊野の里では、ワイワイと共同作業で一軒ずつ終わらせていた。学校は田植え休みといって一週間休みだった。全員一列になり、三角形をした竹製の枠を転がしては植えて行く。

 大人に負けないとけんめいに植えたが体をくの字に曲げての作業は辛かった。でも大人の話を聞きながらの田植えは楽しかった。

 

秋、心地よい秋の風が吹く頃になると、紫尾の里泊野は黄金色に輝く。村人の顔も明るく活気づく。いよいよ刈り入れ、稲刈りは手作業でギザギザのついた「ノコガマ」で刈り取っていた。

 「イモドシ」という風習があって、借りた労働力は労働で返す習わし。心は今より豊かな時代だった。

 刈り取った稲は竿に掛けて、天日干しを二週間程し、脱穀するために家に運んだ。牛を使って運んだり、背負って運んだりしていた。ぼくも学校から帰ると、稲運びの手伝いをよくしていた。

夏、まぶしい太陽と楽しい夏休み。ぼくたちは、毎日紫尾山脈の麓に流れる「きらら川」に泳ぎに行った。

 まだ、プール、水着などない時代、低学年は裸ん坊、高学年になると「赤ベコ」で泳いでいた。女の子は「シミーズ」が大半だった。

 口びるが紫色になるまで夢中になって川で遊んだ。そして冷えた体を大きな石に腹ばいになって温めていた。川から上がる頃になると、アイスキャンデー屋さんがチリンチリンと鐘を鳴らして待っていた。あの味がなつかしい。

 

冬、目が覚めると、家を囲むほどの雪が積もっていた。紫尾の里泊野は、どこが道か川かわからないくらい真っ白になっていた。里山の景色が華やいで見え、ぼくは歓声を上げて外へ飛び出した。

 雪ダルマを作り、炭で目鼻をつけて終わる頃になると汗びっしょりになっていた。そして、雪合戦が始まる。寒さも忘れ切れ目なく降ってくる雪にも負けず、夢中になって遊んだ。

 あんなに積もった雪、今は夢のような話である。



2.昔の暮らし

ユルイ(いろり)

昔はほとんどの家にユルイがあった。台所がある土間近くに設けられ、上り口に座ったままあたることができた。

 ジデカッをつるし、鍋で煮炊きしたりケネジュウで暖をとって語らう場だった。燃料はタッモン(薪)で、学校から帰るとタッモン取りが待っていた。ユルイには横座という席があり、父ちゃんの指定席だった。

 そこには父ちゃん以外が誰も座ることができない。威厳のあった父ちゃん。ユルイは一家団欒の場でもあった。あのユルイもいつの間にか消えてしまった。

蚊帳(かや)

夏、涼しさを得るために縁側の障子は開けっ放しで風を入れていた。夏はヌッサと蚊との戦いだった。

 夕方になると蚊が耳の近くまでやってきてブ~ンと離れていく。油断すると手足を刺され赤く膨らんで痒かった。

 そこで登場したのが蚊帳。布団を表の間に敷き蚊帳がつるされていた。四隅の丸い吊り輪を鴨居のヒモにひっかけて結ぶのが僕の役目だった。蚊帳のすそを慎重に持ち上げ入らなければ「こら、蚊がイッテクッド!」と母ちゃんにガラレタ。

 麻の見るからに涼しそうなあの蚊帳はどこにいったのかなあ~。



1.紫尾のおいしい水


縁側に腰を掛けて、ばばんがコゲナ昔ばなしをしてくれた。

 

昔々、おじいさんが紫尾の山に薪を取りに行きました。道に迷い、あっちこっちサレくうち沢できれいな小川を見つけました。見るからにおいしそうで早速ひと口ヒン飲みました。そしたら何と爺さんが若者に…「若コ」ないやった。こん水は若返りするふしぎな水だったのです。

 家に帰るとおばあさんはびっくり仰天。ワケナッタおじいさんが羨ましくなったヨッゴロのおばあさんは、夜明けを待ちきれず紫尾の山へ。水を見つけると、「ワコなっど~」とドッサイヒン飲みました。そしたらズンバイ飲ん過ぎて「赤ちゃん」になってしまった…とサ。

 

そしこん話。ヨッゴロになっとジョジョなコチになっど~、とよく言っていた。