◎さつま町を取り巻く歴史(支配者の変遷)~ダイジェスト版              出典:宮之城町史他


1.平安時代後期

 

 【大前氏】(おおくまうじ、おおさきうじ)

  ・平安時代以前を知る文書はないが、平安末期の国司制衰退の中から台頭した大前氏
         が祁答院地方を支配していた

  ・大前氏の出自は諸説があるが、宮之城町史は後醍醐天皇源氏説の系譜を紹介してい
   る。曾孫の源里用(さとちか)を薩摩国国司で東郷・祁答院の領主としており、数
   代後に大前氏を名乗り代々郡司職であった、としている

  ・東郷大前氏は、東郷斧渕を拠点とし一族中で最も強大であったが、後に渋谷東郷氏     大前道助想像図
   に敗れ入来院の家臣となった                            (虎居城物語より)

  ・祁答院大前氏は、大前道助に始まり、虎居城や時吉城などを築きここを居城として祁答院地方に勢力を振るった

  (祁答院とは、旧宮之城、鶴田、薩摩、祁答院。「院」とは穀物の収納倉の意味があり、郡に相当する地域を指す)

 

2.鎌倉時代~室町時代(南北朝、戦国時代)

 

 【島津氏】

  ・1192年鎌倉幕府が成立し武家政治が始まる。惟宗忠久は島津荘(宮崎)を含む薩摩・
   大隅の下司職となる

  ・これが明治維新まで約700年間の薩隅日、三州支配の始まりになる。

  ・島津荘を支配したことから島津を名乗る。出自は幕府の御家人で近衛家の要職説や源

   頼朝のご落胤説もある(島津国史は頼朝説をとっている)               木牟礼城跡(出水市)

  ・入部後、支配体制を確立した訳ではなく、土着豪族の勢力が強く容易に服従せず戦国   (入部当時の拠点)
   時代を迎える

 【渋谷氏】

  ・幕府執権の北条氏は、戦功恩賞として渋谷光重を千葉氏遺領の川内川流域の地頭に任じ
   宝治2(1248)年、下向する

  ・この下向とは、その地の領有統治のため関東からの領民の移動とも言える大規模なもの
   で、文化の流入でもある

  ・渋谷光重の子、五兄弟が下向し土地の名を姓とした。

    ①実重―東郷氏 ②重保―祁答院氏(柏原) ③重諸―鶴田氏 ④重貞―高城氏
    ⑤定心―入来院氏

  ・渋谷氏は、大前氏と対立しながら勢力を伸ばして大前氏を衰退させ、この地方の雄とな
   っていく

 

五社大明神(東郷)
渋谷庄の五社を勧請

各地に分霊を祀る。

ここはその総社


  <南北朝、戦国時代>

   ・鎌倉幕府が滅亡し室町時代になると、守護の島津氏の内部抗争や豪族を巻き込んだ争い
    の絶えない時代になる

   ・外部からは南北朝の争い、相良氏の介入などがあり敵と味方が目まぐるしく変わる戦い
    が繰り広げられた(正統性より生き残りの合従連衡)

   ・渋谷氏は結束或いは離反しながら勢力争いに巻き込まれていく。この時代の主な戦いを
    記す

    ①山引合戦…鶴田渋谷を除く渋谷軍+肥後相良の南朝勢vs島津氏久+鶴田渋谷の北朝勢
     の戦い。決着つかず(1375年)

    ②鶴田合戦…鶴田渋谷を他の渋谷四族が攻める。これに島津元久(奥州家)、島津伊久
    (総州家)がそれぞれを支援する戦いが鶴田の地で行われた。鶴田渋谷は没落し、鶴田
     は祁答院渋谷の勢力に入る(1401年)

    ③文明の戦い…島津家の内紛や守護と豪族の争いが激しくなる中、渋谷氏は結束し勢力
     を伸ばした。渋谷は島津と数多く戦っているが、ついに渋谷は分裂し東郷・入来院は
     太守島津忠昌方へ、祁答院渋谷は反忠昌の立場となった。一番大規模な戦いは、鉾之  鶴田合戦時の首塚
     尾一帯で島津忠廉8,000騎対(虎居城の)重慶勢800余人が戦った。しかし、勝敗は    (鶴田)
     ついていない(1485年)

  <渋谷氏の滅亡>

   ・島津と対立、協調の中、入来院重聡の娘、雪窓は島津貴久の継室となり、義久
    、義弘、歳久の母となる。異母弟の家久を含め島津四兄弟と呼ばれる

   ・祁答院渋谷は帖佐・姶良へ勢力を伸ばしたが、加治木城、岩剣城の戦いで島津
    貴久に敗れ、虎居城に引く

   ・1566年、勇猛な祁答院渋谷第13代良重は、虎居城で酒に酔ったところを妻に
    刺殺され祁答院渋谷は断絶する

   ・室町幕府滅亡の3年後、1570年東郷・入来院渋谷は島津貴久に降伏し家臣とな
    る  

   ・1580年、虎居城に島津歳久が入り、祁答院12ケ村の領主となる(鶴田、求
    名、佐志、時吉、紫尾、柏原、湯田、船木、中津川、虎居、平川、久富木)       虎居城

                                          (築城は大前氏)

3.安土桃山時代

  <三州統一、九州制覇>

   ・天文19(1550)年に島津貴久が15代当主の地位を確立した頃は,北薩に菱刈氏
    や渋谷氏が、大隅には肝付・伊地知・蒲生氏が、日向には伊東氏が勢力を張り、
    島津氏の勢力範囲は薩摩国の半分程度だっ

   ・貴久は義久や義弘を率いて三州統一に乗り出し、蒲生合戦や菱刈合戦、伊藤氏と
    戦った木崎原の戦いで勝利し、天正2(1574)年、肝付氏を降伏させ、同5年に
    は伊藤氏を日向から追い薩隅日の三州統一を果たした

   ・当時九州は、肥後は相良義陽、肥前は龍造寺隆信、豊後は大友宗麟の勢力であっ
    た。義久は九州制覇に向かう                        相州家の島津忠良の長子貴久
   ・九州最大の戦国大名の大友氏に耳川の合戦で勝利し、相良氏、龍造寺を撃破し  は養子となり島津15代当主と
    て大友氏の本拠地に迫った                         なる。島津四兄弟と忠長(後

   ・島津忠良は「島津中興の祖」と呼ばれる                   の宮之城島津2代)と従兄弟

 

  <秀吉の九州平定>

   ・九州制覇を目前にし、大友の援軍要請や島津の九州支配を良しとしない秀吉は20万とも言わ
    れる大軍を九州に派遣

   ・秀吉の大軍は東西に別れて南下し島津軍を圧倒していく。川内平佐城の戦いを最後に義久は
    敗北を悟り、泰平寺で和睦する。ここに島津の九州制覇の夢は断たれる

   ・秀吉は川内川伝に山崎に入り、大口に抜けようとするが、虎居城の歳久は秀吉の先遣隊と交
    戦したり険しい山道を案内して矢で射たりした。また、義弘は出向いて謁見しているが歳久
    は謁見しないなど反抗的な態度をとる

   ・島津は敗北したが、最終的に薩摩・大隅・日向の地は安堵された

 

  <朝鮮出兵と島津歳久の最後>

   ・朝鮮出兵は当時の宮之城と直接的な関係はないが、その後、宮之城領主となる島津忠長につ
            いて記す

   ・忠長は義久の副将格として仕え、日向の伊藤氏との戦い、竜造寺との戦いなどに参戦する

   ・秀吉に降伏後は、人質として京に住む

   ・朝鮮出兵の最中、梅北一揆が発生し、その中に歳久の家臣がいたことから秀吉の怒りを買い
    義久に歳久の誅殺を命じる

   ・義久に呼び出された歳久は、帰途、竜ヶ水で追討軍と交戦になり自害。家臣も殉死する悲劇
    的な最期を迎える

   ・歳久の首が京の一条戻橋に晒された時、忠長は家臣と共に取り戻しに行き浄福寺に葬った

   ・忠長は、慶長の役(泗川の戦い)で、寡兵で明軍を撃破し義弘を助ける活躍をみせている


 

  <北郷(ほんごう)氏の祁答院移封>

   ・1582年、太閤検地が行われる。薩隅日も1594年に実施され、それを基に知行地の所替えが行われる

   ・日向の都城領主、北郷時久は追われるように所領の少ない祁答院に移封される。(時久は、島津4代忠宗の子、資
    忠が北郷家を起こし、その10代目に当たり都城を所領とする島津の分家。後に宮之城島津と並ぶ一所持家)

   ・時久は各郷の商人を集め、大道寺川沿いに宮之城商店街の前身である「市町」を作り、天長寺や龍峰寺を建立

   ・時久は宮之城の礎を築くもわずか3年で死去。都城庄内で伊集院氏の乱が起き、北郷氏は都城に復帰する

   ・時久が都城に因んで「宮之城」と名付けたとされていたが、それ以前の歳久の時代に「宮之城」が使われていた
    文書が見つかっている

 

4.江戸時代 

 

 江戸時代になると、島津氏の薩隅日三州の支配が確立した。島津氏は、藩士を各郷に住まわ
 せ113の外城(郷)体制をとった。その体制の根幹は郷士制度と門割り制度である。さつま
 町には宮之城郷、佐志郷(以上私領)、山崎郷、鶴田郷(以上直轄地)があった

 

  <宮之城郷◆宮之城島津◆>

   ・東郷領主島津忠長は、慶長5(1600)年、北郷氏の後を受けて、虎居城に入る

   ・関ヶ原の戦いで西軍に加担して敗れた島津氏は、忠長などの領地存続交渉により家   忠長の墓(宗功寺)
    康と和議が成って佐土原の没収のみに止まった(家久の代に再び領する)。そして義弘は救命される  

   ・宮之城島津家は初代を尚久とし、15代久治の明治まで宮之城を治める

   ・宮之城島津家は世襲領主が治める私領家で、藩の家老や藩を取り仕切る重要な職を代々努めてきた

   ・1615年の一国一城令により、虎居城は廃止され政務は現盈進小の領主仮屋で行われた

   ・3代久元より、領主は鹿児島城下に住み、上屋敷、下屋敷があった。宮之城家は御四家に次ぐ一所持家でもある

   ・宮之城郷は、屋地、虎居、平川、柊野、船木、時吉、湯田、求名の8村。中津川の北方・南方村は大村郷に、長野
    村は曾木郷に属していた(この時代、旧薩摩町は分割されていたことになる)

   ・歴代領主は、尚久―忠長―久元―久通―久竹―久洪=久方―久倫=久亮―久濃=久郷―久―久中―久宝=久治

   ・2代忠長は大徳山宗功寺を建てた。後に祠堂型の30数基の墓は九州随一ともいわれる
   ・4代久通は殖産(金山採掘、新田開発、植林、紙すき)を手がけ藩の財政再建に貢献した。久治は明治維新より
    10年早く盈進館、巌翼館を建てて子弟教育を行った。また、薩英戦争の講和修交使として交渉に当たった

  

  <佐志郷◆佐志島津◆>

   ・佐志島津家を説明するには実質的初代の「お下様(千鶴)」を語る必要がある

   ・お下(した)は17代義弘の末子で18代家久の妹にあたり、14歳で伊集院忠真に嫁ぐ

   ・忠真の父、伊集院忠棟は義久の重臣で太閤検地後、都城を拝領した。このため、北郷
    時久は所領が約半分(3万7千石)の祁答院に左遷された

   ・家久は、伊集院忠棟を謀反の疑いで誅殺する。子の忠真は島津への報復戦を挑み、これ
    が庄内の乱となる。最終的に降伏するが、後に忠真も討たれて伊集院家は滅亡

   ・10年後、お下は29歳で娘千鶴とともに豊臣と対峙する徳川の人質として江戸へ上る

   ・1619年、人質を解かれ38歳の時、宮之城島津3代久元に再嫁し久近をもうける

    娘の千鶴(同名)を桑名藩の松平に嫁がせるなど不遇の身の上であり、家久は3千石
    (佐志領)を与える(女性を領主にできないので化粧料として与えた)        お下様の墓(興全寺)

   ・系図上の佐志家は初代はお下の兄、忠清、2代久近で、3代久峯(19代光久の子)が、お下の佐志領を継ぐ

    4代久寛の時、島津三男家に準ずる家格となり、佐志郷を拝領し名実共に佐志郷が成立する

   ・宮之城島津と同じ一所持の家柄で、采地(領有地)は田原村、広瀬村、神子村、水引の川底の4村

   ・以後、明治維新まで佐志郷は私領として存続する      (久富→久厚は兄弟相続)

   ・歴代領主は、忠清=久近=久峯=久寛―久幸―久金―久泰―久品―久富/久厚―久容―庄次郎―久雄―秀雄

 

  <山崎郷>

   ・山崎村、久富木村、二渡村、白男川村、泊野村の5村で、島津氏の直轄地で地頭所

   ・祁答院渋谷が滅亡した後、島津氏の直轄になったようである

   ・私領の宮之城、入来、藺牟田と接し交通の要衝であったため藩支配の都合で直轄となっ
    たとみられる

   ・藩が任命した地頭が治めていたが、後に地頭は鹿児島城下に住むようになり、任期中に
    1~2回しか山崎にやってこなかった。いわゆる遥任

   ・実際の政務などは、曖(あつかい)、組頭、横目の所三役を中心に行われた       山崎郷お仮屋跡

   ・所三役が政務を執るところを「地頭仮屋」といい、その周辺を府元(麓)といい、上級武士が住んだ

    周りの在には目付や微禄の郷士や百姓が、麓に続く野町には商人が住んだ

   ・『名勝志再撰方志ら遍帳留』などの古文書が残され、当時を知る貴重な資料となっている

 

<鶴田郷> 

   ・慶長5(1600)年、北郷氏が都城へ復帰し、東郷領主島津忠長が宮之城地頭に補された
    時、鶴田は島津家久の直轄地になったようである(詳細は不明)

   ・鶴田村、神子村、柏原村、紫尾村の4村からなる鶴田郷は藩が任命する地頭が支配した

   ・地頭は遥任で、任期中1回巡視する「掛持ち地頭」であり、実際の政治は地頭が任命す
    る「所役」が行った

   ・郷の政務を執る最高機関の曖(あつかい)には、郷士の高禄の家筋がなった。 

    無報酬(名誉職)であった                             

   ・地頭仮屋は麓(旧役場)に置き、野町は南東に置かれたが、洪水流失により東善寺の    
    前川近くに移転した