◎機関誌『宮之城文化』


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15号のパンフレット


最新号(『宮之城文化』第15号)の紹介

「特集1:私の大事なもの」の一文を掲載します。

 「おいどんの、貧乏人のブラスバンド部員とブラスバンド部はこうして全国大会に行った」

現王園五郎 

 私は小学校3年生の時から中学生が演奏しているところを見て、自分も絶対ブラスバンドに入り演奏したい、というよりも「楽器に触れてみたい」という気持ちが強い子どもだった。

 

小学校卒業を待てずに1カ月前、バンドに入っていた隣の家の先輩に頼み、入部させてもらえるよう中学の音楽の井上(さとる)先生にお願いしたところ、翌日先輩から入部してもよいという返事をもらった。これほど嬉しいことはなかった。

 

中学校に入り、先生に楽器は何がいいかと尋ねられ「トランペット」と言ったけれど、コルネットしかなく、1年後にやっと念願のトランペットをもらえた。楽器は全部戦前に、小学校で兵隊さんを送る時に使われたもの。古い楽器を手直ししながら練習に励んだ。クラリネットのリードが割れてはハサミで切り、紙やすりを買えないのでトクサを乾燥させてそれで削り、トロンボーンのスライドが曲がったのは鉄筋をたたき込んで伸ばし、ラッパのピストンピンが取れたのはブリキ屋さんへ持って行きハンダ付けしてもらっていた。

 

今テレビで吹奏楽の番組をたまに見るけれど、今も昔も練習風景は変わらない。九州代表として昭和31(1959)年に大阪大会2位、32年東京大会5位、33年名古屋大会は6位だった。

名古屋大会での曲は「軽騎兵」で、私が最初に出したのはトランペットのオクターブのソの音。練習でも失敗したことのない音だった。審査委員の先生が発表の時に「遠方から来てハンデもあったろうと思います」と言われた時に、自分のことだと思った。北海道からも来ていたけれど、失敗したのは自分しかいなかった。先生にも部員にも申し訳なく、つらかった。言い訳になるが、東京までは30時間汽車で揺られて行った。着いた翌日が大会で練習するところもなし、ぶっつけ本番だった。

 

補欠の部員も10数名おり、全員で行こうということで旅費が毎年足らず、夏休みになると各学校で演奏をして回った。田舎の神社の境内、公民館、夜になると裸電球の下で、虫が飛ぶのを払いながら。また漁船で島に渡り、キャンプ場や小中学校へ、学校が始まっても日曜日には、各学校で1カ所2時間ぐらい、多いときは3校回った。少しの寄付をもらっていたと思う。何時間も演奏すると唇の感覚がなくなり、大変だった。

 

それ以外にも農家の畑を借り芋を植えて収穫したら焼酎工場に売り、モウソウ竹を何十本も切って青海苔の養殖用に売り、井上先生は鳥小屋を作ってカナリヤ、セキセイインコ、ブンチョウ、十姉妹を飼育してヒナがかえったらそれを小鳥屋へ売り、池を掘ってシラスウナギの養殖まで取り組んだ。餌は魚屋さんを回って魚のガラをもらい、それをミンチにして与えていた。お箸ぐらいの大きさになったら、業者の人が引き取りに来ていた。

 

学校の授業がある時は、始まる前に1時間、昼1時間、放課後は遅くまで練習した。農家の人は田植えや稲刈り時期に2、3日練習を休み、他の人はパート練習をしていた。芋がとれる時期は先生が蒸かし、皆で漬物2、3切れずつと芋を片手に食べながら帰った。遠い人は7~8㌔歩いて行き帰りし、夜の9~10時に帰り着いていたと思う。

 

級生で喧嘩ばかりしているのがいて、先生がバンドに入部をさせると彼は一生懸命練習するようになり、更生した。九州大会や全国大会に行く時に予算が足らず、2~3千円ずつ皆で出すことになり、お金がないのは分かっていたので親にも言えず、バンドを辞めようと思い悩んでいたら、数日後に先生は貧しい家庭の生徒だけ練習が終わった後に残し「お前たちはお金は持ってこなくてもいいから。心配せんでもいいから」と言ってもらった。数名の人もその時は、安心したのではと思う。何とも言えない気持ちとで涙が出た。そういう思いやりのあるすばらしい先生だった。その先生も平成9(1997)年に79歳で亡くなられた。90過ぎになられた奥さんとは今も年賀のやりとりをしている。

 

学校へ行く時、昼の弁当を持って行けない時もあって、昼食をとらずに練習、帰りには食切れを起こし冷や汗と力が出ないのでフラフラしながら、石垣をつかみながら、やっと家に帰り着いたこともあった。

演奏会へ行く時など、靴がなく友達にもらった靴をきれいに洗って靴下は親父がはいていたのをはき、カッターシャツは大阪の兄が送ってくれた古着を、袖を何回も折って着ていた。その卵色をしたカッターシャツ1枚しかなく、一人目立った格好で、辛抱して演奏会へ行っていた。

 

けれど、他校での演奏があったある日、今まで辛抱していたのが、その時だけはどうしても行きたくなくなり、行かないでいると部員の友人が3回も迎えに来た。それでも行かなかった。早朝だったので、母ちゃんは日雇いの土方に行く前。「何で行かんのか」と聞かれたけれど、シャツがないとは言えず辛かった。友人に背を向けたまま涙を流していた。他の部員も片親が多く、1日200円の土方仕事に行く人が多かった。皆が役場のオンボロバスの中で待っているにもかかわらず、それでも行きたくなかった。

 

明くる日も練習に行かなかったら、迎えが来た。先生も他の部員も、何も一言も言わなかった。おそらく先生が、来にくくなるからと、皆には何も言わないように言われたのだろうと思った。

演奏会には毎回、役場のオンボロバスで行っていた。バスが故障した時は、トラックの荷台に木枠を作り、幌をかぶせ、そこにめいめい楽器が壊れないように、しっかり抱いていった。地道がほとんどだったので、着いた時には皆疲れていた。

 

ある時は漁船で長島という島に渡り、学校で演奏した。橋の開通式や正月の町内行進など、いろいろ参加した。授業がある日のイベント参加は、勉強せずに済むので、非常に嬉しかった。

昭和33(1958)年だったと思う、天皇陛下が戦後初めて全国の国民を励ますために鹿児島へ来られた時、宮之城中学校ブラスバンド部が県代表として鹿児島駅で君が代を演奏した。その1週間前には実際に機関車を動かし、君が代を演奏し曲が終わるのと機関車が止まるのとを合わせる練習に行った。

 

本番の日にお召し列車が目の前に止まり、天皇陛下と皇后陛下が目前で降りてこられた様子が、今も目に焼き付いている。ホームは偉い人たちばかりであふれ、道路は旗行列だった。こんな経験をさせてもらえたことが、一生の思い出になっている。

 

中学卒業が迫ると、進学組と就職組に分かれ、半数以上が就職だった。音楽の先生には「鹿児島商業高校に行かんか」と言われたけれど、家が貧しく「就職します」と言った時には辛くて涙が出た。この時ほど進学組をうらやましく思ったことはなかった。

兄弟は12人で私は9番目。上3人は私が3歳のころには亡くなっていた。2歳違いの弟は小学1年の時に養子に行った。父親は私が中学1年の時亡くなり、上の兄姉は他府県へ皆就職していたが、それぞれ生活が苦しく、田舎の方まで助ける余裕はなかったと思う。小学生のころから高校は行けないと思っていた。勉強はする気なし、それでもブラスバンドは好きだった。

 

卒業して就職組は皆、集団就職列車で他府県へ、泣きながらバラバラへなっていった。私は大阪へ就職。仕事は朝7時から夜7時まで、夜勤は夜7時から朝7時まで2交代であり、1日165円。残業代も何もなく、時間も金もなし。

ある日楽器店をのぞいたら、ピカピカのトランペットがあった。7千円だった。それがどうしても欲しくて、1年がかりで貯めてかった。これが生まれて初めての高額な買い物だった。音楽を何かしたかったけれど、30歳をすぎてから夢を捨てた。

 

今では田舎へ帰り40年、部屋には安物のトロンボーン、トランペット、コルネット、ポケットトランペット、テナーサキソホンや昔の写真などを飾り、時々昔をしのんでいる。今でも当時と気持ちはひとつも変わらない。かなうものなら中学生に返り、練習をしてみたい。58年たっても当時の仲間と時々連絡し、帰鹿してきたら尋ねてきてくれる。

 

私の今までの人生の中で、つらいことや寂しいこと、悲しいこと、情けないこと、泣きたいこと、死にたいと思ったことがいろいろあったけど、ブラスバンドで練習していた時を思いだし、写真を見て懐かしんでいると、心が落ち着いてきた。今でも数十年前のことが頭から離れたことがない。また、それが楽しい。今でも時々、行進曲をCDで聴くと心が和む。死ぬまで聴き続けたい。今では宮之城も「吹奏楽の町」として、吹奏楽が盛んに行われている。

 

残り少ない人生、この思い出を一生大切に持って行こう。後先になった文章で、分かりにくく読みづらくなってしまった。

親にも手紙ひとつ書いたことのない愚か者でした。(宮之城中学校 昭和34年卒業 宮之城屋地)