◇ ◆ ◇ ふ る さ と 楽 楽 楽 遊 遊 遊 ◇ ◆ ◇
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「故郷楽遊」としてさつま町の文化・歴史面の今昔を探訪するページです。本頁は、主にさつま町郷土誌研究会会長・三浦哲郎氏の「宮之城・さつま町歴史散歩」を基に紹介します
〇湯田を歩(さる)く~その3 2023.1.9(月)
【湯之神社と歌碑と記念碑】
昭和47年災害後、現在の場所に湯之神社ができた.。この神社には珍しい話が伝わっている。上流の菱刈湯之尾温泉にあった神社のご神体が洪水で湯田に流れ着いた。土地の人たちは湯権現として祀っていたが、返還を迫られたので仕方なくお返しした。ところが慶応3(1867)年の洪水で、また、湯田に流れ着いた。湯之尾の人たちも今度は神意を察して返還を求めなかった、という話が伝わっている
昭和47年の大洪水では、家と共に重たい金庫や冷蔵庫なども流されたが、摩訶不思議なことが起きた。ご神体は下流の山林の中に留まっているのを区民が発見し、これで災害復旧の元気を貰い湯之神社として再興した。神社には、湯田出身の歌人岩谷莫哀の歌碑がある
見下ろせば さつまのかたへ ひと筋の
川うねうねと ながれたりけり
この歌碑は、国民宿舎の近くに建っていたが、大洪水後、神社境内に移された。この歌碑と同じ大きさの写真が県立図書館長室に飾ってあるが、謂れは不明である。もう一つは「宮之城温泉復興之碑」である。災害復旧には、前後任の現王園直吉、児玉泰象町長が心血を注いだ。このほかにも復旧事業にはエピソードがあるがここでは割愛する
【金田一春彦歌碑】
あたたき ゆのわくさとや 宮之城
人のなさけも こまやかに こそ
この歌碑は宮之城温泉の入り口にあり、観光客を暖かく迎えようと建立された。川内川自然石の石碑である。しなやかな達筆のかな文字であり、子どもさんにも読める。裏に「九州電力湯田発電所 増強工事竣工記念 昭和61年4月」とある
これは昭和59年、文化センターで町制30周年記念として国語学者・金田一春彦氏が講演され、記念に色紙をくださった中の短歌である。色紙のコピーを配布するなかで、宮之城温泉の入り口に記念碑を建ててもらいたい、という三浦哲郎氏提案で九電のご協力で実現したものである。金田一先生の招聘は、小牧紘一氏が姻戚にあることから実現しお世話になっている
紫尾山へ 眺めこよなき 湯のみやこ
生を送らむ 人に幸あれ (湯田・いぬまき荘に掲示)
【都城に残るさつま町ゆかりの史跡】
都城は宮之城と深い歴史上の繋がりがある。①宮之城から都城に帰る時、北郷時久の孫忠能(長千代丸)は、湯田八幡神社の分霊をいただいて都城に湯田八幡を創建した。明道小学校近くの八幡町は湯田八幡に由来する。中町の唐人町は、湯田唐人町から連れ帰った唐人たちのいた町である ②宮之城愛宕に八幡宮を安置した。今でも言う八幡馬場の由来である ③時久は、宮之城東谷に天長寺を創建した。湯田には初代住職法印宥海塔がある。印宥は亡くなった。都城へ持ち帰りたいとの要望があったが、文化財として残すことになった
④龍峯寺跡(島津時久を葬る。後、都城へ持ち帰る)は、時久が創建し、虎居若草公園から霧島神社へ移す。都城龍峯寺跡墓地は、通称島津墓地と言い時久が眠る
⑤北郷時久は、1596年、市町(いちまち)、つまり商店街の基礎を創った
⑥北郷一族が都城へ帰る時、伊藤・財部・岩切などの家臣は宮之城に残った。また、家臣が宮之城柿を持ち帰り、今も「祁答院柿」が残っている
⑦船木に北郷時久勧請の御年神社がある。祭神は御年神(大明神)
〇湯田を歩(さる)く~その2 2022.12.26(月)
【八幡神社の仁王像と龍吐像】
八幡神社には石像が多い。鳥居の下に阿吽の像がある。二体とも小ぶりで両腕がなく首も継いだ形跡があり廃仏毀釈で壊されたのだろう。この仁王像=金剛力士は、「沿革史」に「寛文中(1661~72)優れたる古作、当社の仁王像著しく落剝におよび、土中に埋め替わりに石の仁王像を建立す。これ現在の仁王像なり」とある
また、「宮之城記」に「久洪主(1661~1701)に奏し、新たに石仁王に建立したまう」とある。およそ320年前の彫刻(建立)であることが分かる。次に龍吐像であるが、龍が獲物を睨み、体を高く丸め、まさに飛びかからんとする様に見える。龍神が宿り、農作物が干害に逢う事なく豊作になるよう適量の雨を降らせることを願ってのことであろう
【7ヤンブシ伝承の摩崖板碑】
湯田の摩崖板碑は、永野下丁場の大摩崖連碑と並ぶさつま町の貴重な文化財である。下湯田・新とも池北雑木林の中にある。「7人の山伏」の関係から「7(人)ヤンブシ」という梵字の7連碑である。仏教的考えを込めて、梵字で南無阿弥陀仏の各号の墨跡銘文があるというが詳しくは解らない(ご存じの方は教授願いたい)
1357年北朝の延文2年の年号があるので古い歴史のある貴重品である。この頃湯田城には、祁答院郡司大前道嗣の子孫が居城していた。湯田城では、度々湯田城や高城と兵火を交えた。応永、文明の頃は、道重(重道)道全が居城していた。争乱で逝った人々への祈りのため、冨光氏の祖・道嗣は供養塔を、道前は摩崖板碑を寄進したと思われる。鶴田合戦(1401)のように、また、「鎌倉殿の13人」でも同様に近親者同志の争いがあるが、死者を悼む心から供養塔が多い
【温泉の発見】
湯田の名は温泉に起因する。温泉は、「布教の途中の虎居海老川大円寺の僧が、傷ついた小鳥が湧き水に足をつけて癒しているのを見て温泉を発見したという」と「珍しい地名由来」に書かれている。町史には、文政年間(1818~30)発見とあるので約200年前である。因みに紫尾温泉は、貞享年間(1684~87)、新興寺の快善法印が初めて使用したが、一般の人々が入浴できたのは湯田温泉で一般化した1800年代であると思われる
【昭和47年の大洪水で120戸流れ、26億円かけて土地造成】
冒頭に示した通り、大洪水に見舞われた。この災害は未曾有の出来事と言えるもので民家、小さい商店、大きなホテル、3ケ月前に新築した家も根こそぎアッという間に流された。「国民宿舎さつま荘」は職員10余人と客28人が屋上に避難し、自衛隊のヘリコプターで全員救助された。「敬老園」入居者76名は、職員と消防団員たちが胸まで漬かりながら全員救助した
ホテル、旅館、商店、一般民家へは、職員たちが一軒一軒呼びかけて避難し全員無事であった。中には柱にしがみついて避難を拒む人もいたが救助隊員の力で避難させられた。町消防副団長の西之園繁さんは、「家の中に孤立している人を危機一髪救助した。敬老園では自ら裸になり、激流の中を首まで漬かり、団員と共に76人全員を救出した。そして団員の鏡だと称賛された」。災害後、町消防団長となった
町に開発公社が新設され、公社で復旧事業をおこなった。三役、関係課長・職員が兼務した。堤防を後退させ、川幅を広くし最高水位より高く盛土された。公社10億3千万円を含む25億8千万円かかったという。平成の大洪水でも安全であった。記念碑が湯之神社にある
〇湯田を歩(さる)く~その1 2022.12.19(月)
ここの宮之城温泉街は、未曾有の川内川大洪水、いわゆる「鶴田ダム放流」により120戸が流失した。平成18(2006)年には宮之城屋地虎居地区が大洪水に見舞われているが、それに先立つ昭和47(1972)年の洪水で今から50年前のことである
大前氏の時代に真蓮寺清浄院の若宮八幡宮ができた。次の渋谷氏、北郷氏の時代には「唐人町」もあった古い歴史のある町である
【湯田八幡神社】
湯田八幡神社は、昔、若宮八幡宮であった。明治以降は神仏習合で、お寺の中にも神を祭っていたり神社のご神体が仏像であったりしていた。明治2(1869)年、神仏分離令により廃仏毀釈が起こり、今の神社と隣の元流水小学校(現植囿産業)、川内川までの真蓮寺清浄院が廃止され、寺宝などが焼失した。そして若宮八幡宮が八幡神社となった(「宮之城郷土誌」、八幡神社由緒沿革史)
祭神は、玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)、応神天皇、仁徳天皇、合祀・神功皇后。昭和57(1982)年、創立800年祭が奉納された。神社内には、仁王像、龍吐像、戦没者慰霊碑、軍旗奉還之地の碑などがある。また、関東鶴ケ丘八幡宮(現神奈川県相模原市)からの分霊を、当時この地方で勢力の強かった大前道秀は喜んで迎え、祁答院最高の社とし若宮八幡宮を建てた。後藤氏など神社へ物を供え奉る人たち、宝物、神輿、浜下り、アックイなど物語がある
宮之城記には次の記載がある。「本来:前田、社冠職司役:後藤・山本・大平・山口、大宮司:山本、殿守:大平、修理所:山口、御供所:大平。祭日:9月25日、神輿浜下り(アックイ、御旗2旈(りゅう)、宝剣2振、水火神2面)神楽」
【軍旗奉還之地の碑と戦没者慰霊碑】
さつま町での昭和20(1945)年の終戦直前は、米軍のB29爆撃機が上空1万mを、昨日は10機、今日は50機と北九州方面に飛んで行った。盈進校と県立養蚕学校には陸軍の部隊が駐屯していたが、7月末には志布志方面へ転戦し軍はいなくなった。7月27・28日には、グラマン機が屋地虎居の町や学校などを機銃掃射したり、小型爆弾を投下したりした。
児童は夏休み中で、部隊もいなくて盈進高等科2年生一人が爆弾で犠牲になったが被害は少なかった(小規模ながら現在のウクライナのような戦火に晒されている)
終戦になり9月1日、湯田の流水国民学校(八幡神社の隣)では、陸軍の軍旗を焼き部隊解散があった。通称、護南部隊といわれた423連隊は知覧方面を守っていたが、終戦になり米軍が進駐してくることになり、知覧でトラブルが起きては大変と宮之城の湯田までやって来た。学校の校庭で部隊解散式と軍旗を奉焼した。軍旗は天皇陛下御下賜の神聖にして部隊の精神的支柱であった
記念碑も出来たが、米軍にわかると都合が悪いと不都合なので記念碑は池に埋めた。昭和40年戦没者慰霊碑建立と共に池から掘り出し、神社の一角に建立された。当時の軍人や人々の思いを知ることができる貴重な証人の記念碑である
〇さつま町の屋地歴史散歩~その3 2022.12.12(月)
【八坂神社と恵比寿神社】
八坂神社は商店街の中心地にある。この地は、東の愛宕山の若宮八幡宮から八幡馬場を通り、城之口まで一直線に通じる最高の場所に位置する。神社の創建は記録が存在し、村野氏によると「八坂神社は享保10(1725)年5月の草創で、慶応年間次渡書綴によれば、慶応3(1867)年、仲町与(くみ)から下町与へ、翌4年下町与から上町与への記録が残っているので3町が交代で祇園祭を司っていることがわかる」となっている
享保10年草創は現在(2022年)より297年前に当たる。3年後には300年祭になるので再確認し、広報して盛り上がる事を期待したい。記録では、「櫛山吉蔵氏宅に、明治22年作成の諸帳簿箱があり、それに享保2年の八坂神社社殿建立歴誌、慶応年間次渡書綴、その他が収納されている」とある。現在、天神公民会と上仲町公民会の4班が輪番で祇園祭(おぎおんさあ)を守っている
祭神はヤマタノオロチを退治した強く智慧者で厄払い神様として天照大神の弟である「須佐之男命(スサノオノミコト)」と妻の櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)である。日高家の御先祖が京都から勧請して祭ったと言われている
祇園祭は八坂神社のお祭りだが、京都では祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)といい、千年以上前から行われている。八坂神社の由緒を見ると、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必滅の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」この冒頭部分が書かれている。つまり、お釈迦様が説法された精舎のことを書いてあるので仏教の祇園だったことが分かる
江戸時代までは神仏混淆で仏様と神様は一緒のところが多かった。明治になって神仏分離令が出て、お寺と神社に分れ八坂神社となったと思われる。二頭のアックイ(悪喰い)も素晴らしく神社のご利益である厄払い、病気や害虫の退散、農作物の豊作と商売繁盛委、氏子の健康を祈願して祭りを盛り上げる
(私の幼少時代は「アックイチャメ」と言っていた。田島氏は、この語源(由来)を次のように推測されている~こちらでは1つのことを「いっちゃ」という。昔の悪喰いの一頭は「目が1つ」であったことから、「イッチャメ」であり、「アックイ」と「イッチャメ」が組み合わされ「アックイイチャメ」⇒「アックイチャメ」と発音するようになったのでは…という説であり、説得力がある)
この悪喰いは現在でも人気者である。獅子のような扮装で青年二人が操り二頭が沿道の観客の、特に幼児を噛む仕草をする。昔はただ怖かったが、今では幼児を抱えた親が進んで噛んでもらっている。恐怖で泣く子もいるが、「噛まれると健康に育つ!」という言い伝えがあるためである。怒貎は、湯田の八幡神社への宝物として鎌倉時代に納められていることから、悪喰い(怒貎)そのものは湯田の八幡神社が元祖であるが、子供の健康・成長を願うことから祇園様祭りで獅子が走り回り、幼児を噛んで回るように変わっていったのではないだろうか?
恵比寿神社は七福神の恵比寿様である。福の神で、商売の神様として祭ってある。「ブブタンゴ行事」で神輿を担いで町を練り歩き商売繁盛を祈る。恵比須顔といい、笑顔を与えてくれる(小辻会長が記憶している創建の由来は一風変わっている~昭和3年、昭和天皇の即位の儀があった<大正天皇の喪が明けた年に実施された>。明るく新時代を迎える意図があったのだろうか、奉祝の一環で小さな神社を建てても良いとの通達がなされた。これにより有志により恵比寿神社が屋地に建てられた。ご神体は、神輿には「お福さん」のような夫婦二体が座しており珍しい恵比寿様である。以上のことから、景気の良い世、商売繁盛を祈願して建てられたのではないだろうか!)
〇さつま町の屋地歴史散歩~その2 2022.12.5(月)
【野町と屋地商店街】
屋地商店街は文禄4(1595)年の430年程前、都城の北郷時久が祁答院(大まかに現さつま町)の領主となって虎居城に入城した。時久は翌年病により死去したが、この地に「野町」を作った。それが宮之城商店街(=屋地商店街)の起こりと言われている。また、愛宕山の霊地に若宮八幡宮を建て八幡馬場(東西の道路と町並み)が出来た
野町ができて商人町になると、商売の神社や市が自然にできていったのではなかろうか?宮之城初市もその頃に、小なりとも起源があったと思われる(宮之城歴史資料館に問い合わせても、残念ながら初市の起源を示す文献は見当たらない)
村野氏の研究によると、「屋地の野町は文禄4年の取り立てであり、最初本町といい12~13戸であったものが、増加してやがて本町から上町、下町となり、慶応4年(1868)には上町、下町、中町の3町に増え、各々23家部を数えることができる」
【昭和初期の本町商店街】
時代は下って昭和初期になると、屋地商店街は店がぎっしり詰まってきた。田島氏は、その一軒一軒を詳しく紹介しているが、ここでは特徴的なことについて紹介したい
店舗は住居を兼ねた間口六間半(約12m)の当時としては大きい店であり、造りの特徴は間口の上に戸袋がある。戸板3枚を押し上げて収納する仕組みで、閉店後にはくぐり戸を使った。戦後、昔のままの古い構造の家は私家(田島)を含めて数件だけとなった
西側の町家の敷地は細長く、奥行き20間(36m)近くあって裏は菜園や倉庫などがあった。手塚氏の奥には繭を収納する二階建ての土蔵があって、火の番の源さんが娘と孫3人で住んでいた。昭和7年、私の七草祝いに朝一番に七草粥を持ってきてくれた。源さんは冬になると提灯を腰にさして、カチカチと拍子木をたたいて夜回りする。寒空に冴えて響くのがまだ耳に残っている。源さんの夜回りの賃金は八坂神社氏子の会計から出ていることを、後年会計簿を見てわかった
隣は田中書店、天井が高く店の内部は白く塗ってあってしゃれた造りであった。店のおばさんは髪を二〇三高地風髪(頭上に高く大きく張り出した髪型)に結っていて本の立ち読みをしているとハタキで追い出された。その隣は長崎屋菓子店でおばさんが三味線を教えていた。「おぎおんさあ」が近づくと一層賑やかになった。次の次は第百四十七銀行。レンガ造りで近代的で立派な建物だった。これは今の鹿児島銀行である
中ほどに神園自動車(乗合バス)、若松呉服店、ビンツケ屋、池田洋服店、有村豆腐店、角屋旅館、八坂神社と続く(ビンツケは今の力士の髪に使う鬢付け油)。戦時中、行政の都合で下町を下町と中央の二部落会に分けたが、誰も中央とは呼ばず「本町」と呼んでいたので、いつのまにか正式に「本町」となった
〇さつま町の屋地歴史散歩~その1 202211.28(月)
【新年早々のイベント】
令和4年2月7日開催予定の初市は、新型コロナの爆発的感染拡大により初市始まって以来、初の中止となった。商工会は町の活性化のため、何とか3月に開催したいと検討し「さつまの春の市」として“復活“させることになった。「人間万事塞翁が馬」のように凶事を吉兆・好事に変えることになった
内容は、①スタンプラリー:3/20~26 ②三社参拝ウォーキング:3/26 ③ささ福かざり:3/20~26 ④さつまの春の市:3/26 となった。
【天神橋と宮之城橋】
三社参拝のスタートは天神橋となった。林田紙店の前で、片方の欄干のない小さい橋が天神橋である。現在は橋があることも解らず標識もない。「珍しい地名の由来」によると、「下町三文字の上方に天満宮(天神様)が奉納されていたからで、下町(北側で川内川に近い方)を天神町ともいう。天神様は現在、南方(=諏訪)神社に合祀されている」とある
初市でよく見かける宮之城人形にも「天神人形」がある。この人形は、松永氏が東郷で修行をしこの地で広めたもので、素朴さ、縁起良さが特徴である。明治38年宮之城橋(土橋:宮之城橋は虎居橋とも呼ぶ)が架かる時、道路を神社敷地まで拡げたので天神様を城之口の神社に移すことになった、という訳である。天神様はもちろん菅原道真のこと。道真は学者で優れた政治家であったが藤原時平の讒言により、大宰府に左遷させられた。その後、京都では疫病が流行ったり落雷があるなど時平が急死したため、鎮魂のため神社(天満宮)を建てたことが各地でも始まったことである
〓注&エピソード〓
・虎居橋は最初明治31年に木造として架けられたが、同37年洪水で流され同38年に拡幅強化して架け替えられた時、道路も拡幅したので同40年、天神様は移ったと思われる。同39年と大正3年に神社の合祀が政府の方針で進められたことが関係しているかも知れない
・明治37年日露戦争で招集された屋地の医師島田宇兵衛先生は、熊本鎮台に向けて家を出た。川内川は氾濫して、宮之城橋は今にも壊れそうであったが勇気を持って渡った。途端に橋はバリバリと音と共に流れてしまった。島田先生は胸をなでおろして道を急いだ。上向まで来た時、召集令状を忘れたことを思い出し、すぐ家へ引き返し家に向って「招集令状を投げて渡せ!」と叫んだ。家人は早速、令状を石に括り付け先生目がけてエイと投げた。令状は無情にも川の中へ落ちてしまった。先生は鎮台で“かくかくしかじか”と話したら、本人が来たので良い、とお咎めなかったという
〇昔のさつま町の様子~その3 2022.11.21(月)
【宮之城駅】
「国鉄宮之城線は戦前から昭和50年半ばまで農林水産の積み出しが盛んだった。宮之城駅には積込み専用の引込み線があって、特産の葉たばこを貨車に積み込み、立ち会った駅員と日通の作業員は緑色の帽子に地下足袋、安全靴、前掛けの姿であった」
引込み線は3本あった。1本はいつも積込み作業をしていた。もう1本は反対側に木材業者が作り、国鉄に寄付したという引込み線があり、主に木竹材を取り扱っていた。残りの1本は、始発駅のため機関車が止まり、給水したりする建物のある引込み線であった。宮之城線は人の交通拠点であったが、祁答院地方への積出し駅でもあった
【木馬道の紫尾登山】
「紫尾山は国有林で、戦後、木材が伐採され復興に使われた。木材は木馬道を木馬(きんま)で運んだ。昭和38年登山道路が出来るまではこの木馬道を登った」。昔は、伐採した木材を木場まで運ぶのは木馬道しかなかった。枕木を並べ、その上に材木を積んだ木馬が下りていくのである。その後は、ケーブルを張った運搬になった。全山伐採されると、木馬道は格好の登山道道となった。今は紫尾山頂まで舗装されているので車で登ることができる
【盈進国民学校、高等科】
よく両親や近所のおじさん方に「〇〇国民学校とか高等科や尋常小学校」などと聞くことが多かった。これは、今の小学6年までを国民学校といい、高等科は今の中学2年までの課程であり、大多数の方は国民学校止まりであったという。高等科の写真によると、「盈進校木造2階建て校舎の正面、黒板には『紀元2605』『堆肥増産へ』とある(昭和20年(1945)1、2月頃か)。卒業写真を見ると、卒業記念のグライダーを手にしており、腕章や兵隊座りをしており戦時色が出ている。食料不足のせいか、全体的に今の生徒より体格が小さい
昭和20年高等科2年生(今の中学2年生相当)は、小学校1年生入学は同12年であるから日中戦争が始まった年である。盈進校在学中は日中戦争・太平洋戦争中である。その後、新制高校卒業の同24年3月までは食料不足、物不足、インフレ物価高、社会不安が続く正に激動の時代を体験した世代であった
このような話を聞くと、自分らより一回り以上の上の先輩方の過ごした時代を知ることができる
〇昔のさつま町の様子~その2 2022.11.14(月)
【宮之城町教育委員会事務局】
「宮之城町警察署(自治体警察)は、昭和26年に廃止され、建物には宮之城町教育委員会事務局、宮之城商工会事務所、宮之城町議会議事堂の看板がかかった。公民館として整備され、ホールもできて青年団などの拠点になり『公民館結婚』が流行った」
役場から南に向かうと十文字に出る。正面左は現在、焼き肉店であるが、ここは次のように移り変わった。楠木正成を祀る湊川神社⇒宮之城町警察署(自治体警察署)⇒教育委員会事務局・宮之城商工会事務所、宮之城町議会議事堂⇒宮之城町公民館⇒宮之城郵便局⇒焼き肉店(現在)。敗戦により日本は占領され、マッカーサー指令で軍国主義が民主主義に大転換された。その歴史の舞台であることを忘れてはならない
マ指令で県警傘下の宮之城警察署のほかに、自治体警察の宮之城町警察署が新設された。独立後、自治体警察は廃止され、建物には教委事務局、商工会、町議事堂が入った。時を経て、公民館ホールが完成し、公民館は民主化の象徴であった。戦時中の社会教育主事は町長よりも給料が高く、大政翼賛会推進の指導者であったが、公民館活動では、民主化の指導者に大転換した。公民館の地と建物は、出征兵士が米軍と戦う誓いの場であったり、アメリカ軍政の遺物が建設されたり、後に民主化の拠点となったり大きな歴史の流れたところである
【茅葺屋根の下駄工場】
山崎村(現さつま町)泊野の泊野川で水車を利用した下駄工場があった。昭和7、8年頃は不景気だったが、頑丈な白木作りの下駄は好評であった。農家の茅葺屋根建物を借り、機械は水車の力で動かした。下駄は乾燥工程が必要であり積んで天日で乾かしていた。乳幼児がいる家庭的な雰囲気でなごやかな工場であった
虎居轟原に昭和30年代まで天瀬下駄工場があった。杉や桧で下駄を作っていた。これとは別に、先の泊野の工場があったわけであるが、紫尾山麓の杉は400年前、宮之城島津家3、4代の領主島津久元・久通親子が改良した「赤芯」の名木である。良い下駄ができたはずである
【宮之城高校】
現北さつま農協の南側を走る県道の東側が、旧宮之城農蚕学校の農業科、蚕業科、家庭科と家畜の厩舎。西側が普通科と運動場があった。昭和38年に分れ、現在地は宮之城農業高校、屋地に移転し独立した宮之城高校ができた。平成19年に再度統合し、薩摩中央高校となった
〇昔のさつま町の様子~その1 2022.11.7(月)
本富安四郎の『薩摩見聞記』を一時中止し、編者が特に懐かしい昭和30年代の宮之城を中心にした資料が入ったので本題を進めたい。ご了承いただきたい
【宮之城郵便局の「工手」】
宮之城郵便局は、昭和30年代頃までは盈進小学校の裏通りにあった。郵便局の中に電話交換室があって若い女性が働いていた。「戦前の電話交換は、電話局の交換手を呼び出し、相手の電話番号を告げ、人手で接続する回線交換であった。『工手』は電話交換機の保守と故障に対応する重要な高等技術者であった。電話交換の女性は和服、配達の人は通信省の帽子をかぶっていた」
昭和20、30年代は回線が足りず混み合い、急ぐ市外電話は「至急」(料金2倍)に切り替えた」。それでも足りず「特急」(料金3倍)にした。南日本新聞宮之城支局の仁科肇太郎さんは、急ぐ原稿の時は、議会事務局から電話の特急で本社へ口述することが多かった。経済成長に伴って電話加入の申し込みが激増したが、なかなか実現しない時代だった。電話と言えば、箱型にマイクと耳に充てるスピーカーのついたもので、これが一番なつかしい
昭和30年後半より、集落でダイヤル式の電話のある家庭は数件で呼び出してもらっていた。その後「集落電話」が流行り、数世帯で共有する電話であった(どこかが使っていると使えない)。そして現在はスマホの時代…何という技術の進歩だろう
【稲刈りと稲架】
「刈った稲を架け干し竿にかけることを稲架(かさ)と言う。昭和30年前半もまだ機械化されず鎌で一株ずつ刈り、束ねて架け干し竿にかけて乾燥させた」(今でも、敢えてこの方法を見かけるが、自家用の米でコンバインで収穫するより美味であるなどこだわりがあるという)
時吉や中津川、一ツ木などの田んぼは、この地方を治めていた大前氏の時代から渋谷、島津と次々に美田を守り、或いは奪ってきた歴史の舞台である。今は耕地整備が行われ、水路が整備され。更に、肥料・防除や機械による合理化・省力化が進んで安く大量に作れるようになった。田植えや消毒、稲刈り、米価などのすべてが様変わりしてきている。しかし、青い田んぼ、黄金色の景色は壮観であり昔の記憶を回想させる。この景色はオーラを発しており、わが薩摩のさつまは「瑞穂の国」である
【シンガポール陥落。戦果を称える時代】
昭和16年、太平洋戦争が始まると、翌年2月15日にはシンガポールが陥落したので、戦果を称えて出征兵士の家族や婦人会、在郷軍人、小学生が参加して芸能祭や湊川神社(現楠木神社)への参拝があった
盈進校の児童は出征兵士と一緒に湊川神社に参り武運長久を祈った。日中戦争で南京が陥落すると、旗行列があった。児童は何班かに分れ出征兵士の家訪ね、高く掲げてある国旗に向って万歳三唱をやった。連戦連勝は神国日本の誇りと教えられた時代である
近年、森元総理が「日本は神の国」との発言が物議を醸したが、この時代の思いがよぎった方、単純に、どの国でもあるように、「愛国心」と捉えた方など人それぞれなのであろう
〇本富安四郎の『薩摩見聞記』~その2 2022.10.31(月)
以下は、『薩摩見聞記』を読めばわかることであるが、ダイジェスト的に『宮之城文化』へ執筆いただいた桑波田敏光氏の寄稿文より抜粋・加筆して紹介する
【薩摩の盈進小学校への赴任動機】
前述のように、新潟県出身の本富安四郎は明治22年(1889)に宮之城村盈進小学校の教員として着任し、翌23年11月に校長へ昇進する。時に25歳。安四郎が赴任した時は、同4年(1871)の廃藩置県から18年経過し、市町村制が発足している。
また、慶応4年(1868)新政府軍は京都伏見の戊辰戦争の初戦で勝利した後、北陸、東山道(中山道?)、東海道に分かれて東征する。北越戦争は、北陸路を進軍の中核は薩軍であり、庄内・会津攻撃の前に長岡藩と交戦した。恭順派や徹底抗戦派もあるなか激戦の末、最終的に長岡藩は落城敗北する。長岡藩は、新政府軍というより薩摩への敗北感が残ったと思われる。廃藩置県後も鹿児島と言わずに、薩摩の国、薩摩人と藩政時代の呼び方が続けられていたことが一般的のようである(鹿児島でも)
彼は東京英語学校を卒業すると、同校の教授であった宮之城屋地出身の宇都宮平一(後に国会議員となる)の推薦で盈進校に招聘された。この宇都宮平一との信頼関係や教育への熱意、加えて異郷への好奇心が赴任の決意をさせたのであろう(後に、㈱島津興行、尚古集成館の学芸員、小平田氏の講演で、本富が鹿児島の盈進小に来た動機について、彼の著書で「薩摩の若者の教育に惹かれ興味を持った」との記述があると言われた。個人的には、明治政府の重職者など薩摩人が多く、清廉な気質も加え興味を持ったので招聘を受けた―と推測する)
<身体の特徴>
(薩摩人は)体格の良い人が少なくない。太ってはいないが骨太く肉付きがよくて頑丈である。胸が厚く胴は円く体つきは多くの人が左右に張っている。一般に衣服の幅が狭く、丈の短いものを更に引き締めて着ているので痩せて見えるが、裸になって見苦しいほどではない。老人の腰が曲がっている人は極めて少ないのは何故か分らないが、少年時代から歩く時に、腹を前に押し出して歩き、座る時も背筋を伸ばしている。重いものを運ぶときには必ず肩に担ぎ、決して腰をかがめて背負う習慣はない。これも一つの要因ではないだろうか
座って人に対するときに、背を真直ぐにして人を見下ろすようにし、礼をするにも肘を左右に張って体を支え、頭を床につけるような平身低頭はありさまにはしない。大いに彼らを厳かで気高い男らしい威厳を与えている。ゆったりとしており、軽はずみなそそっかしい態度をなくしている
薩摩人の身体は強壮であり、筋骨たくましく激しい労働にも耐えるが、内臓などは意外と弱く健康無病な人は少ない。気質はたいへん荒々しく尚武の気概は非常に盛んであるが、身体衛生については無頓着である。婦人の容貌をみると、明るい瞳、白く綺麗な歯、豊満で艶美、温厚な姿の人が多い… (以下、次回に続く)
〇本富安四郎の『薩摩見聞記』~その1 2022.10.24(月)
【薩摩見聞記】
本富安四郎は、明治22年(1899)25歳で宮之城に赴任し盈進小学校教員・校長を務める。3年後、新潟長岡に帰る。『薩摩見聞記』を逐次項目ごとに雑誌などに発表する。明治31年『薩摩見聞記』を発行する。さつま町で歴史と言えば、「渋谷」「島津」などの治める側の歴史が多かったが、それに比べ『薩摩見聞記』は、民衆の生の姿を赤裸々に表しているところが特色である。今では不適切な表現もあるが、明治の史料の一級品である
著者の本富安四郎は、越後長岡藩士本富寛居の三男として慶應元年(1865)生まれ。同22年25歳で盈進小学校教員となる。生徒数450人、月給30円で2年後には校長となる(長岡藩は戊辰戦争で敗北した経緯もありながら、薩摩の宮之城に来た動機については後述する)
色々な体験、見聞を記録するも3年後の同25年4月28歳で辞職する。生徒に惜しまれながら帰郷する。「薩摩」のことについて書かれているが、大部分は宮之城でのことと考えて良いであろう
【『薩摩見聞記』特徴的な部分】
歴史の項では、「隼人という。性質甚だ敏捷勇猛なり。毎年、京の至り宮門の衛卒車駕の供御に充て、式目には狗吠えをし歌舞を奏せしめ、常日には竹を編み器物を作る」とし、延喜式を引用してある。
人物の項では、「別風をなしたるは薩摩人なり」「眉真っすぐにして…光殊に鋭く」「健康無病の人誠に稀なり。…身体衛生等のことは全く頓着なく」「肩を怒らし、体を揺すりて闊歩する風体実に豪快なり」。訪問の項では、「罷りでもす」と言い、「めいあげもす」と言い「御免なんし」と言う。座敷では「煙草盆とお茶を出す、お茶は最初の一杯は家内より注ぎて出す、二杯目よりは客の自ら飲むに任せ…」
【『薩摩見聞記』の細部】
<教育>
「薩摩の文化は他県に比して後れ、郵便物、新聞雑誌購読人口の割合にして、皆全国最低位」「就学児童の割合は全国の最低位」と言っている。また、薩摩の文化は、西南戦争より僅か16年の成長に過ぎず、「薩摩の維新は明治10年の戦争なりき」と評している。子供に教える際は、普通語を薩摩ことばに直してから教えなければならない、とも言っている。子供たちの親仕込みの鹿児島弁だっただろう。共通語で言っても児童は「キョトン?」で授業の様子が目に浮かぶようである。以上のことからも、薩摩の明治期における「教育・文化の未開さ」が窺える
<柊野小学校での講演:教育への目覚め>
助役と本富の2人が更に田舎の柊野小学校に出向き講演を行った。父兄など参列者は非常に感激し「子供は学校にやらんといかん」という風潮になり、就学者が増え、教員が不足したので増やしたことが学校の沿革史に書いてある。火事で記録がなくなっているが、盈進小学校でも周辺の学校でも同様なことが起き、旧士族以外の裾野が広がり就学者が増えたことは確実であろう
〇故郷出身者の戦争における軍人物語-2 2022.10.17(月)
【続・生還した英霊、轟原順一さんの話】
漂流中の14日目(昭和17年<1942>年6月20日)の黎明、米軍の飛行艇5~6機が来た。
捕獲に来たのであり、昼になると軍艦・水上機母艦「バラード」も来た。全員救出されたが、衰弱のため甲板に立つ気力もない状態であった。捕虜生活の最初は、衰弱のためタオルに石鹸をつけ背中を流そうとするが、石鹸が重くでんぐり返った人もいた。以後は転々とした。ミッドウェー営倉、ハワイ、エンジェル島、ローズバール、リビングストン、オークランド、そしてキャンプ・マッコイ、ここが長期の収容所となり、4年のほとんどは捕虜生活であった
順一さんの実家は、公民会5班の所、11人兄弟で順一さんは末弟。長兄の登之助とは親子の違いがある。順一さんは、昭和21年1月9日終列車で国鉄宮之城駅に降り立った。
しかし、順一さんは捕虜の身で帰りたくない気持ちと、早く帰りたい気持ちで1時間ほど過ぎ、ようやく意を決し虎居橋を渡り暗い里道を帰途についた。午後10時を回っていた。実家では、戦時中は、役場の兵事係だった西清さんが来ていて「今年で4年になるから墓を建てなきゃならん」と相談中であった。そこへ、
「ただいま…」
「誰いよ」
「・・・・・・」
「なんちヨ~」
一同、幽霊が出たかと思って足元を見たりした。それから、大騒ぎとなり、親戚、近所の人たちが寄せ集まり夜中まで話が続いた
翌朝「お前見てこい。寝っちょっかい」と。そして、お墓に行き自分の霊屋(たまや)と白木の墓標を引き抜き風呂焚きで燃やした。3日目に役場に行くと「け死んだ人が帰って来てもろたち、いけんすよん なか」と言われ話題になった
【海軍気象長の吉祥庵要(かなめ)さん】
~キスカ島で濃霧予報を的中させ無血撤退を成功させた人~
大正10年(1921)時吉の農家に生まれる。昭和13年海軍航海学校に入校する。その後「阿武隈」などに乗艦する。太平洋戦争が始まると、山本五十六連合艦隊長指揮のもと、第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」に乗船する。ビスマルク諸島、ラバウルカビエン作戦、インド洋方面作戦と転戦した。同17年ミッドウェー海戦の敗戦後、全海軍から選抜され海軍高等科気象術訓練生1期生となった。同18年卒業と同時に第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」の気象長となった
同18年北太平洋アリューシャン列島アッツ島に進駐した山崎海軍大佐以下1600名は米軍の攻撃を受け玉砕した。残るキスカ島にも陸軍将兵6500人が守備しており、米軍はアッツ島から爆撃を繰り返した。後年の米軍情報によると、艦船50隻35000人の上陸を計画していたという
キスカ島撤退前日より、彼は気象室に籠り天気図を仕上げた。北海、アリューシャン列島の海は荒く、天気も激しく変化し吹雪や濃霧で対流圏が2000m位と教わっていた(鹿児島上空は8000m、赤道付近は18000m位)、更に電波妨害などで苦労があった。彼は、シベリア、北樺太、カムチャッカ半島をつなぐ等圧線を引くのに精魂を傾けた
天気図は、朝夕、司令官や艦長に予報を上申するのがきまりであった。彼は自信を持って報告進言した。幸い予報通り濃霧が発生。旗艦「阿武隈」を先頭に北方艦隊駆逐艦16隻によって陸軍将兵6500人を一人も損傷せず無血撤収に成功した。天皇に報告し、名前を問われ、お褒めの言葉があったという。この功績により「勲七等瑞宝章」が授与された
戦後も先見の明があり、姶良町の県の総合運転免許試験場が開設されるや、真っ先に木造2階建ての「合格屋」の看板を掲げた旅館・合宿所を開設した。これが大ヒットし、人々の免許取得に貢献し、多額納税者にも名を連ねた
〇故郷出身の戦争における軍人物語 2022.10.10(月)
太平洋戦争時、数奇な運命を逞しく生きた人、多くの将兵を救った故郷の軍人2人を紹介したい
【町葬の英霊が生還した物語】(生還した英霊は轟原順一さん)
昭和17年(1942)6月5日ミッドウェー海戦(ハワイ北西部にある米国領Midway<=米国とユーラシア大陸の中間>、ハワイから東京までの距離の約1/3付近)で戦死し、同年11月宮之城町で町葬が行われた。そして、終戦の翌年、昭和21年(1946)1月9日の夜遅くその「英霊」がひょっこりと轟原の実家に帰って来た。その名は「轟原順一」
大正6年(1917)12月25日生まれ、28歳で独身。ミッドウェー海戦は、日本海軍が米国海軍の特に空母をミッドウェーにおびき寄せ、殲滅しそれまで劣勢だった制空権・制海権を奪還しようと総力を挙げて挑んだ戦いであった。日本側の戦略・戦術、秘密情報は米側に筒抜けで、結果は空母4隻、航空機300機、3000人余を失う日本側の大敗で終わった
その時、順一さんは航空母艦「飛龍」の機関兵曹で25歳。飛龍は敵の爆弾を受けて炎上、攻撃にさらされ致命傷を受け自沈した。以下、「英霊」になりながら生きて帰って来た状況などを紹介する。順一さんを生存中に取材した作家・澤地久枝さんの記事などを参考に紹介する
順一さんはどんな経緯で戦死したことになったのか?そのあらましは、ミッドウェー海戦で、先ず、日本の空母三隻(赤城、加賀、蒼龍)が爆撃を受け沈没し全員戦死。次に順一さんが乗っていた飛龍も爆撃で炎上し致命傷を受けた。飛龍は翌6月6日、午前2時15分、総員退艦命令が出て、味方の駆逐艦の魚雷攻撃により自沈。その時、カッター(艦艇に積んである小型のボート)に乗り移ったのは、僅かに順一さんら39名。カッターはそれから漂流を始め、連日、飢餓と水を飲みたい中で意識は薄れ、夜のうちに死んだ人や衰弱死した人で絶命のすさまじさを目のあたりにする
漂流は続き、15日目の昭和17年6月20日35名になっていた。期待した日本の飛行機ではなく、米軍の飛行艇に出会い捕獲され、そこから捕虜生活が始まった。詳しく見ると、機関長の中佐以下17歳の3等機関兵まで39名、内25歳以下34名。5日目の夜、嵐で溜り水が出来、拾い上げていた4斗樽が満水になり全員むさぶって飲み命が長らえた。しかし、ますます飢餓がつのり11日目には最初の死者がでた。12、13、14日目にも1人ずつ死に、遺体は丁重に扱われ水葬にされた。14日目、飛行機が来た。日の丸ではなく星のマークの米軍機であった。低空で頭上をかすめ去って行った… 以下、来週に続く
〇東川氏講演:さつま町の歴史~その3 2022.10.3(月)
【東川さんが好きなさつま町】
東川さんが取り上げてくれた中から列挙する。一つひとつに物語がある、歴史がある。しかし、ここでは紙面がなく概要のみとし、詳細は後日に譲りたい。項目を述べると、
① 宮之城駅跡にあるかぐや姫像(現在は、広域公園に移設)②柏原温泉の貼り紙が面白い③
川舟の形が珍しい④小さくて珍しい田の神様⑤湯之神社の川流れご神体の不思議な実話⑥紫尾山頂の王さんが書いた文学碑⑦紫尾神社と神の湯⑧盈進小学校の名前と給食パン工場跡⑨片倉製糸工場跡➉永野金山⑪長野駅と残っているのが珍しい駅官舎跡⑫大石神社の繭記念碑など…
【NHK大河ドラマに島津歳久を】
2042年(令和24年)は、歳久没後450年である。天正20年(1592)になくなった。大河ドラマに好個(こうこ:ちょうど良い)の人物である。誘致運動をしようと東川さんから提言があった。賛成、賛成!と心の中で叫び、拍手も起きた。40数コマのタイトル案も示され面白かった
【「金吾さあ!」40数コマ】
40数コマのドラマを架空の人物(本当はいたかも知れないが、記録にないだけのことかも知れない)を適宜配しながら「金吾さあ!」としたい、という
1.父駆ける 2.鉄砲伝来(以下、一部番号を省略) ・祖父(日新公)の教え ・フランシスコ=ザビエル 5.いざ!岩剣城(姶良のこの城には、渋谷良重が居城。貴久・義弘・歳久(18歳)らが攻める。歳久初陣 ・北村城での傷 ・蒲生攻略 ・哀しみの廻城 ・松尾城入城 10.決戦・横川城 ・左衛門督(金吾) ・兄義久 ・三山合戦 ・お蓮誕生 15.強敵菱刈氏 ・いにしえの道 ・父よさらば ・家久という男 ・小谷城落城 20.歳久上洛 ・近衛前久 ・いざ、高原城へ ・耳川の戦い ・お花の誕生 25.虎居城入城 ・秀吉の影 ・豊後侵入 ・病の影 29.秀吉の大軍 30.肥後口退却 ・秀長の大軍 ・あヽ忠隣 ・泰平寺 ・矢を放て 35.家久の死 ・悦窓夫人 ・義久宮之城へ ・梅北国兼という男 ・兄は半島へ 40.佐敷の乱 41.秀吉の怒り 42.平松の空と海 番外:一条戻り橋の盗賊
以上が東川さんのドラマ構成。魅力的で歳久の生涯が漏れなく綴られている
【歳久の大河ドラマ化前段の学習活動を】
大河ドラマは誘致運動が各地で行われ、先々まで決まるという。令和2年の「麒麟が来た」、3年「晴天を衝け」、4年「鎌倉殿の13人」は既定路線であった。歳久の兄・義弘ついて「義弘公大河ドラマ誘委員会」が、日置市、湧水町、えびの市、姶良市で既に活動している
歳久のドラマ化をさつま町で取り組むとなれば、その前段的な学習活動が必要であろう。「矢を放て」「悦窓夫人」「歳久宮之城へ」番外「一条戻り橋の盗賊」などを4コマ漫画にすると、更に理解が深まるだろう。独りよがりの見方かも知れないが、歳久の悦窓夫人や兄・義弘が愛した娘・お下さんや優しく強かった薩摩の女性が加わると、物語がより濃くなるのではないか…
〇東川氏講演:さつま町の歴史~その2 2022.9.26(月)
【士族の割合が多かった】
士族戸数と士族比率は次の通り。鶴田郷35.5%、佐志郷32.1%、宮之城郷28.8%、山崎郷15.7%、中津川を含む大村郷33.6%、永野を含む太良郷39.8%である。全国平均約6%、関東平均4.48%、九州平均11.8%に比べ桁違いに高い。このことは封建体制武家政治を盤石なものにしたし、全国的には農民逃散や一揆が起こったが薩摩藩では歴史に残る一揆などは起こらなかった。イヤ、起こすことは出来なかったかも知れない。農民は抑圧や年貢の高さに繋がれていたと思われる。逆にまた、戊辰戦争や明治維新の原動力になったのかも知れない(何が…??、農民抑圧による富は維新の源資になったとの見方はある)
<士族戸数>
屋地村:272戸 永野村:185戸 求名村:170戸 鶴田村:132戸 虎居村:113戸
<士族人数>
鶴田郷:1165人 佐志郷:384人 宮之城郷:2476人 山崎郷:623人
【活躍した牛馬 生活と文化を支えた】
牛馬は農耕と交通、運搬に必要であった。頭数のベスト5は次の通り。牛馬の割合に差のある村は産業構造の関係によるものか?馬の馬力とスピードが重宝がられた村、牛の方が多い村、田んぼ(石数)と関係がありそうだが、これに合ったデータが見当たらない。ご存じの方はご教授願いたい。昭和の初期・中期に馬が活躍するのを見た人もいる。お医者さんが馬で往診されており、牛馬が生活と文化を支えてくれたのであった
<牛馬頭数> 牛の数 馬の数 <舟の数> (艘)
1.求名村 417 714 1.山崎村 32
2.永野村 267 303 2.屋地村 30
3.広瀬村 240 192 3.虎居村 12
虎居村 111 334 神子村 12
4.白男川村 167 271 5.柏原村 6
5.神子村 140 湯田村 6
二渡村 82 288
最後、屋地村 3 泊野村 74
【川舟も生活と文化を運んでこれた】
川舟の保有数も興味のあるところである(上記)。天保年間(1831~45)、虎居西新町にあった祁答院蔵から御続米(おつつけまい)を川内川河口の船間島へ輸送した送り状によると、例えば、船宝吉丸船頭、久志之鉄助 届古米693俵とあるので大きな舟であったことがわかる。1俵は3斗2升詰(57.7kg)。宝吉丸は20反帆の藩所有の米輸送船(御続米は藩士への給与、藩の諸経費に当てるもの。20反は幅37cm×長さ12.5m×20)
ここでは、それよりも小さい川魚採り用の舟や川内まで乗客や荷物を運ぶ舟が主。轟原には川舟の往来を監視し、料金を徴収する役人がいたと伝わる「勘場跡」がある。昭和4年(1929)、鹿児島市の師範学校に入学した宇治野寛先生は、宮之城には鉄道が通っていなかったので川舟に乗り、荷物も積んで川内まで下り列車に乗り換えて鹿児島に行った、と話していた。川舟もまた、生活と文化を運んでくれたのであった。まさに、川のある所、文化ありだ
図は、川内歴史資料館所蔵の「宮之城領主館に上納米納入の図」を模写したもの。しかし、原図は位置関係などデフォルメされている。ここの川原は大口や金山と結ぶ街道であり、浅瀬を渡っていた。人の往来や茶店が並び、相撲(後に川原相撲で受け継がれた)の様子は当時の様子を窺わせる
〇東川隆太郎氏講演関係~その1 2022.9.19(月)
さつま町教育委員会が呼びかけた「地域づくり講座」がR2.11.28に宮之城ひまわり館で行われた。「ふるさと再発見、普段見慣れている景色の中に埋もれている地域資源がある」がテーマであった。以下、私見の調査結果を交えながら記す
【江戸時代領主や地頭が治めていた】
江戸時代のさつま町は、宮之城郷8村、佐志郷2村、鶴田郷4村、山崎郷2村(うち久富木郷は一時大村郷に、二渡村、泊野村、白男川村は東郷郷へ、求名村は宮之城郷へ、長野村<永野村に改名以前>は曾木郷へ、中津川村<北方村と南方村>は大村郷に属していた)
つまり、島津氏が治めていた頃のさつま町は、島津家直轄領として山崎郷・鶴田郷・大村郷・曾木郷や一時東郷郷には仮屋が置かれ、地頭や郷(所)三役によって政治が行われていた。そして、宮之城郷は宮之城島津家私領として、また、佐志郷は佐志島津家私領として仮屋が置かれ、領主や地頭により政治が行われていた。氏は、明治4年編の薩隅日地理纂考や同17年の鹿児島県地誌のデータを基に解説された。これらによる人口は、宮之城郷8608人、山崎郷3965人、鶴田郷3289人、佐志郷1198人となっている
【文化性のある郷土づくり】
令和2年(2020)の人口と比べてどのように感じるだろうか?令和2年と明治17年の人口を単純に比較できないが、ハード面での進化、産業構造の変化、教育福祉の充実、意識の変化などで人の流動があるのは当然だろう。明治17年全国人口3千768万人から令和元年には3.3倍の1億2千616万人になっていることや、屋地と虎居だけ人が増えていることなどは令和以降の町づくりや人口対策に示唆を与えることを感じる
昭和中期から人口減少を食い止めるため、行政はいろいろ手を打ってきた。それでも減り続けている。更に、諸々の対策が考えられる中で文化や観光にもっと光り輝くものが欲しいという声が案外多い。例えば、サロンに集う人たちが健康にプラス文化性のあるものをという声が少しずつ出て来ているように感じる。郷土の良さや歴史を改めて見直す人たちが増えつつある。この動きに注目し協力をしたいと考える
【参考資料】
<明治4年頃の人口>
宮之城郷 8608人 山崎郷 3965人 鶴田郷 3289人 佐志郷 1198人
大村郷(中津川含め) 3331人 太良郷(永野含め) 4900人
<明治17年の村人口と令和2年人口、()内は令和人口)
屋地 2266人(3145) 求名 1924人(1365) 永野 1663人(775)
平川 1301人( 662) 虎居 1316人(2775)…泊野 261人(193)
〇永野・中津川を歩(さる)く~その3 2022.9.12(月)
-後編(大石神社 金吾様踊り)-
金吾様踊りは「金吾様踊り活性化実行委員会」が主催する。主な踊りは次の通り
棒打ち舞、地割り舞、稚児踊り、兵児(へこ)踊り、鷹刺し踊り、六尺棒踊り、虚無僧踊り、三尺棒踊り、俵踊りであり近くの幼稚園児の踊りもある
元鹿大教授下野敏見先生が詳しく調査した記録があり、米盛十一氏の話によると、楽を継承しておれば踊りは思い出しやすい。集落で踊りを習う。若い人も集まり楽しく稽古をし、交流も始まり地域作りになってきている。そして、人材育成にもなっている。踊りが目的ではなく、地域作りが目的である。郷土芸能が盛んな地域はいろいろ活発である。祭りの日は農産物の出店が並び、方々からのお客さんが買ってくれる。中津川の人々は昔から金吾様を大事にし、熱心で素朴で地域全体で取り組んでいる。南日本新聞が取り上げ、一層弾みがついている、と写真を背に語ってくれた
湯田信義氏が県内の歳久に関する神社、墓地、史跡などを調査している。大小180か所の史跡などがあり、その敬愛された背景などを調査している。私見も含め、その背景は、武勇に優れ人間的な魅力がある点であろう。そして、秀吉という時の権力者に反骨的な態度と悲劇の運命を辿るなど心情的に惹かれるものがある。農民が敬愛するものは、記録は極めて少ないが農業政策などにあるとは思えないのである。これは菅原道真の例えにあるように、怨霊信仰があるのではないだろうか?湯田氏も怨霊(ごりょう)信仰の面があると示唆されている。不遇な死を遂げた人は、後世の人々は風神雷神のような厄災や農業面の不作などに見舞われる恐れをいだいている。このため、神と祭り鎮魂する習わしがある。人物への尊崇と同時に神と祭ることにより、風水害や疫病退散、五穀豊穣を願った面が強くあるのではないだろうか
【南方神社】
大石神社と並んで左に南方神社がある。祭神は建南方命(建御名方命?)と八坂刀咩命(妻の八坂刀売命?)で、元諏訪大明神と称していたが明治の初めに現在地に移し、南方神社と改めたという。諏訪大明神は建御名方命である。別の説もある
【嘉元の三重石塔 720年程前か】
大石神社と南方神社の間に三重の石塔がある。嘉元2年(1304)と刻まれている。鎌倉時代、弘安の役(元寇)の供養か?異国調伏祈願のものか、荒神様とも伝わる。鶴田の大願寺にあるものを大村の龍盛寺に移し、その後、明治2年の廃仏毀釈の時、半崎喜蔵氏宅に隠し後にここに移した。梵字は如来や菩薩を表している
【蚕の神様】
大石神社社殿の右側に繭と蚕の蛾をかたどった石碑と蚕の神を祭る石祠がある。昭和7年(1932)の建立。碑文の要旨は次の通り
「薩摩地方は明治初めより裁桑育蚕が興り、宮之城の先駆者が福島の菅野氏を招き、平田氏ら諸氏後援の下、同29年京塚原に桑園を設け、以来、今日蚕繭価格1千万円を超ゆ。これを記念して蚕神を建てる。昭和7年4月5日 宮之城町屋地 中原助市 (大村)村長宮里正治 養蚕技手濱田慎介 略」(昭和5年白米1升18銭、大工賃2円50銭、日雇1円60銭、朝日新聞1月90銭 明治~平成値段史より)
〇永野・中津川を歩(さる)く~その2 2022.9.5(月)
【白猿の踏鞴(たたら)跡 約680年前か?】
-名前の由来-
今でもここの集落は「白猿」と言い、通称「シトザイ」と呼ばれている。その由来は、神の使いである白い猿が生息していたかと考えるが、『薩摩町郷土誌』によると、熊襲の戦いの頃と思われるが、この地区には「白猿」と呼ばれる頭領がいて最後まで勇猛に戦ったことに由来するという。因みに兄は黒猿という
-製鉄-
中津川白猿地区に踏鞴(たたら)跡がある。製鉄の時、足で踏んで空気を送る大きな「ふいご」を踏鞴と呼ぶ。ここは古代の製鉄遺跡なのかも知れない。この日も鉄滓(てっさい≒鉄を製錬する時、出来る不純物<スラグ>)、鉄鉱石の塊があった(手に持つ度ズシンと重く、普通の石より比重がかなり重いことが分かる)。製鉄は刀剣をつくるのに欠かせない技術である。古事記に剣や太刀が書かれているので編纂された和銅5年(712)にはあったのだろう。薩摩での製鉄所は、大村などでは中世(1333?<1185か>~1573年頃)から近世にわたって有力な刀匠がいて名刀を鋳造していたというから、約680年前中津川(大村)のことかも知れない
-棚田-
ここの地区は現在11世帯19人の集落になっていた。途中の町道は集落の方々で綺麗に伐採されていた。小さな迫田は放棄され枯れ茅野になっていたが大きな田は耕作されていた。見上げる棚田は段々に100m以上、横方向へは200~300m位と思われる。これは高低差を含め大規模の棚田である。(法面土手)は野面石が綺麗に積まれ、高いものは6mの石垣がある。250枚田で3町歩あり、2町5反が耕作されていた。最上部に水神様の御幣があった。非常に冷たく少量ではあるが尽きることがないという。高い標高にあり、冷たくピュアーな水で作る米は格別の味なのであろう。これは不便でも毎年作っていることが品質の良さを物語っている
【大石神社-金吾様踊り 380年頃昔にも踊った】
-前編-
中津川にある大石神社は、島津左衛門督(金吾)歳久、つまり金吾様を祭り、渋谷祁答院河内守良重を合祀してある。嘉元の三重石塔、蚕の神様碑などもある。最近、祭りの拠点となる伝踊館を住民の不要品を持ち寄り新築し、樹木を整理し境内が明るく綺麗になった
金吾様は武の神、安産の神、稲作の神である。金吾様の魅力の一つに踊りがある。例年、4地区の中津川文化財少年団も躍り町内外から千人以上の観客が訪れる。数十年毎に大念仏踊り(開始時、南無阿弥陀仏と大声で唱える)がある。この踊りは寛永19年(1642)に再興したという記録があり古い歴史を持つ。昭和30年、薩摩町合併記念に踊っている
もう一つの魅力は、お産の神様の伝えである。産前に訪れる女性は、安産んを祈願し小石をお守りにいただく。安産後、お礼にお守りの小石に新しい小石を添え奉納する …次回に続きあり
〇永野・中津川を歩(さる)く~その1 2022.8.29(月)
【別府原古墳をのぞく 約1500年前か?】
正式には「びゅーばる古墳」と読む。薩摩支所(旧薩摩町役場)から国道504号線を永野方面へ1.5km進むと国道の両脇にある。丘陵の一番高いところの右側(南側)の緩やかな傾斜地に1号から6号までの古墳がある。県指定文化財であり、昭和44年発掘調査が行われた
古代人の墓跡である。掘り下げられた穴に「地下式板石積石室」がある。石室墓と言っても、深さ1m、直径(底辺)約1.5mのすり鉢状である。そこに20~40cmほどの扁平石を10数個円形に並べ、その中に埋葬されていたという。同時に剣も埋葬されていた。土を盛り、板石を、瓦を敷くようにドーム状に覆う構造である。剣もあり高貴な方の墓とみられる。板石は安山岩質や川原石であり、この後、見学した白猿の棚田に板石状の割れ目の石が多かったので、この地方は板石が多かったと思われた
年代は5世紀(400年代)と見られ、主な副葬品は鏃(矢じり)と剣である。剣は日本刀ではなく“つるぎ“で両刃の真直ぐな形(日本刀は片刃でソリがある)。出土したのは、剣7、鏃48、土器破片2となっている
埋葬遺体の頭は東向きであった。死者は北枕というお釈迦様入滅(死去)に由来する説は、仏教伝来が538~552年とされ、東向きはそれ以前であるので年代的には矛盾しない。これらの墓は国道の右側であるが、左側には、一段高い所に古墳1基が高く土盛されて形で保存されている。この墓については詳しく解明されていない
【下丁場の摩崖仏 679年前か?】
永野下丁場の国道504号線脇で観音滝に曲がる手前にある。摩崖仏とは主に自然の岸壁などに刻まれた仏像の事であるが、ここの摩崖仏には仏像はない。解読困難な梵字であり、この梵字は仏像を表しているので摩崖仏という(さつま町内の摩崖仏は、湯田城跡地の脇で旧湯田駅東北500mの宮之城線線跡の下にあり、延文2年<1357>とある)。昭和36年と41年に調査があり、鎌倉時代や室町時代と推定されている
『祁答院記』にある長野城で、高城重春、車内三郎、西岡弥次四郎らが興国3年(1342)合戦した。この時に戦死した者の追善供養が彫られたのではないかと言われている。刻まれた梵字は次の通り仏を表す。釈迦如来2、不動明王3、薬師如来、金剛界大日如来、地蔵菩薩2、毘沙門天、胎蔵大日如来、阿弥陀如来、文殊菩薩、不明(2)、計15仏である(釈迦如来は1番目と12番目の2か所に書かれている)
〇二渡を歩(さる)く~その3 2022.8.22(月)
【南方神社】
神社は二渡公民会の高台にある。ご祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の兄弟神である。県内には多くの南方神社が存在するが、殆ど諏訪神社から勧請したものとみられる。タケ「ミナカタ」ノミコトから南方神社の名が付いたのでしょう
全国的には諏訪神社のご祭神として建御名方富命(建御名方命と同じ)として祭られる。古事記や日本書記に出てくる神である。大国主命の子、建御名方命は自分を信じて失敗を恐れず挑戦しようという神で水神でもある。事代主命はその兄神。二神で力比べをしたのが相撲の起源とも言われる
8月の大祭には4集落の踊りが奉納される(3年に1回)。二渡公民会の一本矢旗踊りは太鼓踊りである。須杭の一本矢旗踊りも同様であるが、装束に若干の違いが見られるものの踊りは共に同じであり、ナガとマキ(渦が巻くように回りながら中心に集まったり、回りながら外へと展開する)がみられる。折小野は明治時代からアケスメロを踊っている
※蜻蛉洲舞郎(アケスメロ):諸説あり、蜻蛉洲や秋津島は日本の異称。蜻蛉はトンボのヤンマ。中央先頭の俊敏な入鼓はヤンマの象徴。お盆過ぎに神社に奉納し、五穀豊穣や領主の鎮魂を祈った。前にしか進まないトンボは武士の象徴で必勝祈願、凱旋祝いの武士の誇りを表しているとも言われている(下野敏見)
境内には銀杏の巨木がある。「樹高22m、幹回り5.5m、推定430年。天正5年(1577)創立の南方神社境内の古木である。銀杏は雌雄異株であるが、この銀杏は雌株である。根元より45°傾斜しているが昔の台風で傾いたと思われる」と「さつま町の古木百選」より
【高城(たかじょう)と石塔どん】
高城は字高城にある。山崎再撰帳によると東郷渋谷家7代氏重の子、六郎(兄の四郎は白男川氏の祖)が二渡を領し、二渡氏を名乗り在城した。石塔どんは高城の麓、二渡から折小野に通ずる町道脇にある。通称、セットどんという。角石柱、梵字と嘉慶二年(1388)十月拾〇日とある。他に小さな五輪塔二基、妙勲、浄香の法名を刻した石塔などがある
白馬の伝説がある。折小野方面から来た武士とサメ馬(白毛の馬、または両眼の縁が白い馬、或いは、虹彩の白い馬)に乗った武士との間で戦いが起こり、サメ馬が射られて乗馬の武士が戦死した所と言われている。それ以来、近くを白馬が通れば石塔どんが睨み居つけるので馬は前に進まない、と伝えられている
【石橋と鶯山】
須杭上を豊臣秀吉が祁答院通過の折、休憩して腰かけたと言われる石が残っている。須杭上一帯の山は、美声の鶯(ウグイス)が捕れるところで、公儀にも献上したこともあるので「鶯山」と呼ぶようになった
〇二渡を歩く~その2 2022.8.15(月)
【島津徳源公頌徳之碑】(とくげんこう しょうとく)
島津徳源公頌徳之碑は二渡新田溝を見下ろす日当たりの良い南向きの傾斜地にある。徳源とは宮之城島津家第4代島津久通公のことであり、髭の領主としても有名である
永野金山を発見し、薩摩藩の財政に大きく貢献した。この他、薩摩地方では植林や紙漉きを奨めている。植林は父久元が始めた事業であるが、久通は北薩のみならず薩摩藩各地に土佐、屋久杉を、楮(こうぞ)の苗木は今の山口県から、お茶の実は京都の宇治から取り寄せ園を仕立て、産業を発展させた。藩家老であり、島津家系図など文化の面でも貢献した
また、久通は1640年永野金山を発見し、ある期間、運営管理に当たったので後年の隧道開発に坑夫の技術が生かされたと思われる
徳源公頌徳碑は、太平洋戦争の戦局が悪化し大政翼賛会活動が盛んだった昭和18年(1943)5月25日に建立されている。永野金山発見から303年後、昭和の御代になって戦争で人手も少なく物資不足の時代に何故徳源公の頌徳碑が建立されたのか?昭和30年3月、山崎の歴史家内藤朗玄氏と鮫島富士夫氏が古文書を調査し次の通り発表している
「泊野川の井堰は、市野、母ケ野、栗山、一ツ木と二渡井出山の山之内井堰である。島津久通(1604~74)が二渡新田溝(1729~31)を造ったとすれば寛文時代(1661~73)ということになる。しかし、寛文時代に久通は大隅方面と市比野新田溝開きを行っている。久通公没後55年の享保新田を調べると、享保9年内検の反別と一致し井出溝営繕賦役記録とも一致する。従って、享保9年(1724)以降であることは確実と思われる」と大体こんなふうに書いてある
島津徳源公頌徳之碑は、新田溝によって二渡水田が上田となり、その感謝はなかなかのものであり、徳源公をその開拓者として崇敬するものである、と述べている。久通公は生前計画し、その後実現されたのであろう!
【阿多殿の供養塔】
島津徳源公頌徳之碑の近くにある。よく整備されているので地域の人たちの崇敬の念が伝わる。二渡新田溝開削の奉行だった阿多殿を祭る供養塔という。「弘化3年(1846)丙午9月28日宮之城阿多伝記景甫」と刻まれている
阿多殿には不思議な話が伝わっている。二渡新田溝開削の奉行だったが、工事費がかさんだためか、あるいは何らかの事情で祭られている地で自害されたという。阿多家では不思議な霊夢が続いたためこの地に供養塔を建てたという。山崎再撰帳、古老の話によると、南方神社の例祭日には太鼓踊りを奉納するが、ある年踊らなかったら阿多殿の怒りに触れ新田溝の水が逆流したと伝えられる。以来、必ず踊りを奉納するようになった
〇二渡(山崎)を歩(さる)く~その1 2022.8.8(月)
【二つの川を渡るので「二渡」という】
二渡の地名は、宮之城-川内往還では川内川と大山口川の二か所を渡る説と、宮之城から二渡に行くには川内川と小谷川を渡り、東郷からは大山口川と小谷川を渡るので、共に二つ渡る事から二渡と言った二説がある。
町道二渡-川口線沿いは、新田開発の用水路、伝説などがあり、長年回り道をしていた交通のネックを改善する道路となった。泊野、白男川地区の要望により整備計画され、里道が農道に整備された。その後、町道に昇格し拡張整備された
【山之内井堰から取水する二渡新田溝】
二渡用水路(二渡新田溝)は、泊野川(別称、きらら川)が川内川に打ち出す上流800mに山之内井堰があり、ここから取水している。泊野川は、更に上流には市野、木折、母ケ野、栗山、浅井野、一ツ木にそれぞれ堰があり各々の田んぼを潤している(井堰は頭首工ともいう)
二渡新田溝は『名称志再撰方志ら偏帳留(≒名称誌再選方調べ帳書留)』に、二渡村前代(南側)田地が小高く享保年間(1716~1736)新田を拓くことになり、泊野村、白男川村より流れる川筋へ用水井手を立て山之内井出と言い伝えれている。そして工事は享保14(1729)年から3ケ年かかった。290余年前のことである
町史には「工事監督の名をとった山之内井堰で取水し二渡の大山口川まで導水、同川の西野井手より再び須杭を経て上東郷村南瀬に至る」とあるが、現在の溝は須杭までである。今でも毎年4月、7月頃溝さらえを行っている
新田溝は5.7km、幅約2m、岩山をくり抜いた隧道が11ケ所ある。長い隧道は採光用の横穴を空け、そこから岩くずも運び出した。掘り出した岩くずは、一升に米一升が与えられた。その歌が御新田節として残っている
令和の時代、アフガニスタンでは中村哲医師が水路を開き農地を復活させた。水路には蛇籠(じゃかご:竹材や鉄線でかご状に編み、石を詰め込む)を造り使用したという。戦後は鉄筋コンクリート井堰となっている
☆御新田節
さても淋しやひぐりの小屋よ 前はあばん瀬の音ばかり (ひぐり:日暮)
小屋を建てる時や涙で建つよ 渡り流れは歌で立つ
さても淋しや山崎御倉 桝やトカキの音ばかり
桝やトカキの音さえすれば 何が御倉は淋しかろう (トカキ:斗描き棒?)
梅に宿とる鶯さえも 末を大事と法華経よむ
〇時吉を歩く~その4 2022.8.1(月)
最後に、時吉地区の特徴ある「小字」とその由来について述べる。これは明治12~14年頃、地租改正に伴い決められた正式な地名であるが、昔からの呼び名を基に決められた
² 中城:時吉城の支城の一つで、岩坂から田の神元に至る伊佐街道(金山街道)の見張りに適した孤丘にあった城の所。昭和34、37年に頂上の拡張工事がなされ、現在は運動公園となり昔からの権現様(多賀神社)は残るが土塁や登坂など原型地形が失われた面もある
² 元町:1596年頃(北郷時久時代)、ここにいた町人を郷士の住む麓付近に集め「野町」をつくった。このため、元は町だったことからつけられたと思われる。伊佐街道沿いであり通行人が多く開き易かったのだろう。現在も上市、下市の姓も残る
² 二反田、壱丁田:ここは良田で他の田んぼより収量が倍ほどあったことだろう。この字名は他の地区でも見られる。壱丁田は一町ある広い田んぼを示す
² 園田/神楽田:神社関係へ米を納める田んぼがあった所と思われる。或いは、「園と囿」が明治期に使い分けられているが、比較的大きな田は「園」、小さい田は「囿」とも解される
² 樋ノ口(樋ノ元)、石樋ノ口:用水路の分岐・合流場所で石輪や石積で作られている。
² 庵の前:昔、僧の庵のあった場所の名残と思われている
² 丹グウハ:「丹過」と書けば渋谷時代、僧侶が旅の一夜を過ごす所を示す。口伝では「タンガ寺」があったとも伝えられている
² 大御堂:耕地になる以前は御堂があったと伝えられ土器類の出土地でもある
² 加治屋:昔、鍛冶屋があったようだ。鍛冶用の木炭ガラが出土しており農具や武器を作っていたと思われる
² 船津田:轟の瀬の上流で、川浚え以前、伊佐方面から舟で運ばれた年貢米がここで陸揚げされ、馬に載せ替て穴川の滑(なめ)りを渡り川原の藩倉庫に納められた
² 血合/血合瀬:1485年、文明の合戦の時、ここの下の川内川浅瀬で血が染まったことから血合瀬、土地は血合と名がついたと言われる(血合瀬は対岸の柏原にも存在する)
² 焼米田:由来は不明。何かの理由で炒り米にして保存食にしたか、焼き畑農法的な方法で開墾したか、米が焼けたことなどが考えられる
² 利昌寺:由来は不明であるが、付近に渋谷時代の五輪塔などもあり利昌寺が建てられ、島津時代になり尖叟寺が建てられ、利昌寺は土地名となり現在も残っている。このすぐ傍を豊臣秀吉が九州平定の帰り通ったところでもある
² 拾壱面:血合の横にあり観音様のあった所。いくつかの墓石もあり、合戦があった後、弔いをやった場所か?
【十三仏の概要<続き>】
⑪阿閦(あしゅく)如来:死後の世界の案内役としての十三仏としては阿弥陀如来の次に来る
仏であり、大日如来の前に来る仏。七回忌まで来てもまだ救われない人は、揺るがない決意で悟りを求める真剣さが無ければ救われる方法はないという
⑫大日如来:太陽を表す。私達の住む宇宙の中心であり、如来の心である「広くて明るくて暖かい」要素を全て持ち合わせ、地球上の命を育み、全く見返りを要求しないエネルギーを出し続けている
⑬虚空蔵菩薩:宇宙につながる大空のような空間のことで、「蔵」は入れ物を意味し、広大な宇宙のような無限の智慧と記憶と慈悲を持った菩薩
〇時吉を歩(さる)く~その3 2022.7.25
【時吉城は虎居城と兄弟城】
時吉城は6つの城の総称である。大前道秀が寿永の頃(1182頃:虎居城は1142頃)築城したもので、代々居城したと伝えられる。後に渋谷氏の城となった。個々の城はの名は資料によって違いもあるが、①富岡城(本丸)②高城③鶴ケ城④古城⑤中ノ城⑥弓場ケ城(または、龍崖城)と言われている
虎居城と兄弟城と言われるのは、①共に1100年代の築城②共に5~6つの曲輪から成る③共に川内川を利用している④大前氏の後、渋谷氏が居城している⑤時吉城を上ノ城、虎居城を下ノ城と一時唱えた(渋谷氏時代か?)など大変似ている点が多いからだろう
富岡城:時吉城の本丸と見られる。現在は時吉共同墓地となっている。中央部にある大楠の根元に応永22年(1415)の供養塔がある。祁答院7代渋谷重茂の碑で「お供養どん」と呼ばれている(しかし、私見ながらこの碑は江戸時代に建てられたものである)。
時吉郷土誌によると、鶴田合戦(1359~1401)では前哨基地や兵站基地として機能したであろうし、文明の大合戦(1485)では、血合瀬の名が残っているように近隣で戦いが発生し時吉城から兵士が動員されたのおでは、と推測している。また、大願寺の戦いの時は避難基地ともなり緊張の時を過ごしたとも思われる
高城:天然の要害の地。龍崖城も同様であった。後ろ(北側)は川内川の絶壁、前側(南)は谷や湿田で戦になれば攻めるのに難しい場所であった。高城の中には玉石を積んだ防塁が所々にあった。古い字名で「ジョシどんの段」があり、これは「城主の段」であり、城主が住んでいた城を示し、高城が本丸であったことも考えられる。更に、明治生まれの岸良氏の著書によると、祁答院記に記載のある「周囲線上に仙岳登公、樹蔭鉄公大禅門(渋谷良武・良重親子)の石碑がある…」を見て確認され、またこの城に至る道は、馬の背と思われるように高く曲がった桜の並木道でもあり、その素晴らしさに感嘆され、もし自然の造形なら神業であろうと述懐されている。その叙述に従い筆者がその石碑を探索してみたが、倉内工業団地が造成された関係上残念ながら石碑は確認できていない
13仏の概要(前回より続く)
⑨勢至(せいし)菩薩:大いなる智慧を持って広く世界中を照らし、迷いと苦しみと戦いの世
界から離れて、亡き人を仏道に救い入れ、悟りの世界に導く菩薩。阿弥陀如来の極楽浄土に観音菩薩と共に死者を迎えに来る来迎の姿として定着していて、信仰すれば極楽浄土に連れて行ってくれると言われている
➉阿弥陀如来:浄土とは悟りを開いた如来が居られる場所であり、悩み苦しみの無い極楽の
世界なので、死後に浄土に行けることは永遠の楽を手に入れることである。しかし、私達がいくら修行しても釈迦如来のように生きたまま仏になれないのであれば、せめて死後に浄土からのお迎えが来てほしいと願う往生極楽の信仰が古より続いている。阿弥陀如来の浄土は西方の極楽浄土であり、脇侍としての観音菩薩と勢至菩薩を従えて白い雲に乗って死者を迎えに来るという阿弥陀三尊の来迎図が平安時代の浄土信仰の影響で盛んに描かれた
〇時吉を歩(さる)く~その2 2022.7.18(月)
「13仏の説明は文末参照」
【田の神は4体 増殖の神】
時吉には田の神が4体もある。野立ちばかりで江戸時代の作である。さすが農の地区である。国道504号線には「田の神元」というバス停もある。「春、山の神が田に下り来て田の神になり、秋になると再び山に上って山の神となる」
田の神様については面白い話がある。田の神様の背面はシンボリックであり「田の神様を建てた背景には生殖器信仰があり、田の神様は増殖の神であり稲の豊穣を期待しており、子孫が栄えることの両面があるのだろう」。また、昼間から酒をを飲むことは祭りのため郷士の目からのがれることもできる。田の神元にある田の神様の神像は極めて大きい。古い金山街道(もっと古くは伊佐街道)の時吉村の入り口にあり、道標にもなっていただろう
田の神様におにぎりや煮しめを入れたワラで作った”わたっど”を掛け、田の神舞(たのかんめ)で酒席を設けて祈り・踊りの楽しみでもあり、苗代の時は「しとぎ(米粉のだんご)」を供え、貴重なお米を食する機会でもあり、良い米ができるようお祈りしている。この催しは、2月と10月に現在も行なわてれおり伝統が引き継がれている
【外堀屋敷の六地蔵】
時吉の六地蔵は外堀屋敷にある。大きくて綺麗で荘厳であり町内随一の大きさを誇る。ところが現在の塔には肝心な六地蔵を刻んだ龕(がん)という部分がない。これは田の神元に放置されている。昔、父(外堀直氏)の病を治すため法者どんのご宣託により外堀屋敷に移されたと当家の方(二女)は語る。以来、別家の外堀貞美氏宅が花香をされている。松木囿家のロープ等を借りて移動したというから終戦前後の話だと思われる。後述の絵図にもあるように江戸時代に田の神元に記入されており、個人の造立・財産ではないと考えられる。龕の部分が放置されて組付けられなかったこと、建立の時代、建立者、経緯など謎の部分が多くロマンに富む
文字は風化して読み取りにくいが、正面には線刻文字で「奉彫造六地蔵□□□一基」と読める(□部分は画像処理を試みるが解読できていない)。他の面は、私の幼い頃は文字があったと言われるが記録は残っておらず解らない。内山軍兵衛の絵図、宮之城町史では、「不明」「地蔵」と書かれている。江戸末期の「宮之城領主に上納米納入の図」には、構図は、全体的にデフォルメされてはいるが、時吉と推測されるところに「六地蔵」が描かれている。建立時代は、町内の六地蔵と同じく、戦国時代~安土桃山時代で、渋谷氏のものと思われるが、これだけの立派なものを作る人物は、解っている時吉の史実からは該当者が見当たらない。また、村の支配者、富豪、村の共同出資なども見当がつかない
宮之城地区には六地蔵が16基もある。また残欠が9基もある。明治2年の廃仏毀釈で残欠になったのであろうか、それぞれ歴史があり物語があるのであろう。時吉六地蔵も是非、町の指定文化財に指定してもらい、本来の場所に本来の姿に復元して欲しいものである
☆十三仏の概要(前回の続き)
⑤地蔵菩薩:地蔵菩薩は大地の子宮であり、あらゆる生命が還る所であり生まれる所でもある。生命の蔵である地蔵菩薩は、生命の生まれ変わり死に変わりの場所である六道の入口に立ち、救済の役目を果たすと共に、菩薩でありながら僧の姿で果てしない巡業の度(たび)を続けている(度:「巡業のたびに」「〇〇ごとに」の意味)
⑥弥勒菩薩:釈迦牟尼の次にこの世に出現する未来仏で如来になるために修行中の菩薩部の
仏。胎蔵界曼荼羅茶屋では弥勒菩薩は、情け深い、慈悲心ある者という意味
⑦薬師如来:手に薬壺を持っていて医王如来と言われることから、病気平癒の仏として有名で、目治薬師(めなおしやくし)とも言われ、眼病に対して御利益があると言われている
⑧観音菩薩:観察された音・声という言葉の合成なので、光世音、観世音、観世音自在などと言われている。悟りの世界である如来になるために修行中の菩薩と言われる仏のことで、観自在菩薩、救世菩薩などの別名があり、多くの寺院で広く信仰されている仏
以下の菩薩は次回記述する
〇時吉を歩(さる)く~その1 2022.7.11(月)
【時吉田んぼを潤す新田溝】
高台の温泉プール裏(西側)の土手から佐志田んぼを一望すると水源の位置やルートがほぼ解る。鎌倉時代の頃、大前一族が時吉田んぼまで水路、約5Kmを開いたという(『珍しい地名』S51.宮之城史談会偏)。それ以来、改良を重ねながら現在まで時吉田んぼを潤してきた。鹿児島県郷土開発史(H5山田勇訳著)によれば、時吉用水路は明和8(1771)年3月竣工。灌漑面積60町歩。藩の工事で役人は川越市左衛門、佐多吉左エ門ほか奉行郡方とある。同書には二渡の開田50町歩の記録もある。藩の工事なので島津久通公の時に計画されたものか
時吉田んぼが金山の鉱毒を受けた時、岸良喜八郎が明治36年単身上京し、鉱山経営の島津家に交渉し3千円の補償金を得て、佐志仮屋原の南方川から金山川(穴川)の底に水路を通すサイフォン方式用水路を実現させた。島津家との交渉には、当時屋地出身の代議士和泉邦彦の協力があったと言う。3千円の警備には、若者が寝ずの番をして守ったと伝えられている
その後、S27年度の工事、S41~51年度の全面的大規模な圃場整備が行われ水路も改善整備された。水路整備により川内川の水質改善にも繋がり、「かわごけ草」、「ホタル」の生育が見られる
【延命地蔵と疱瘡踊り】
延命地蔵は天然痘(疱瘡)の神様。かって疱瘡は感染性が強く死に至ると恐れられていたが1980年絶滅宣言された。昔は疱瘡が流行ると疱瘡踊りをして平癒を祈った。踊りは、芸能要覧(1986年松原武実著)によると、宮之城地区11、鶴田地区18、薩摩地区6の計34集落で踊ったとある。時吉では「S50年頃、老人会が躍った(大正の初め頃まではよく踊った)。時吉全体の踊り、婦人の踊りは三味線・太鼓がつく」と書かれている
延命地蔵は時吉ちくりん温泉から佐志ニュータウンに通ずる道路脇にある。石祠の内室に子供用の供養塔を抱かせてある。「延命地蔵 施主 紺屋門善之丞 田畑門市□□□ 百姓村中 寛政□□□」1789~1801年江戸時代後期になる
【十三仏、死者の13回供養仏】
この十三仏は時吉古城の一角にあった。今は佐志田原にある。天文16年(1547)の造立で室町時代末期の作という。この頃は祁答院13代渋谷良重が姶良方面まで領しており、同じ渋谷一族の入来院氏、東郷氏と対立している時期であった。良重は粗暴な面もあったが、寺院や神社への信仰心が篤かったということから、この十三仏と何らかの関係はなかったのか?興味を惹かれるところである
十三仏とは初七日から33回忌まで13回の追善供養仏事を司るとされる仏・菩薩の総称。13体の仏像が彫られている。不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦(あしゅく)如来、大日如来、虚空蔵菩薩である
十三仏概要(インターネット情報より)
① 不動明王:怖い様相から「戦いの仏」のように見えるが、実際は迷いの世界から煩悩を断ち切るよう導いてくれる慈悲深い仏。日本では「敵国退散の守護神」として扱われたり「疫病退散の守護神」としても扱われていたようである
② 釈迦如来:お釈迦様が悟りを開いた後の状態を指す呼び名であり、修行中の悟りを開く前のお釈迦様に対しては「釈迦如来」という呼び方はしない
③ 文殊菩薩:智慧を司る仏様。正式名称は「文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)」で、物事の正しい在り方を見極める力と判断力に優れ、その智慧で人々を悟りへ導くと伝えられている
文殊菩薩には、モデルとなった実在の人物がいるといわれており、この人物は古代インド・コーサラ国の首都、舎衛国(しゃえこく)の出身であり、身分制度上位に位置する司祭階級「バラモン階級」だったとも伝えられている。仏教の経典を書物にまとめる作業に関わったとの言い伝えもある
④ 普賢菩薩:あまねき方面における慈悲と智慧を顕わして衆生を救う賢者
以下、次回記載
〇白男川を歩(さる)く~No3 2022.7.4(月)
【栗脇城へ出陣の東郷渋谷氏は敵だ、味方だ の二説】
栗脇城跡は浅井野北西の小山にある。一ツ木を一望する地で全体が山林である。文明の大合戦(1484の9月)の前哨戦となる一ツ木合戦(同年2月)があった。東郷渋谷重理(しげさと)が栗脇城へ出陣し、祁答院渋谷重慶(しげよし)と合戦した。東郷軍が勝ち、東郷に引き上げた。それを祁答院勢が追撃し東郷山田城で再び合戦となり、ここでは東郷勢が破れた。これは渋谷同士の戦いであった
付近に「切込淵」や「千人が迫」という合戦に由来する地名があり戦いの激しさを物語っている(東郷山田まで1里、宮之城まで1里300m)
この一ツ木合戦には逆の説がある。「三国騒乱記」によると、東郷重理は援軍を率いて栗脇城に陣した。12代島津の当主忠昌から渋谷征伐の命を受けた島津忠廉がこれと対戦した。忠廉勢の猛攻に東郷重理は抗しがたく東郷山田城に退いた。こんどは両軍山田川をはさんで戦ったが、この時、かねて渋谷勢と意を通じていた加治木左衛門佐(さえもんのすけ)が横川の軍勢を引いて渋谷の味方したので渋谷忠廉は防ぎようがなく退いた、という
【更なる発信に向けて】
白男川は「きららの楽校」が発足して白男川ならではの光を発している。区ではきららの楽校を中心に「活性化委員会」で交流事業に取り組んでいる。文化や産業振興、生活環境の向上を目指している。リーダーや地域の人達にやる気が感じられる
白男川には史跡が多い。物語もある。珍しい地名には歴史や物語が感じられる。一般的に土地は、圃場整備や道路工事、住宅やその他土地開発などで地形が変わり、史跡が不明になったり石塔の文字がかすれたりして貴重な歴史が分からなくなっていく。今の白男川には、人材・歴史・やる気の三本の矢が揃っており、もっともっと活かしてほしい。白男川の魅力を再認識し、更に発信し伝承したくため案内標識や郷土誌があったらいいと思う
【白男川の珍しい地名】(S51、『宮之城史談会』より)
井出山(いでんやま)、踊段(おどいだん)、城ノ脇、切込淵(きいこんぶち)、寺下(門前)、斧研(よっとぎ)、庵の前(あんのまえ)、馬寝場(うんまねせば)、千人迫、穴城(あなんじょ)、金掘段(かねほいだん)、火の峰、阿弥陀殿(あんだどん)、庄屋殿屋敷、白男川殿(したがわどん)、城下(じょうのした)、神屋敷、天狗岩、石仏(いしぼとけ)など
〇白男川を歩(さる)く~その2 2022.6.27(月)
【各門に伝わる山の神】
紫尾神社から浅井野方向へ約100mの山手に「山の神」が大切に祭られている。山崎再撰帳に「元禄2年(1689)仲春再興11月19日現王園門より祭り申し候」とある。山の神は山から下り来て田の神となり、秋に再び山に戻る。山は農業に必要な水を涵養することから各門ごとに山の神を大事にした。満園門、内村門、東門の山の神もある。山の神は女神であるとされ、自分の妻を山の神と表現することがある。虚空蔵、石仏、穴城、金堀段、塔の元も
山の神同様大切にされている
【大山祇神社(おおやまのつみじんじゃ)】
大山祇神社は現王山の神であるという。宮之城町史には現王園門としてある。一段高い神域は、「虚空蔵菩薩」と「田の神」が二等辺三角形の底辺部で、頂点に大山祇神社の社殿がある。藩政時代に「現王山神」と言い「村中で花香をとってきた」。今は浅井野集落で祭っているという。大山祇神社は「地の神」でもあるので農家の人達が大事にしてきた。また、近くに薬師如来が大切に祭られている。全国的には、大山祇神社は多くの神の祖となっている。また、山を司る神、神話の伊弉諾尊(イザナギノミコト)の子、天照大神の兄神となっている
明治2年廃仏毀釈があった。同4年、明治政府は政教一致の方針の下、神社の社格を制定した。その時、ここの山の神を大山祇神社としたという。同年、明治政府は政教一致布告のほか、社寺の所領奉還、宗門人別帳廃止、廃藩置県(2府72県)を行った。この中には、同年、兵を引き連れて上京し、6月参議となった西郷さんがこれらの決定に加わっている。因みに、大久保利通は年度途中から欧州視察に出張していなかった
【浅井野の天神様】
浅井野の南方の天神山に天神様を祭ってある。天満天神様ともいう。約1100年前、有能なため讒訴(ざんそ)され、右大臣の座より大宰府に左遷された菅原道真の怨霊は、京の都で雷となり政敵の藤原一族を襲った。落雷で清涼殿などに火災が起こり、祈祷を行ったが効果はなかった。そこで道真の霊を祭ったところ鎮まったという。その後、学問の神様となり、今、全国で1万2千社の天神様が崇敬されている。町内では、屋地の帝釈天岡の頂上に雷神が鎮座している。また、「天神橋」や「天神公民会」もある
〇白男川を歩(さる)く~その1 2022.6.20(月)
【阿弥陀様も祭る紫尾神社】
さつま町虎居の西方に広がる白男川地区。現在は川薩グリーンロードが縦断するが、古くは東郷山田を介し東郷・川内地区と結ぶ旧街道であり、宮之城の入り口であった。白男川・泊野・二渡はその昔、東郷の領地であったことや530数年前、文明の大合戦の折り、一ツ木合戦のあったところ
白男川村社は紫尾神社。紫尾山を囲む各地に紫尾神社が存在する。ここの神社は「紫尾三社権現」といい、「寛永12年(1635)」の棟札に「村中 出米にて祭りを行う」と山崎再撰帳に書かれている。宮之城町史によると、明治2年、二渡と須杭の紫尾神社を白男川の紫尾神社に合祀してある。また、城下の阿弥陀堂本尊を紫尾神社に祭ってあるという。これは神仏習合であろう。阿弥陀様が紫尾神の姿になって衆生を救済することの現れであろうが珍しいことである
東郷渋谷家6代氏親の子二郎四郎が白男川氏を名乗り、神社を創建したというから大変古い神社である。氏親の兄5代重親は大治年間(1126~1130)、大前斧淵氏を倒すため、死後霊魂により敵を滅ぼすことを信じ家督を弟に譲り入定した。この伝えに基づき、現在東郷に親神社がある。こことは別の「東郷重親墓碑」には東郷平八郎が書いた碑も建っている
【城下の阿弥陀堂跡】
白男川城跡登り口にある。山崎再撰帳に「白男川城ノ下 阿弥陀堂 木躰座像高さ 九寸余(約30cm)」と書いてある。この阿弥陀像は、衆生(一切の生き物)救済のため四十八願を発し成就して阿弥陀仏となったという。その第四十八願は念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できると説く。土地の人たちが昔から阿弥陀様を大事にしてきたことが分かる
六地蔵は白男川城登り口にあったが、反対側に移されている。天文3年(1534)と刻まれている。衆生は死後、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界)を輪廻・転生すると言われるが、それを救済する六地蔵で昔から大事にされてきた。一ツ木の六地蔵は永禄12年(1569)、荒瀬の六地蔵は1490年で戦国時代から安土桃山時代とされる頃の建立になり、武士が建てたものだろうか?(この中では、荒瀬の地蔵が最も古い)
【白男川城跡と東郷渋谷氏に始まる白男川どん】
城山の頂上に白男川城があった。町史にはここでの戦いの記録はない。登山道の途中に白男川殿(したがわどん)と呼ばれる石塔(墓石)2基と石燈籠があった。町史では石燈籠の文字を「文化5年(1808)戊辰2月吉日 奉寄進 入来家家臣 白男川某」と紹介している。また、「入来町から数年前花香を手向けに訪問者があった」と白男川の歴史愛好者・米盛浩さんが話している。
白男川殿は東郷領主渋谷6代氏親の第5子二郎四郎に始まり、弘安、正応(1278~1293)の頃と祁答院記に書かれている。同じ頃、二渡の高城には7男(6男とも)六郎が居城していたと伝わる
〇宗功寺跡を歩(さる)く~その3 2022.6.13(月)
【初代尚久は加世田の竹田神社に眠る】
島津忠良日新斎は島津中興の祖で実質的島津家初代の武将。「いろは歌」を考案、日新寺跡の竹田神社に「いろは歌」の碑が並んでいる。日新斎に長男貴久(本家)、次男忠将(垂水家)、三男尚久(宮之城家)がいた。
日新斎が領内巡視の際、一目ぼれした桑摘む娘・桑御前の子が尚久である。加世田地方の養蚕も盛んであった。尚久は武田神社に、桑御前は加世田白亀に眠る。尚久は宮之城郷の領主にはなっていないが、歴史上、島津家系譜上は初代である。これは宮之城島津家の家祖であることから初代と原則に従ったもので、兄忠将の垂水家も同様である(注:尚久の子、忠長が最初の宮之城領主となり治めるが、忠良日新斎の子・尚久が宮之城家の祖とされ初代とされ、後に「一所持家」となる。これは島津家のルールに沿った家筋、家格である)
尚久は兄貴久の姶良市平松の岩剣城攻めに参加し軍功があった。この岩剣城は渋谷良重が守っていた。甥の島津義弘、歳久はこの時初陣を飾った。この戦いで島津は初めて鉄砲を使った。渋谷は以後敗戦が続き、良重は虎居城で妻の刺殺により衰退・滅亡する
【忠長朝鮮泗川の戦いで軍功】
宗功寺の、忠長の墓塔は宝篋(きょう)印塔で本来は宝篋印陀羅尼を納める塔で墓碑塔として建てられた。頂上は宝珠、相輪の下は階段状の刻み、隅飾りなど精巧に彫られている。「既成宗功庵主」の銘。貴人の墓塔としての気品がある。以下、世功碑文から紹介する
義久に仕え肝付氏攻めに軍功を上げ、肝付・串良の地頭職となる。豊後大友氏との戦いなどには勲功抜群、家老となる。竜造寺隆信と高来・島原に戦い3千余の首級を挙げる。秀吉九州征定後、義久に従い上洛する。人質となること二回。秀吉が忠長に宅地を賜わんとするを忠長丁寧に断る。慶長の役では忠恒に従う。泗川で、義弘、忠恒を攻める明の大軍と力戦、大勝を得る。義弘、官吏浅野長政に「泗川の戦いは、忠長の功なり」と。長政、忠長の手をとり「卿、勇名を異国にあぐ、武士の面目この上のことはない」と。義久、宝刀を授け領地を加える。1600年宮之城領主となる
【久元、久通、家老として薩摩藩に貢献】
3代久元は朝鮮泗川の戦いに功あり。関ケ原の戦いでは力戦するもはぐれる。初代藩主家久、2代光久を補佐する家老となり藩政に貢献する。禅、騎射、茶道をよくする。良種の杉苗を広めた。義弘の末娘お下様を娶る。久通は「ひげ図書殿」。金山を発見し藩財政に大きく貢献した。3人の当主に仕え信任を得て家老を務めた。島津家の「世録記」を編纂、「征韓録」を作った。家臣からも尊敬され、紙漉きや久元が始めた杉苗を更に広めた
【久治、宮之城島津最後の領主】
国主久光の次男で藩主の弟久治は久宝の養子となり宮之城島津家領主となる。生麦事件、薩英戦争、禁門の変、戊辰戦争、明治維新の激動に翻弄され、志半ばでこの世を去った、悲運の領主であった。武力による幕府討伐に反対した。いじめに合い明治5年1月4日にピストル自殺。31歳。墓は平成3年11月、鹿児島市吉野から宗功寺跡に移された
〇宗功寺跡を歩(さる)く~その2 2022.5.23(月)
【3代久元の供養塔】
宮之城歴史資料館を出て宗功寺跡へ向い石段を上がると、途中右側に石幢(せきどう:六地蔵のない単制)がポツンと建っている。宮之城島津家第3代久元の供養塔である。正面に「下野太守藤氏久元」とある。久元は大道寺殿と言い、屋地帝釈天の西側に久元を祀る大道寺があった。この寺は明治の廃仏毀釈で壊され、敷地は国鉄宮之城線用地になった。このため、ここに移されたのかも知れない。供養塔は久元が敬愛されていた証しか?
久元は藩家老として薩摩藩の中枢にいた。本家より、庄内の乱で夫を亡くした義弘の末娘お下様を娶れと持ち掛けられた。久元には、愛妻と17歳の久通(後年、4代となる)と弟・久茂がいた。側室ではなく、正妻だったので愛妻は去ることになった。お家騒動も起こらず生まれた久近もいじめにあわず、佐志島津家を継いだ。久通が4代になるなど円満にできたのは島津一族安泰方策の秘密があったのであろう
【松尾城と鍛冶屋の勝地に宗功寺が建った】
石段を上がると広場があり一隅に石神氏鍛冶屋の跡がある。これは発掘調査で出土した。島津忠長が宗功寺を建てる時、寺と鍛冶屋があったと宮之城記に書かれている。2つとも渋谷時代からあったと思われる
忠長は、この地は自然地形が良く、松尾城と鍛冶屋がある勝地(景色や地勢が良い地)であり、虎居城を見守る適地であることなどから宗功寺を建立したのであろう。更に、国道(504号)脇の森林組合付近にある渋谷氏を祀る立神大明神への尊崇の適地と見たのかも知れない。それを物語る石碑が宗功寺入り口右側の空き地に建っている
【宗功寺の仁王像と鬼瓦】
忠長は東郷領主時代、東郷の重元寺を父尚久の法名「曇秀」を採って「曇秀寺」と改称し仁王像も建てた。後に、曇秀寺は宮之城に移された。宗功寺は2代忠長が1600年東郷から移封され1610年に亡くなるまでの間に建てた(仁王像を同時に作ったかは分からない)。仁王像は阿吽(あうん)2体であった。阿吽は万物の初めと終わりを表す。仁王像はお寺に敵が入り込むことを防ぐ仏法の守護神として門に建つ
宗功寺の仁王像は、廃仏毀釈の時に阿形の1体は曇秀寺跡(現霧島神社)に、吽形の1体は城之口大磯氏の庭に避難して共に現存している。霧島神社の仁王像は、太平洋戦争後、何者かにより頭と腕が壊され欠損している。この2体は腰上と腰下に分けて作ってある
鬼瓦は石造り(65cm×65cm×23cm)で宗功寺の規模が想像できる。孟宗竹林の中から昭和50年代発見され展示してある。鳥居は廃仏毀釈からお寺を守るため、急遽作られたという。この鳥居は壊れ、再建した鳥居も平成9年の地震で壊れ、現在基礎だけが残っている
〇宗功寺跡を歩(さる)く~その1 2022.5.16(月)
【虎居城は大前氏が築城、渋谷・島津も在城】
虎居城は1100年頃までに大前氏が築いた。1615年、徳川幕府の一国一城令により廃城となった。その間、大前氏-渋谷氏-北郷時久-宮之城島津家が500年以上在城した。
相模国(現神奈川綾瀬市などから)1248年頃下向して来た渋谷5兄弟の3男重保は虎居城に入り祁答院氏を名乗った。13代良重の頃は姶良地方の岩剣城まで勢力を伸ばしていたが、島津貴久らに攻められ、更に、薩州家(出水市)出身の妻に1566年頃、正月酔っているところを殺され祁答院渋谷氏は滅んだ。渋谷の時代は318年で終わった
【歳久、虎居城に在城 秀吉を山崎城に訪ねなかった】
虎居城に入ったのは貴久の3男島津歳久(長兄は義久、次兄は義弘)であった。1587年、秀吉来攻の時、歳久は一貫して反秀吉の態度をとった。秀吉を虎居城に入城させなかったので秀吉は山崎城に2泊することになった。その時、中風のため秀吉を訪ねず、部下が秀吉軍を殺すなどして秀吉の不興を買った。1592年梅北一揆の罪や一連の反秀吉の行動を問われ竜ケ水で非業の死を遂げた。歳久を祀る城之口の金吾様や中津川大石神社の金吾様祭りは有名である
【北郷時久が都城より移封される 5年後都城へ復帰】
歳久後、空き城となった虎居城に、同様に秀吉から不興をかった都城の北郷時久が1595年、石高半分の祁答院へ移封された。しかし、5年後の1600年、庄内の乱により都城へ復帰した(時久は復帰を前に死去)。庄内の乱とは、お下様の兄で島津家当主の家久に伊集院忠棟が殺され、その子であるお下様の夫・忠真が反乱を起こした。友好を深めていた義兄弟が「昨日の友は今日の敵」となった
島津本家出身のお下様は武家の理不尽を嘆き念仏三昧だったことであろう。宮之城から引き揚げた都城の家臣の内、伊藤、財部など宮之城に残った人がいた。この人たちは土地の女性と結婚をしていた。また、都城へ引き上げる時、柿の苗を持ち帰り「祁答院柿」として今も大事にしている
山崎を歩(さる)く~その2 2022.5.9(月)
【山崎郷校-山崎小学校】
明治33年(1870)開校され、翌年、第16校となる。盈進校は第18郷校。申請順に番号がついた(盈進館は江戸時代末期、明治維新に先駆け10年前に開設されている)。戦後、児童最多は昭和37年の711名、平成31年3月64名。
校歌は椋鳩十作詞、手塚健二作曲で牧の峯や久富木川・二渡が歌い込まれている。卒業生の中に、久米成夫は東大卒で大分県などの知事・鹿児島市長、原國は歯科医師、山本実彦に私淑し戦後、衆議院議員、須杭に生誕の碑がある。鮫島盛一郎は慶応大卒、同予科教授、盈進校校歌の「紫尾山おろし 雪さえて」や山崎中の「眉上げて見よ牧の峯」を作った。帖佐美行は彫金師、文化勲章受章・宮之城町名誉町民・東大寺に作品を献納展示している。福岡一栄は歯科医師、山崎町・宮之城町議会議長、国保事業の基盤を築いた
【里村学童疎開記念碑】
昭和20年、太平洋戦争が激しくなり本土が空襲されるようになった。東京などでは前年の8月から一般民間人、学童も疎開が始まっていた。甑島や種子島にアメリカ軍の上陸が予想され、鹿児島県でも学童疎開が始まり、5月31日には里村(現薩摩川内市里町)から山崎村に疎開して来た(さつま町には甑島と種子島から分担して受け入れた)。食糧難で「ひもじい」思いをした。小学校では、2人掛けの机に3人が掛けた。学校も空襲を受けたが被害はなかった。空襲警報のサイレンが鳴ると、疎開児童たちも一緒に近くの竹山などに避難した。泊野小学校では赤痢が発生し、児童の死者が出る悲しいことが起こった。昭和51年、姉妹盟約を機に、里村が支所跡の大銀杏の近く黒門脇に記念碑を建てた
【牧の峯】
山崎のシンボル。山崎小・中学校校歌に登場する。戦前、山崎・入来・藺牟田の3ケ村対抗運動会があったという。
山崎の荒瀬地区(川内川左岸)には、特徴的な2つの言い伝えが残っている。「玄心玄参」と「うどどん」である。「玄心玄参」は、死馬を蘇生させた玄心玄参兄弟は御用の獣医の恨みを買い、追手の手にかかりこの地で亡くなってしまう。ここに馬頭観音として祀り水も枯れることがなかったという話である。「うどどん」は、巨人伝説で、牧の峯に尻をすえ左右の足を荒瀬と二渡の置いて、樋脇の戸田観音の淵で砂ごと水を飲み、吐き出して作られたのが丸山というスケールの大きい話である。詳細は後日Upしたい
〇山崎を歩(さる)く~その1 2022.5.2(月)
【支所跡は地頭仮屋跡】
支所跡は旧山崎町役場跡地。江戸時代は薩摩藩の直轄地で地頭仮屋があった。地頭仮屋は領主の政務所で、今で言う町役場。文政11(1828)年正月、野町(現山崎商店街)の宿場屋敷から移って来た。以前の山崎は旧伊佐郡に属し、二渡、白男川、泊野は旧薩摩郡であるが、一時期東郷に属していた。久富木の一部は、大村郷に属していた等々、不思議な歴史の一コマの説明で、現在の行政区割りに慣れている人たちは意外性に驚かれるようだ
【山崎仮屋文書】
江戸中期から明治初期までの山崎地頭仮屋に遺されていた文書を『山崎御仮屋文書』という。昭和26(1951)年玄徳寺・内藤朗玄住職が山崎村役場土蔵にあった安永5(1776)年と書かれた木箱の中から発見した。『名勝志再撰方志』ら偏帳留や西南戦争関係文書、信教寺開基住職野﨑流天の布教日程通知写など貴重資料で、平成18年有形文化財として県が指定した。文書の内訳は、
① 宗門手札改帳、証文 ②郷中高帳、金禄公債証書利子関係 ③郷中知行高名寄帳、特高、屋
敷、仕明、荒起、永作 ④諸村検地竿次帳、租税割賦帳 ⑤諸廻文、諸達、横目覚、名勝志再撰帳 ⑥夫役関係帳、屋帳などであった
【山崎城に豊臣秀吉泊まる】
山崎城は新山崎橋のすぐ上流で山崎GS(ENEOS)の裏山にある。祁答院渋谷7代重茂は、三男重直に山崎を与え子孫代々山崎城を居城とした。城は中城・下城に分かれていたが、昭和時代にシラス採取のため形が大きく変形している。対岸の二渡からの眺めは中世山城の雰囲気が感じられる。国道を挟んだ南の岡は余ケ城といい山崎城の出城である
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州侵攻の時、山崎城に二泊した。旧暦5月20、21日(今の暦では6月25、26日)秀吉は、島津家の義久が川内の泰平寺で和睦したように、虎居城の島津歳久が来るのを待っていた。歳久は病身であったし、秀吉を快く思っていなかったので訪ねなかった。このことが5年後、自害する原因の一つになった
対岸の二渡(川内川右岸)に逸話が残っている。秀吉が二渡の須杭石橋で休憩した時のことで、道下の狭い田の名を訪ねたところ、土地の人は二渡の広い田んぼのことと勘違いして「千町が玉田」と答えたという。また、その時、裏の山でウグイスが美しい声でさえずったので「鶯山」と命名したという。そして、秀吉が座ったという「腰掛石」ものこっている
〇紫尾を歩(さる)く~その4 2022.4.25(月)
【宝物は13回の火事で焼失】
寺社巡詣禄によると、紫尾神社は13回火事に遭っている。ただし、400年の記録空白があるのでもっと多い。文化元年(1804)正月元旦、丑の刻(午前2時)頃、紫尾社殿が火災に遭い総て燃え尽くしてしまった。風は特に烈しく夜の2~3時の頃と重って急に人は集らず、皆燃え尽きてしまった
祭神三座の木像高さ45cm、一つは女体で30cm、若夫剣2振りや太刀1腰、阿弥陀座立像数体、うちの一つには、裏に空海の銘、大小の鏡が数十面、本地(ご本尊)薬師如来、阿弥陀如来、観音の蓮華座、鏡の裏に承元3年(1209)源兼元の刻もあったという。十一面観音、日月二天、聖天、熊野権現絵像一幅、鬼面十頭、石、木の獅子各二頭、大錫杖一振、山城国(京都の南部)高雄山の晋海という人の彫り物であるが、書くのにきりがないほどである
【紫尾に伝わる石堂物語】
九州探題であった加藤左衛門尉重氏は、世の無常をはかなみ西国高野山に籠った。出家して「刈萱道心(かりかやどうしん)」と名を改めた。重氏の幼い息子石堂丸は母と共に父を訪ねた。しかし、女人禁制の山なので母親を麓に残し、石堂丸は山を登りやっと道心に会うことができた。しかし、道心は出家の身であることを考え父であることを名乗らず、「あなたの父は去年の秋にこの世を去った」と告げる。石堂丸は止む無く山を降りてみると、母は「癪(しゃく)」の発作で亡くなっていた。石堂丸は深く悲しみ、再び高野山に登り道心の弟子となり立派な僧侶になったという」
石堂丸は説教節や謡曲の「刈萱」に出てくる。原話は、中世の高野山の刈萱堂に住む高野聖の間に生まれたものである。東郷人形踊りの演目にもある
【紫尾神社の情報発信】
歴史散歩をしながら伝説などを紹介した。紫尾山麓の人々は勤勉実直でご先祖様を大切にする土地柄であり、昔から変わらぬ精神文化の里であることと、紫尾神社や現王神社、紫尾山、神の湯などの観光資源を、現代の観光客の心に届くように更に発信していく必要がある
〇紫尾を歩(さる)く~その3 2022.4.18(月)
【神興寺僧侶墓石塔群】
紫尾神社の南方600m県道沿いに神興寺僧侶墓石塔群がある。2m級のもの、30cm程のものと様々である。また記名のあるもの68基、無記名45基。年代別では1400年代5基、1500年代17基、1600年代はなし、1700年代1基となっている
快善法印の墓塔は上段中央右寄りにあり、ひと際大きい。最も古いものは芸全僧正の応永22(1415)年で右寄りにある(参考:祁答院渋谷の時代、鶴田合戦1401年)。東向きの理由は、元々県道の東側の田んぼにあったが、耕地整理で西側の斜面の現在地に移設され、東向きになったという
【1町毎に「町石」】
高さ約1m、36cm四角柱の町石で、永禄6~8年(1563~65)紫尾山神興寺から柏原種子田の古紫尾神社までの1里(4km)の間に、1町(約100m)毎に、祁答院地方渋谷家の分家や信者、出家、山伏などが寄進した貴重な道標である。廃仏毀釈で壊されたが、僅かに10基が残っている。
冠石(空・風・火の部分)や寄進者、年号などは削除されている。1基だけ判読でき、次のようになっている
「梵字 北原安芸守伴兼雄 六町 □□如□□ 永禄六稔六月廿八日」
因みに、町石は比叡山、高野山の有名な寺院に稀に見られる。九州では、ここ紫尾山神興寺と郡山の花野神社の参道に見られるだけである
【紫尾山神興寺の坊と温泉・神の湯】
社殿から仁王門に至る道路の左右に坊が並んでいた。本坊・杉本坊・北之坊・中之坊・川上坊・松下坊(松元坊とも)・川添坊・上之坊・谷口坊(橋口坊とも)・山本坊(山下坊とも)・尾崎坊・瀧本坊である。その外、座主が住んでいたところに菩提院があり、瑞雲院(曹洞宗)・徳寿庵・山中坊・谷之坊・奥之院などがあった(至徳1384年頃)
この頃の温泉は、僧侶のみが使っていたといい、一般の人が自由に入浴するようになったのは1800年代と言われている。空気よく、心静まり、温泉が湧き煩悩(迷い)を洗い流してくれる所である。歩みを社殿に進めると、心を磨くことや神を祀るには最高の名山である、と記されている。現在、紫尾区の区有温泉で神の湯と言う。また、柿の「あおし柿」が有名であり、昔から人気のスポットである
【紫尾の田の神】
紫尾下(井出原)の県道沿いにある。高さ74cm、腰回り118cm、背中に「御田神 宝永2年乙酉10月□日」(1705)の刻銘がある。風化が進んでいるが、さつま町最古の田の神である
〇紫尾を歩(さる)く~その2 2021.4.11(月)
【島津の殿様も参詣した】
本家21代島津吉貴(1675~1747)は、享保3年(1718)江戸に行く途中、紫尾神社に詣でた(この時の宮之城島津家の7代久方<1692~1719>は、島津吉貴の実弟)。吉貴はいろいろな宝物を見て唐剣や太刀3品が殆んど錆びついてしまうことを心配し、研ぎ師に命じて研がせた。後、天保年間(1835年代)寺社庁にお伺いを立て、鹿児島南泉院(現照国神社の地)に収蔵させた。南泉院はかって大願寺を移したお寺
【島津久通が祈願して金山を発見した】
宮之城島津家4代島津久通は、紫尾神社に参り金山発見を熱心に祈願した。7日も祈ったといい、神のお告げで寛永17年(1640)金山を発見した。久通は銀500両を寄付し新たに社殿を建て、金山の長続きと国家の繁栄を祈願した。この年の12月竣工のことが棟札に残っている
金山には、遠征の者たちが雲の如く集まり2万人も働いたという(全生産量金:約80トン≒6億4千万円←原価格1グラム8000円で計算)。薩摩の永野から大隅の山ヶ野に至る山を越え、坂を上り、柵の外周は凡そ1里余りであった。掘り出す金の量は計りえない程であった
【方柱石塔婆】
この方柱(四角柱)石塔婆(墓石)は、寺社巡詣録に社殿近くに三間四方の薬師堂と阿弥陀堂の二堂を祀ったとの記録があり、本来は二基であったことが分かる(平成15年に整備された)。薬師堂は、「建武元年(1334)4月行意果円也」と梵字の墨書がある
【快善入定の碑】
紫尾神社鳥居の西、外園氏の宅内にある。碑文の概略は次の通り
「快善法印」は宮之城虎居郷の神照寺に住んでいた。寛文9年(1669)諸国巡業を志し、四国、和歌山の高野山、京都を巡行し金毘羅天の木像仏画を求め、神照寺に帰り修行に励んだ。
貞享3年53歳で神照寺を辞め、住職のいなかった紫尾山神興寺の住職となった。神興寺は荒廃していたが由緒ある寺院であったので法印は古塔や石詞の周りの草をとり、塔碑を掘り起こし社殿を改築造営し神興寺の面目を取り戻した
或る日、土の中から壺が出て来た。壺には地蔵菩薩が入っていた。また、社殿に阿弥陀如来の大尊像があった。法印は仏師に頼み修復した。不動谷の奥之院も建立した。紫尾山の頂上にも草庵を造った。弟子の不染法印は、説教が上手く村人の尊敬を集め神興寺は繁盛した。快善法印は、元禄14年(1701)68歳で入定し一生を終えた
〇紫尾を歩(さる)く 2022.4.4(月)
【徐福物語と空覚上人】
紫尾山には伝説が多い。ここでは徐福と空覚上人の二つを紹介する
徐福は秦の始皇帝(約2270年前)の命で「東海の三神山に不死の仙薬を求めた」という伝説上の人物。日本に渡来し熊野や串木野など伝説があり、富士山に定住したと伝わる。多くの伝説の中の紫尾山に伝わる伝説は、
【徐福伝説】
① 徐福が串木野の冠岳に登ったが不死の仙薬は見つからなかった
② 次に紫尾山に登ったが、ここにも不死の仙薬はなかった。徐福は紫尾山に紫の紐を忘れて帰った。それで紫尾山の名がついたという
【空覚上人伝説】
空覚上人が紫尾山で修行中、夢で「我は当所の大権現なり、爾(なんじ)を待つこと久し、我がために社と寺を建て、三密の旨を修し大乗の法を弘むべし」というお告げを聞き、山を下りここに社と寺を建てこの地を開いたと言う
よって紫尾権現や神興寺の開山として、後世に人が供養塔(五輪塔)を建てた。町内では一番古いと言われている。伝えに、継体天皇(507~530)の頃、善記元年(522年;約1500年前)に権現を建てたとあるが、仏教伝来の538年より前なので信じられていない。しかし、建てられたのは相当古い時代だったと思われている
【紫尾神と紫尾神社の祭神】
『三代実録』(清和・陽成・光孝の3天皇の約30年間901年の史書)に定観8(868)年4月7日、薩摩国正六位上紫尾神に従五位下を授けるというのもこの神のことである(同時に、出水の賀紫久利神・開聞神・鹿児島神・田布施神も同様に書かれている)
紫尾神は神興寺に祀ってあって、当時は神仏混交であった(神仏習合とも言われる)。寺社巡詣録では神官名はなく、座主名が出てくるので神興寺に神様も祀ってあった。明治の廃仏毀釈と神仏分離令(慶應4<1868>)により、紫尾神社となる。神代三代の、日本神話の天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、その子彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その子で神武天皇の父鵜茅葺不敢尊(うかやふきあえずのみこと)(鶴田町郷土誌)を祀る
社殿は明治10年創建、昭和55年大改修した。祁答院7郷(山崎、大村、黒木、佐志、藺牟田、宮之城、鶴田)の総社で中宮。上宮は紫尾山八合目にある。下宮は種子田の古紫尾神社である。また、出水にも下宮は存在する
〇西南戦争逸話 2022.3.28(月)
西南戦争最後の稿としたい。さつま町に於いて、2018年に「西南戦争140年企画展」が開かれた。西南戦争にまつわる当地での逸話を展示する企画で、その他を含めて紹介する
【投稿を促すビラ】
紫尾山に配備された薩軍に官軍から投降を促すビラが配られた。殺さないから早く投稿しろという内容であった(登尾助右衛門さん談)
【薩軍の軍用資金・物資の調達】
これらが不足していたので、戸長役場(町村<例えば虎居村に置かれ、戸長が事務を執った>を通じて強制的に一般住民から調達した。米かお金のいずれかを供出することになっていたが、両方出した世帯もあった(財部重彦さん談)
【勇義隊の宮之城隊へ「ちまき」を届けた】
隊員の中には平川出身者がいた。兵士の家族は「ちまき」を作り、紫尾山の部隊に届けた(木原正孝さん談)
【武器を川に捨てた】
紫尾山の薩軍が官軍に帰順した後、薩軍の一部の兵士は上平川の私(内直矢)の家で休憩した。彼らは官軍に罰せられることを恐れ、鉄砲などの武器を川に放り投げて帰って行った(内直矢さん談)
【五右衛門風呂の釜でご飯を炊いた】
「求名下手の上原ヒモさんから聞いた。ヒモさんは明治2年神子高嶺で生まれた。西南戦争の時は8歳で『官軍が攻めてくるから女子供は川内川の向こう(左岸側)の神子櫃<ひつ>ケ迫に逃げておれ』と言われた。集落では、薩軍のため五右衛門風呂の釜でご飯を炊いた」と聞いた(河野武雄さん談)
【大浦どんのおかげで助かった】
明治5年生まれの境田仁右衛門さんは「大浦どん(大浦兼武)は宮之城で放火や略奪をした者は銃殺にする言って官軍を統率したので、宮之城方面では無事にすんだ。しかし、官軍は求名を過ぎ伊佐郡に入ると住家を焼いたそうだ。大浦どんのおかげで助かった」と話している(薩摩町郷土誌)
【官軍が通過する時、男たちは坑内に隠れた】
永野では戦闘はなかったが、官軍が通過する時は、男たちは坑内に隠れた。官軍に男たちは何故いないのか聞かれたら「金山仕事でヘッペ<珪肺>に罹<かか>り皆早死にした」と答えていたそうです。また、岩切俊彦さんの話におよると「官軍は特別悪いことはしなかったが、鶏を捕らえて持って行った」とか(薩摩町郷土誌)
【父祖の足跡を訪ねて】
曾祖父の井上彦五郎のお墓に「丁丑ノ乱 西郷隆盛ニ従ヒ2月11日出兵 明治10年旧4月14日肥後人吉ヨリ八代ニ通ズル間道テイカク岡に於テ戦死 行年44」となっているが、テイカク岡が分からない、とおじが話した。古老の話で「新暦5月30日照岳(テルカク)の戦いがあり、家の近くまで鉄砲の弾が飛んで来た。後で岡に登ってみたら、人の頭がゴロゴロしていた」と。そして村は全部焼かれてしまい、毎年「焼けよけ」祭りと慰霊祭が行われていた。平成10年西南戦争から127年目に照岳に登り、線香と花を手向けた。そして「焼けよけ」祭りと慰霊祭に参加した。馬草野の人々が喜んでくれた(井上彰三さんの寄稿より)
〇西郷隆盛と大田垣漣月 2022.3.21(月)
少し短いが大田垣蓮月のエピソードを掲載する。彼女は、幕末の美しき尼僧と言われ、歌人であり陶芸家でもあった。
TVの歴史番組で、磯田道史さんの特徴のある声音と独特の語り口は説得力がある。磯田さんは著書『無私の日本人』の中で大田垣蓮月のことを書いている。「絶世の美人だったが、不幸な結婚を経て出家、歌を詠み焼き物を作って過ごした。内戦を早く終結させようと西郷隆盛を諌める歌を送った」と紹介している。それによると、慶應4(1868)年正月3日砲声が響いた(鳥羽伏見の戦い)。官軍が御勝ちになった。宮様が総大将で、錦の御旗日月をうちたるを御持たせ、薩摩様が御旗頭で日の丸のしるし。と、ちまたの状況を書いてある。それを知った大田垣連月(78歳)は、和歌をよんだ。
聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに
さらす屍「かばね」は 誰にかあるらん
老女とも思えぬ力強さで動き出した。「西郷に談判する」と。このまま国の中で人が殺し合ってはいけない、と蓮月は思った。西郷さんに会うのは蓮月にとって簡単であった。歌を指南している薩摩藩士や西郷さん顔見知りの友人もいる。しかし、会うよりも諌める歌が良いと思い、
あだ味方 勝も負くるも 哀れなり
同じ御国の 人と思へば を短冊に書いた。
西郷さんは、この和歌を見たという。大津の軍議で、諸将にこの和歌を示し内戦のあり方について悟ったのであろう。江戸城攻撃を回避したのは西郷さんと勝海舟だということになっているが、その裏には蓮月もいたことは確かである
〇「敬天愛人」はこうして生まれた その2 2022.3.14(月)
【中村正直は『西国立志伝』緒言で「敬天愛人」に言及している】
翻訳は明治3年11月に完了し、翌4年7月までに全123編初版が刊行された。彼は『西国立志伝』の緒言で次のように述べている
「百姓の議会、権最モ重シ、諸侯の議会コレニ亜(ツ)グ。ソノ衆ニ掄(エラ)バレ、民委員(メンバーオブパーラメント)タル者、必ズ学明ラカニ行ナイ修マレルノ人ナリ。敬レシ天ヲ愛レスル人ヲノ心有ル者ナリ」己ニ克チ独リヲ慎ムノ工夫有ル者ナリ」 注:「敬シレ天ヲ愛スルレ人ヲ」の「レ」は返り点
翻訳した中村正直は、号を「敬宇」と名乗った。「敬天」を意識したと思われる
【西郷さんは『西国立志編』を読んだ。そこから「敬天愛人」が生まれた】
初版が出版された明治4年以降、西郷さんは『西国立志編』を読むことができたか。この本は総計100万部売れたと言うから、明治4年の人口3,480万人を今の人口に当てはめると350万部以上売れた勘定になる。文字通り大ベストセラ-であったと考えられる。西郷さんが6年までの在京中は勿論、私学校設立後も読んだであろうことは十分考えられる
西郷さんはいろんな役職をしていて多忙であったが、読むことはできたでしょう。明治4(1871)年は、新政府の参議として手腕を振るう。廃藩置県の実施、5年には明治天皇巡行に供奉、6年は陸軍大将兼参議。後に朝鮮半島使節派遣について意見が異なり参議の辞表提出。11月に鹿児島へ帰る。7年、私学校設立。8年、吉野開墾社設立。9年、栗野岳温泉に行く。10年、西南戦争。この間、庄内藩(現山形県鶴岡市)から西郷さんに学びに来る
後年、庄内藩士の手により『南洲翁遺訓』が発行される。今、『西国立志編』を読むと、『南洲翁遺訓』の思いや文脈・流れが似ているように感じられ、私見ではあるが「西郷さんは絶対『西国立志編』を読んでいる。そこから「敬天愛人」が生まれた」と思えるのである
〇「敬天愛人」の生まれた「故郷は?」その1 2022.3.7(月)
【中村正直氏】
楠木神社に中村正直が書いた「惆舊碑」、勝海舟が書いた「惆悵舊歓如夢」の碑がある。氏について以前以下のように紹介している。
『氏は江戸生まれの洋学者・教育家で号は「敬宇」。儒学・英学を学び1866年渡英、のち啓蒙思想の普及に努力する。東大教授、貴族院議員を務める。訳著「西国立志編」「自由の理」など。(1832~91年)(広辞苑)西南戦争後、さつま町の人達が氏の訳著などを愛読し、その考えに心打たれたのであろうか?和泉邦彦(29歳)と宇都宮平一(20歳)が中村正直(47歳)を訪ね同志の願いであると懇願し碑文を書いてもらったものである。
「明治十二年巳卯十月二十三日 東京 敬宇中村正直撰並書」とある。尚、勝海舟の書は、中村正直を介して海舟に面談し、再度お願いして得たものであるから中村正直なくして海舟の碑はなかったことになる』
【『西国立志編』】
中村正直は『西国立志編』で」「敬天愛人」を使っている。この書は、西洋の有名な三百余人の成功立志談を簡潔に書いている。例えば、ミケランジェロは客の問いに答えて「この像のここを修正した。ここを磨いた。ここの筋を表した。この唇に言葉を与えた。この手に力をえた」と。彼は「些少なことは全美の功を成す。全美の功は些少のことならず」と。
ほかにウースターは茶釜の噴き出しを一書にした。トーマス・ニューコメンの蒸気機器の発明、ロシアの大将スワローやナポレオンは「あたわず(できない)という語を、はなはだ嫌い“学習す”“なす”“試みる”この三つを常に口にした」。また、「人おのおの二個の教養あり。一つは他人よりこれを受け、一つは自己にこれを成すことなり。二者のうち、自ら教養すること最要なり」
品行について、「忠順なる言語、忠順なる顔容は大いに徳行の値を高らしむるものなり」など、550ページのどこをめくってもこの種のことが書かれており、ベストセラーになっている。次回、西郷隆盛の「敬天愛人」について言及する
西南戦争を一時中断して「歴史散歩」を掲載する。
【屋地のお仮屋】
スタートは盈進館跡でお仮屋のあった現盈進小学校の所。盈進館は島津久治が、藩で最初に建てた学び舎で明治維新の10年前に造った。これは、島津斉彬の影響によろるものである。ここは江戸時代、宮之城郷の役所であった。宮之城郷は私領で、殿は家老職など藩の重要な役職を務め通常は本城(鹿児島)に常駐していた。殿は年に数回しか帰らないので「お仮屋」と呼ばれたのであろう。政治・行政などは「所三役」が行っていた(重要事項や指示・命令など、殿との連携は密に取っていたと思われる)。
【蔵元坂、蔵元橋】
伊佐地方から年貢の米俵を川舟で運んで来た。これは、江戸時代末期で、轟之瀬などの難関場所を開削してからであり、それまでは馬などが使われ非常に難儀なことだったようだ。鶴田には一泊する宿場があったようだ(旧鶴田駅近辺)。お仮屋を出て東方向に向かうと(川上方向)、川内川へ下る道があり、そこに藩米の倉庫があった。その名残から「蔵元」とついたのだろう。下流には宮之城家の蔵があり、面白いエピソードがある
農民が苦労して作り、運んで来た米の計量で、下っ端の役人であろうが、升に大盛に米を入れ、掻き棒で山盛り分を自分の股ぐらに掻き落とし、「不浄なものは殿にお出しできない」とし自分の役得にしたそうである。通称この米を「金タ〇米」と称したらしい。最も小役人も生活が苦しく自衛だったのだろうが、百姓は規定の量に自分たちでさえ余り食せないプラスαが必要だったとか。
本道から急な下りの坂であったので「蔵元ん坂」と呼んだのであるが、この道は廃れ、現在は本道の坂を「蔵元ん坂」と呼んでいる。また、小さいながらも支流が直交で川内川へ打ち出しており橋が造られている。昭和の30年代ころまでは、この道が本道であり貴重な交通の助けになっていた。江戸時代は、本元の蔵元ん坂から川内川へ降り、河川敷を遡上し一部は「滑し(なめし)」と言われる川が流れる浅瀬で川を横切りった道であり、金山街道と呼ばれていた
滑しで米を運ぶ馬がケガをしたので川原の断崖部には「馬頭観音」が作られている
【宮都大橋】
昭和33年に開通している。宮之城中心部の交通の動脈を改良するための「都市計画」が策定され実行された。屋地の町頭から対岸の柏原へと続く国道267号線になる。それまでの川の横断は「渡し舟」が往来していた。人、牛、馬、肥料や農産物などあらゆるものが運ばれていた。橋の開通祝賀の写真を見ると大勢の人が参加しており盛大であったようである。橋の名前は公募で決まったというが、宮之城の都市計画から「宮都大橋」となったとも言われている。普通なら、川原地区と轟町を結ぶので、轟川橋とかその逆になりそうだが、京都のような歴史深い都市に倣って宮都になって良い名前だと思われる
2017年は、明治150年に相当する。正確には9月8日からが起点になる。9月7日までは慶応4年であった。150年を超える前に何があったのか?有名な戊辰戦争であった。万機公論や知識を世界に求めるなどの五箇条の御誓文があった。翌年には版籍奉還があり、大名から天皇に権限が移った
戊辰戦争にはさつま町からも出陣している。戊辰戦争は新政府軍と旧幕府側との戦いで、慶應4年1月3日に始まった。鳥羽伏見の戦い、彰義隊の戦い、長岡藩・会津藩との戦争、函館戦争を言う(広辞苑)。戊辰戦争では薩摩藩の活躍が大きかった。宮之城従軍者570名、戦死者106名、同様に求名が100名・25名、山崎80名・12名、佐志60名・20名、鶴田75名・22名、永野75名・10名、中津川4名・0、合計864名が従軍し戦死者170名であった(資料により人数が異なることがある)
宮之城屋地の相良次太夫は参戦し日記を残した。下平川の湯崎十助は新潟県長岡市で戦死した。下平川の町道脇に慰霊碑が建っている。島津新八も秋田県大仙市で戦死している。島津家全体の中では彼一人だった
【楠木神社】
昨年(2021.11.28)、楠木神社についてアップしてあるので今回は言及されていないことを加筆する。明治10(18787)年、私学校の守り神であった御神体は宮之城区長だった辺見十郎太が西南戦争の直前、屋地の松尾神社(現焼き肉店)に避難させた。宮之城では社殿を建てて遷祀。神戸湊川神社に因んで湊川神社と命名した。出征兵士は必ず武運長久を祈願した
境内が狭かったので城ノ口に遷すべく太平洋戦争中、町民の勤労奉仕で造成工事が始まったが、空襲などで捗らず、戦後、現在の城ノ口に手塚安彦氏の寄付などで移され、楠木神社に改められた
盈進小学校6年生は、数年前から町内観光スポットを巡る遠足を行っている。学校を出発し第1のスポットが楠木神社である。ここではボランティアガイドの「さつまガイド」が説明・案内する。楠木正成・正行親子の桜井での別れ、宮之城に移って来た経緯、勝海舟による「惆悵旧歓如夢」碑、従軍者氏名碑など裏話を交えて話す。児童たちは驚き強い関心を寄せる
【宮之城で余り知られていないエピソード】
町内には西南戦争の戦跡、慰霊碑、物語が幾つか残されている。秀吉の九州侵攻の後、宮之城島津家が情報収集と物流の連絡のため薩摩川内市に派遣した家臣の子孫である山本は、薩英戦争には出遅れたが、戊辰戦争と西南戦争には宮之城隊員として参加した話が伝わっている。太平橋のたもとにある山本実彦銅像の彼はその子孫であり、アインシュタインの招聘などで知られている
屋地出身の大浦兼武は、官軍の長として宮之城に入り地理の詳しいので宮之城橋上流の広瀬を渡らせた。事前に宮之城に「官軍が宮之城を攻めるので小椎ケ中山に逃げておれ」と連絡して死者を出さなかった。また、部下には「鉄砲は空に向けて撃て」と命じたという。戦いの後、宮之城出身の懲役者に差し入れをするなど細かい世話をしていたという
【活発な青年団活動と若者の都市への流動】
戦後4年経過した昭和28年頃、薩摩郡内町村の青年団運動は活発であった。戦後の引き揚げ軍人の青年団活動に刺激された。言わば次の世代の青年たちであった。同25年、朝鮮戦争で景気付けられ、民主主義で自己意識が高まり町行政への監視意識が生まれていた。昭和の大合併が俎上に上っていたころである
毎年、県青協(鹿児島県青年団連絡協議会)は、霧島神宮前の青年館(正式名は失念のため、こう呼ぶ)で200人以上を集めて大会を開いた。宮之城青年団からも上牧瀬力男会長以下、役員会員たちが多数参加した。男女同権宜しく、皆々研修・勉強と言いながら旅行気分であった。若者の都市部への流動が始まっていたこともあり、見聞を広め、特に農政・農業技術・農業経営の情報収集に関心があった
【霧島青年館での大会】
大会は小里貞利さんの会長あいさつで始まり、特徴のある語り口に女性団員ばかりではなく男子団員も引き付けられた。リーダーとしての風格があった。後年、昭和5年生まれで上牧瀬会長や私(三浦哲郎)と同年と分かりびっくりした。大会は会議に慣れない若者のため議長団のミスが続いた。議長不信任の動議が頻発し、その都度、議長が交代した。議案内容よりも民主的な議事進行が重視された。それでも信任されることもあり、同じ議長に再度不信任案が出るなどあった。議長団3人の一人として、三浦が「一事不再議の原則」を説明し、同じ議案動議は再度出すことはできないと納得していただいた。青年団活動でスタートし、青年を始め人々の活動・啓発を広げていった小里氏はこの後、県会議員、国会議員となり国、故郷のために貢献している
【薩伸会】
当時の青年団仲間が中心となって、昭和34年「薩伸会」が発足した。友情をあたため、小里氏を支援し、小里氏、薩摩郡内の町村が伸びることが主旨の会である。毎回小里氏は出席し、国政報告、裏話をした。「日本晴れ最高の感激」「かいつまんで政治の裏話」「霞が関と都会の国会議員は農政に厳しい」「九州の新幹線は東京では逆風、官僚が反対、マスコミも反対している」などと解り易く話した。「新幹線は腹背に敵を受けている」と言い、断固としてやり抜く、大プロジェクトに向っていく姿があり、現実に実現の原動力になった
【薩摩郡医師会病院建設に協力】
平成になると、薩摩郡医師会は病院建設に取り組んでいた。資金計画で、財団法人自転車振興会の補助が必要であった。申請件数が多く採択されるか心配されていたが小里氏の助言と協力があって申請年度に採択された。この時、小里事務所職員は、小里氏の指導よろしく昼食ですら一緒にすることはなく清廉潔白ぶりは綺麗だった
【お下様を取り巻く相関図と出来事】
義父・忠棟(幸侃)は、島津九州制覇実現の筆頭家老の功臣であり、秀吉の九州平定時は降伏を主張し敗戦により自ら人質になった(これは歳久の敵だろう)。戦後処理で上洛し島津家の存続に貢献した。これらを通じて秀吉方の信頼を得たのだろう。太閤検地の推進役であった石田三成を通じて秀吉の昵懇衆(親しく話す相談相手)になっている
秀吉からの受けが良かったのか、所替えで忠棟は都城(庄内地方)8万石を拝領した(旧主北郷時久は宮之城に移封された=石高減の左遷)。秀吉の命で所替え、知行配分を指揮し、忠棟には不満や批判も高まった。これは、島津家を脅かすことにもなる。秀吉の朱印状を楯に島津から独立した国のように見える態度に、石田三成or家康より叛意を伝えられたり家中の噂、島津宗家の跡継ぎにも反対したこともあり家久は忠棟を誅殺する
息子で夫となる忠眞は、慶長の役での泗川の戦いで奮戦し、義弘はその武勇を見込み、政略もあったのだろうがお下を14歳の時嫁がせている。忠眞は父が殺された復讐もあり、島津家に敵対する。これが庄内の乱で、戦況は膠着する。家康の調停で一旦収まるが、家久は上洛の際、同行した忠眞をこれまた誅殺し伊集院家は滅びる
【義父忠棟、夫忠眞を兄に殺害された妻・お下様の苦悩】
庄内の乱が起きた時は、4年前(1595)父伊集院忠棟が昵懇だった秀吉から庄内(都城)地方を賜ったばかりであった。庄内の乱は半年後、徳川家康の調停により解決する。忠眞は頴娃1万石に封じられる。しかしその3年後、忠眞も兄忠恒(家久)に誅殺される
お下様は夫と義父が実の兄に殺され、悲運の人生を送ることになった。しかし、悲運はそれで終わらなかった。待っていたのは、島津家からの人質としての江戸暮らしであった。ここでも兄から見放された気持ちになっただろう。女性として、言わば円熟期に入る29歳から7年であった。帰郷後、お下様38歳の時、またもや兄・家久(忠恒から家久に変わっていた)から、宮之城島津家第3代久元に再婚するよう求められた。お下様は、自分ではどうにもできない戦国時代の大きな流れに翻弄され、数奇な運命に悩むも自分の思う通り進まなく、行動もできなかったと思う。封建時代でお家が重視される藩主家の女性として、良く耐え忍んだ人だと思う
【お下様、佐志の地に眠る】
久元とお下様の間にまもなく男の子が生まれた。佐志島津家2代目となる久近である。しかし15歳で他界する。お下様はどこまでも悲運であった。お下様はお化粧料(女性を領主にできないので実質領主で名目は化粧料)として兄・家久から3千石を賜った。16年後の66歳で死去する。宗功寺には奥方の墓も隣接するのが通例であるが、お下様は佐志・興全寺墓地に眠っている
【宮之城島津家の「殿の婚」】
NHK大河ドラマ「真田丸」があった。この中で、真田信繁の兄信幸は妻がありながら、徳川家康の申し出により、豊臣本家から結婚を勧められ断り切れずにいた。妻のおこうは「かしこまりました」と答える。信幸は妻を離縁し新妻を迎えた。封建時代の妻の在りよう、夫婦の「家」に対する在り方の一面が出ていた。その後、新妻と元妻の二人が相前後して信幸の子供を産んだ。人間の一面を見るようであった。妻のある家臣に結婚話を持ち込む家康や秀吉も相当なものだが、我が宮之城島津家の殿様にも同様なことがあった
【久元へお下様のお輿入れ】
宮之城島津家大3代久元に島津義弘の娘「お下様」を娶ってくれという島津本家からの話である。お下様は飛ぶ鳥を落とす実力者、島津義弘がことのほか可愛がった末娘である。嫌と言えるはずがない。しかし、久元は最愛の妻と二人の間にできた青年久通17歳と久茂15歳がいた。久元は決めかねていた。それを見た妻は「本家からの輿入れまでたく、これで我が家も安泰。私は身を引きましょう」と健気に言い、身を引いたという
久元とお下様の間には間もなく子供が生まれる。佐志島津家2代目となる久近である。初代は義弘の子お下様の兄忠清。ここに至るまでのお下様には」大きな苦労と悲しい事件があった。
【ドラマチックなお下様の生涯】
「人の行方と水の流れは知れぬものなり」と、浮世草子作者の江島其碩が言っている。お下様の生涯を暗示しているようである。お下様は以前結婚した経験があった。父義弘が朝鮮戦役で活躍した伊集院忠眞を気に入り、忠眞に嫁がせたのであった。お下様14歳という若さであった。その頃は、島津家と伊集院家は仲が良かったのだろう
ところが、石田三成から「伊集院忠棟(忠眞の父、幸侃とも言う)が、島津家転覆を図っている」と聞かされ、怒った忠恒は1599年3月伏見で忠棟を殺害してしまった。忠恒はお下様の兄で後に家久と改め、島津本家17代当主、初代藩主となる実力者である
【登載者の親族代表の言葉】
発行に伴い、108名の親族を代表して「川添恵子」さんに感謝の言葉をいただいた。川添さんは、夫の父、自分の母、兄嫁の父の3名が登載されています。次のような話だった
「『さつま町人物伝』に親族3名が載っており有難いことだと思います。夫の父、川添左登志は盈進小学校の教師で川原のプールで水泳指導をしていました。『黒縁メガネに日焼けした精悍で凛々しい面立ち』と紹介されています。本当にそうでした。私の母、井上可祢は長野県出身で、東京都庁勤務中の父と縁あって結ばれました。鶴田に来て婦人会活動や食生活改善推進員活動をしていました。
兄嫁の父井上了は川添左登志と同じく盈進小学校の訓導や宮之城中学校教諭、鶴田小学校校長などをしていました。宮中ではバンドに力を入れ、全国吹奏楽コンクールで第2位の賞を獲得しました。この3人が目に浮かびます。早速、この3人に『さつま町人物伝にちゃんと載っていますよ』と報告し、親戚へこの本を送り、業績を子孫に伝えていきたいと思います」
【郷土の先人たちとして、子供向など広く広報する】
町文化財審議委員の野﨑氏は、人物伝の活用について次のような提案を行った。「70年ぶりに帰郷した時、人物伝に登載されている内藤朗玄先生からこの本を読みなさい、と渡されたのが『宮之城人物伝』だった。自分にとっては、掲載されている方々の活躍や業績を通して郷土のさまざまな生きた歴史の教科書になった」
今回の『さつま町人物伝』は、生きた郷土の歴史書として位置づけ、広く読んでいただき活用してもらいたい。そのため、町広報紙にこのなかの人物伝を連載して町民に紹介していくことになった。また、出身の地区では、色々なイベントなどで取り上げるのも活用の一つになるだろう。水俣病の治療や研究に生涯を捧げた原田正純先生や文化勲章を授章された彫金の帖佐美行先生、西郷隆盛の子で地域の教育にも力を注いだ永野金山の西郷菊次郎鉱業館長など子供たちにも是非読んでもらいたいものである
【人物伝にある武二夫特攻隊員の話】
広報の一環もあり、盈進小学校の児童にこの地方が爆撃に遭った話を会長が行った。グラマン戦闘機の機銃掃射や爆弾で高等科2年の生徒が死んだ話などを行った。種々の質問があった中で、「さつま町でも特攻隊の方がいましたか?」の質問があった。会長は、人物伝記載の中津川の武二夫海軍少尉18歳10ケ月(今の高校3年生)の話をした。昭和20年5月4日、ゼロ戦で沖縄周辺の敵哨戒艦に体当たり攻撃突入した衝撃的な話である。教室全体が一瞬沈黙し静まった。遠い話ではなく、身近で若い人のことであり戦争の悲惨さを現実味のあることと受け止めてくれたのではないだろうか
【先人たちの業績や歴史に学ぼうと編集された】
さつま町の先人たちの業績や歴史に学び、さつま町のますますの発展に資することを願って「さつま町郷土史研究会」より出版した。さつま町は昔から「祁答院地方」と呼ばれ、各地区に政治、経済、教育文化、保健福祉、その他各分野に渡って多くの先人たちが競い合い、連携し助け合いがら一体的に発展してきた
合併10周年を迎え、将来を展望し、これらの先人たちの生き方や業績、教訓などを広く町民に紹介し顕彰したい。また、青少年の指針にもしたい。このため、さつま町ゆかりの町外、県外の方々にも広く発信し、さつま町のこれからの向上発展に結び付けたい、目的であった
【好評で予想を上回る予約により増刷!】
三浦編集委員長のもと、平成24年より会員58名で3年6ケ月かけて完成した。町からの補助金と会員の手弁当で調査・執筆を行い、販売価格600円という低価格で発行できた。無償配布200部、当初予約目標を上回り最終的に700部となり、合計900部の印刷となった。今後は、町作り人作りに活かし、知れていなかった先人の生き方、業績を顕彰することにより、さつま町の文化発展への寄与、青少年育成に役立つもと確信する
【204名登載・帖佐美行先生や原田先生など紹介】
副委員長・黒田氏は人物伝の概要を次のように紹介している。「表紙は帖佐美行先生の作品『田園』が飾られている。既刊の『宮之城人物伝』の96名に今回の108名を加えると204名が掲載されている(政治行政部門:24名、教育:15、文化スポーツ:21、宗教:2、経済産業:19、保健医療福祉:12、軍人:5、他:10)
帖佐美行先生は山崎生まれで、13歳で上京し25歳で彫金の世界へ入り工芸作家となった。昭和57年、宮之城町名誉町民、平成5年には文化勲章を授章。生涯作品1000点以上、奈良東大寺には作品が展示されている。今年(H28か?)11月下旬から宮之城歴史資料館で『帖佐美行生誕百周年記念展~彫金を求めて』が開催された
原田正純先生は10歳の時、熊本で空襲に遭い母親を亡くし父のふるさと平川に帰郷し、平川国民学校、宮之城中学校、ラサール高校、熊本大学から医学の道に進んだ。水俣病の第一人者として「治らない病気を前に、医者は何ができるか、何をすべきか、診た人の責任」として病気を解明・活躍した。そして水俣学研究センターを立ち上げ、センター長として尽力された
【さつま町は2回空襲 虎居橋下では水泳中機銃掃射された】
昭和20年7月27日と29日の2回、さつま町は空襲を受けた。戦争が終わる19日前の昼間だった。学校は夏休み中で、盈進小には日本の兵隊がいたが」、その日は訓練で留守だった。兵隊の食事は白いご飯であった
児童は学校にプールがないので川内川で水泳をしていた。その日は、虎居橋の下では、飛行機が低く飛んできたので日本の飛行機と思って手を振ったり万歳をしていた人もいた。ところが急に機銃掃射し爆弾を落としたので皆びっくりして川の中に潜ったり、隙を見て崖の所に逃げ込んだり側溝に隠れたりした
【グラマン3機が次々に機銃掃射した】
アメリカのグラマン艦上戦闘機が航空母艦(空母)から3機編隊で飛んで来て攻撃した(2機だったかも知れない)。アメリカのグラマン社が作った戦闘機で、低空飛行し機関銃でバンバン攻撃した。機銃弾5~6発毎に曳光弾1発があって、火を噴き光っているので(弾道が分かるので)弾が命中したことが良く分った。曳光弾が当たると火事になることもあった。虎居橋めがけて小型爆弾が落とされたが、当たらず川に落ちたが爆発の水柱も上がらず不発弾だった
【盈進校・片倉製糸工場・商店街を攻撃した】
同じ日、さつま町から川内まで空襲を受けた。川内川に沿って町が次々に空襲を受けていった。攻撃は1ケ所に10分から15分位だった。広橋の駅は火事になった。また近くの鉄橋を狙って爆弾が投下されたが外れて無事だった
盈進校の裏の末吉製材所(現林田内科)の庭は小型爆弾で穴が出来た。商店街では警察署(現だいわの隣)の庭、鹿児島銀行の近く、信教寺の前に小型爆弾が落ちた。信教寺前に落ちた爆弾で近くの里いも畑に避難していた盈進校高等科2年の生徒が即死した。片倉製糸工場(現だいわ)では、繭倉庫に曳光弾が当たり火事になったがバケツリレーで消し止めた
宮之城養蚕学校(現薩摩中央高校の前身・現JA北さつま本所)にはグラマン3機が、雨乞ケ石の隣である菊水谷上空で旋回し、次々に機銃掃射した。しかし、大きな被害はなかった。宮之城を攻撃した後、山崎も同じように攻撃された。山崎橋に爆弾を投下したが当たらず不発弾であった。その後、東郷の町を攻撃した。東郷では曳光弾のため火事が起き、折からの風で東郷の町は3分の2が焼けてしまった
川内市は翌30日、20機位で焼夷弾攻撃され大火事になり市内は全焼するような大きな被害を受けた。高江小学校では29日、「明日攻撃する」とのビラの予告通り30日にグラマン機の攻撃があり、農作業のため登校中の児童2名が死亡した。鹿児島市は6回空襲を受けた。夜間、焼夷弾爆撃を受けた。さつま町からも南の空が真っ赤に染まったのが良く見えた。死者2,316人、負傷3,500人、焼けた家22,143戸に達したと言う
【さつま町内の犠牲者多数】
日中戦争と太平洋戦争におけるさつま町内での戦死者は1,674人、この外、引き揚げで途中で死んだ人、戦争で負傷した人も多かった
【終戦直後は食糧不足、種子島・甑島から疎開児童が来る】
戦時中、さつま町の小学校の児童は殆ど裸足で通学し、給食はなかった。弁当箱に詰めたご飯の真ん中に赤い梅干しを入れると、まるで日の丸に見えたので「日の丸弁当」と言って持って行った。終戦の年は食糧難で代用食だった。お米がないので芋や団子を食べた。戦時訓練と言って兵隊さんになる訓練があった。腹ペコで訓練はきついものだった。神社で、兵隊に行く出征兵士の安全を祈り、駅で見送った
さつま町の小学校には、種子島と甑島から疎開児童2015人が来て各地の公民館や農家に泊まった。付き添いの保護者と先生が世話をした。食糧がなく、食事を作るのに苦労された。(私の母の経験では、低学年生は小さい子供のお守をし、高学年生は田んぼや畑の作業を手伝った)
戦時中は、ノミやシラミに悩まされた。これは戦後も一時続いた(頭に白い粉の殺虫剤を噴霧し、おかっぱ女性の頭は白髪みたいになっていた)。教室は学童児童でぎゅうぎゅう詰めになり、一時、2人用机に3人が着席する教室もあった。泊野小では、全校生徒数よりも多い80名が甑島から疎開して来た。疎開児童に赤痢が発生し隔離する所がなかったので、泊野川の脇に茅葺小屋を造りそこに収容された。20人罹災しうち3人が亡くなった。戦争は戦地ばかりでなく、こんな田舎まで巻き込んだ
当時は奉仕作業や配給生活であった。物が少ないので、割り当ての範囲で買い物をした。農作業の手伝いもした。生活用品の米、砂糖、味噌・しょうゆ、果物など配給切符制だった。物を買うと切符を切り取られ、無くなると何も買えなくなる。切符があっても品物もないことも多かった。軍艦や飛行機を作るため、鉄や銅は供出させられた。盈進小の大浦兼武銅像も供出され、お寺の鐘も供出されてなくなった
【毎日のように空襲警報が発令されサイレンが鳴った】
今は災害の時、避難指示などが無線で放送されるが、戦時中は警戒警報が発令されるとサイレンが鳴り防空壕に避難した。B29(※)の大型爆撃機が何十機もさつま町や川内市、甑島の上空の高い所を毎日のように通り北九州の八幡製鉄や都市を爆撃した。警戒警報のサイレンで防空壕に逃げ込んだ。夜中であっても逃げ込んだ
私の家は、防空壕は庭に掘った。よそでは土手に横穴を彫ったり、裏山に掘ってすぐ避難できる所に随所にあった。あるいは、100~200m離れた所もあった。後に慣れてしまい、非難しなくなった
※B29はアメリカの爆撃機。乗員11名で爆弾を5~6トン積んで9,000~10,000m上空を飛行した(これは日本のゼロ戦は届かない高さ)。全長30m、翼長43.1mで超空の要塞と言われた。太平洋戦争では、3,900機が延べ33,000機出撃し714機(18%)がなくなった
『さつま町人物伝』編集作業に中で気付いた宮之城町名誉町民の彫金家帖佐美行先生の大変良いお話に一部を紹介する(昭和62年(1987)8月12日勲三等旭日中受賞記念祝賀会でのお話から)
「小さい頃山崎で椋の木に登った。大銀杏や田んぼの様子が懐かしい。上京し苦労しながら努力して今宮中で賞をいただき、陛下からお言葉を賜り幸せを噛みしめている。国会議事堂には安田(靱彦)や前田(青邨)の絵と交代に私の作品(彫金)が飾られており大変うれしい」
また、奈良の東大寺から帖佐作品が欲しいので自由に作ってもらいたいと注文を受けこれまた嬉しい。天平時代の作品のある正倉院に昭和の私の作品を加え何年もの後の人たちが見てくれる。彫金は長持ちする。昭和の文化を作ることだと思う。本州四国連絡橋は百年とは持たないと思う。わたしの作品は一千年後まで残る。良い作品を作りたい」
昭和63年(1988)1月30日、文化功労者記念講演会での話から、
「12歳で上京、芸術家ではメシは食えないことを知らずにこの道に入った。冬など辛かったが楽しかった。先輩や師匠からは何も教えて貰えなかった。今、私は反省している。弟子達に何でも教えたから。教えたことを弟子たちは鉄則と思って外の方法を探らず開発しようとしない。このため、進展がなく苦労してこそ良い作品ができる。子供には余り自由を与え過ぎてはいけないことだと思うこの頃である」
【『さつま町人物伝』の発行】
『宮之城人物伝』(昭和58年発行)に続く第2版となる『さつま町人物伝』発刊された。さつま町郷土誌研究会が取り組み、平成24年に編集委員会を立ち上げ平成27年の新町10周年記念祭を目標に進められた。第1版後、旧3町を含め貴重な功績を残された方々の
業績、生き方、人となりを明らかにしたい思いから発刊された
町並みや商店、農村、金山跡、各種インフラなど生活に係わる設備や文化や祭り、踊りなど色々な生活・行事は日ごろ恩恵を余り感じず生活しているが、これらは先人が築き上げた歴史や物語がベースにある。人物伝は一人ひとりの個人史ではあるが、108人と既刊の96人の集積を見渡すと、さつま町の歴史、薩摩藩の歴史が見えてくる。昭和、大正、明治はもちろんであるが江戸時代、鎌倉時代まで見えてくる
町民、特に若い方々には先人の生き方を知ってもらい故郷を知り大きく羽ばたいてもらいたい
「わが町を知るツアー」が数年前に実施された。8月の猛暑が続く中での実施で会った。紫尾山・鶴田ダムコース44名、宗功寺・紫尾山・紫尾神社コース17名であった。参加者の一部に紫尾山の三石碑を知らないとか気付かなかったという人が少なからずいた
紫尾山は標高1067m。頂上までは、国道504号の堀切峠からヘアピンカーブの多い急坂4Kmの道のり。現在は頂上まで車で行ける道が開けている。当日は猛暑と言われる日だったが山頂は涼しく体感温度5度位低いと感じた
【有機農業の福岡正信碑】
堀切峠の登山道入り口に左右に石碑がある。左手に福岡正信碑、右手に椋鳩十文学碑である。
☆大地に道狭無く 紺碧の空に遅速無し 正信
福岡正信は、有機農業(自然農法)の世界的先駆者である。化学肥料の農業への利用をひかえ、有機肥料を利用して安全で味の良い食糧によって人類の健康を守ろうと実践活動した。
貧困地区に食糧を生み出す活動などでアジアのノーベル賞と言われるフィリピンのマグサイサイ賞やインド最高栄誉賞を受賞している。1913(大正2)年生まれ93歳で死去。さつま町との係わりは不明(尊敬者が建立したと思われる)
☆神は万物を知りて一言を言わず 人は一言を知りえずして万物を説く
【椋鳩十碑】
☆以山心高 如林心深 椋鳩十
椋鳩十は紫尾山の取材に来て紫尾山の動物物語を書いている。赤い霜柱、犬塚、山の民とイノシシ、お春を中心とした山窩物語(山間を漂泊して暮した民)などがある。この碑の句はどんな思いで書かれたのか、読む人はおのずとお分かりと思う。子や孫に伝えたいものである。また、
☆感動は人生の窓を開く ☆力一杯生きる
などの記念碑が鹿児島県内十数か所にあるという
【王貞治記念碑】
山頂には王貞治選手が書いた記念碑がある。
☆孔子登東山而 小魯
登泰山而 小天下
意味を紫尾山に当てはめると、北薩一の紫尾山に登って九州を見ると薩摩は小さい。日本一の富士山に登って世界を眺めると、日本も小さい。若者よ世界に目を向け雄飛せと!。この句の後段は、盈進校と流水校の校名となった「源泉は…盈して進む、流水のものたるや…」に続く
【阿久根出身の外務卿 松木弘安】
王貞治記念碑の碑石は、阿久根市脇本の松木弘安(寺島宗則)家の「わらうち石」であった。この弘安のまつわる三話
1. 弘安の養父は医者であった。昭和になってさつま町山崎の黒肱病院から嫁に行っている。
2. 弘安は鹿児島中央駅の「若き薩摩の群像たち」の15人が江戸末期、国禁を犯して渡英した時の副団長格であった。自らも勉強し、明治時代には神奈川県知事を務める。外務卿の時、スペイン・ハワイ国と条約交渉全権で、また、米英独などとの条約改正交渉に当たった大活躍した政治家であった。伯爵、1893年62歳で死去
3. 薩英戦争で五代友厚と英国の捕虜となり、英国の軍艦で横浜へ行き各国の情報を得た。それが渡英、薩摩の開明、日本の近代化に影響を与えた
この2、3項は南日本新聞社の「衝突が生んだ友好」特集を参考にした
【西郷さんが尊敬した楠木正成・勝海舟】
西郷さんが尊敬した人物として、西郷顕彰館に次の8名を掲示してある。
ワシントン、ナポレオン、藤田東湖、勝海舟、橋本左内、菅原道真、高山彦九郎、楠木正成
西郷さんは神戸の湊川神社に参詣している。明治維新の志士、坂本龍馬、高杉晋作、大久保利通らも参詣している
【題楠公図(楠公の図に題する):南洲遺訓集より】
西郷さんが楠木正成を尊敬していたことを表すものとして楠公を称える漢詩がある。南洲遺訓集に詩が乗っている。「解」も遺訓集による
奇策明籌不可謀 奇策明籌(めいちゅう)謀(はか)る可(べ)からず
正勤王事是真儒 正(まさ)に王事(おうじ)に勤(つとむ)る是真儒(これしんじゅ)
懐君一死七生語 懐(おもう)君が一死七世(いっししちせい)の語(ご)
抱此忠魂今在無
此の忠魂を抱くもの今在りや無しや
(解)
奇抜な策略、明確なはかり事、到底尋常人のはかり知る事のできない所であり、一も二もなく真正面から勤王の事にぶつかって行かれた楠公こそは本当の儒者(孔子孟子の道を学ぶ者)である。追懐すれば、公は自刃の際に「七たび人間に生まれてこの賊を滅ぼそう」という言葉を残されたが、このような立派な忠義の魂を抱いている者が今の世の中にいるであろうかどうであろうか
【楠木神社の珍しい歴史を発信しよう】
楠木神社の歴史を紐解けば、まだまだ多くの史料があることと思う。No1~No3までの内容はごく一部であるが、それでもさつま町の誇るべき史実である。楠木神社は由緒ある神社で、ご神体は「誠に珍重すべきもの」である。史跡として神社を荘厳な環境に整え、物語を整理・充実させさつま町の珍しい歴史探訪スポットとして広く発信していく努力が必要!
【水戸黄門奉納のご神体と勝海舟の碑】
先述の通り楠木神社には、水戸光圀(黄門様)が奉納した大楠公のご神体(木像)が現存している。更に、西南戦争戦死者を悼む記念碑2基がある。一つは西郷隆盛と江戸城開城の任を果たした幕末・明治の政治家「勝海舟」が書いた「惆悵舊歓如夢」の碑で巨大な自然石に大書きしてある。左側に「明治十二年仲秋応需 勝海舟安房書」と記名されている
平田宗隆氏の「ふるさとの歴史」による碑文の意味は、「惆悵」とは悼み悲しむこと、「舊(旧)歓」とは昔の“よしみ”ということで、江戸城開城の時2人が肝胆相照らして江戸を戦火から救ったその頃を思えば、思いもかけずに西南戦争で西郷さんを失って悲しみに堪えないことよ!と解説されている
この文言は、西南戦争の後、宇都宮平一が東京氷川天宮に居た勝海舟を訪ねて書いてもらったものである。初め勝海舟は断ったが、宇都宮が13回もやって来たので根負けし、その碑文を引き受けたという話が伝わっている
【中村正直の惆悵碑】
もう一つは中村正直撰の「惆舊碑」。氏は江戸生まれの洋学者・教育家で号は「敬宇」。儒学・英学を学び1866年渡英、のち啓蒙思想の普及に努力する。東大教授、貴族院議員を務める。訳著「西国立志編」「自由の理」など。(1832~91年)(広辞苑)西南戦争後、さつま町の人達が氏の訳著などを愛読し、その考えに心打たれたのであろうか?和泉邦彦(29歳)と宇都宮平一(20歳)が中村正直(47歳)を訪ね同志の願いであると懇願し碑文を書いてもらったものである。
「明治十二年巳卯十月二十三日 東京 敬宇中村正直撰並書」とある。尚、勝海舟の書は、中村正直を介して海舟に面談し、再度お願いして得たものであるから中村正直なくして海舟の碑はなかったことになる
「楠木正成」は南北朝時代の武将。河内の豪族で元弘1(1331)年、後醍醐天皇に応じて兵を挙げ、千早城に籠って幕府の大軍と戦い、建武政権下で河内の国司と守護を兼ね和泉の守護ともなった。後に九州から東上した足利尊氏の軍と湊川で戦い敗死する。大楠公とも呼ばれ1294~1336年(広辞苑)
さつま町宮之城屋地城ノ口にある「楠木神社」や境内が荒れたままになっていたので、環境を整え再興できないか数年前より話し合いが進められ、体制作りや広報活動が進められている。因みに、ご祭神は「楠木正成公」である。
神社には神職はもちろん、神社を維持する氏子総代が必要であるが、楠木神社関係の方々は全て死去されており後任は未だ決定されていない状況である。これは、戦前に西南戦争や町の主導者により“総意”により創建されたのであるが、戦後、遷座・政経分離により運営主体が神社庁と民間になり現在に至っている。
【御神体は木像】
楠木神社の言い伝えでは、御神体は水戸光圀(水戸黄門:1628~1700)が光巌寺(兵庫県神戸市)に奉納した三体の内の一体を宮之城(さつま町)の神社に移した。他の二体は現存していないという。木彫りの極彩色の立像で、高さ約25cm。寺田屋騒動(1862)で討ち死にした伊集院出身の有馬新七が光巌寺の許しを得て持ち帰り、伊集院に社殿を造営し盛大な遷座祭を行った。尚、光巌寺の隣に水戸光圀が建立した「嗚呼忠臣楠子之墓」があり、近くに明治5(1872)年、湊川神社が」創建されている
【辺見十郎太が宮之城へ移す】
その後、御神体は鹿児島軍務局、私学校の守護神、鹿児島神宮への合祀を経て明治10年、西南戦争の折、宮之城地区区長・辺見十郎太が県令の大山綱良の許可を得て宮之城へ避難させ移した。明治18年、盈進校の南東方向にある松尾神社(現焼き肉屋「一福」)に社殿を造営し湊川神社と名付けられた
【戦後、城ノ口に遷座され楠木神社と改める】
日中戦争・太平洋戦争への応召兵士は湊川神社に参詣し、盈進校の児童も武運長久を祈願し駅から見送った。高齢の方は記憶に残る風景である。昭和16年、戦時体制に中、宮之城町民の労力奉仕により用地造成が始まり、戦後城ノ口に遷座された。その時、楠木神社と改名された。そして昭和44年、現在の鉄筋作りとなった。近年、御神体の木像が存在していることが確認され関係者一同安堵している。更に、最近安全上の理由で、ある場所に遷座されている(場所は非公開)
【15代島津久治公】
宮之城島津家代15代領主島津久治が「盈進館」「厳翼館」を創建した。久治公18歳の時であり、あの英明な久光公の次男にあたる。高度な教育、良き薫陶を受けリ-ダーとして成長した伯父で藩主の斉彬公が造士館の改革振興に尽力され安政4(1857)年、学問の振興を図れと「訓諭」を出された。「郷村ごとに学校建設を」の趣旨にいち早く応えられ、翌年の安政5年10月に学びの盈進館、武芸の厳翼館を1万2千両の大金を投じて創建した。明治維新に先立つ10年前のことであり、現在の盈進小学校は創立160余年を迎え、県内でも最も古い小学校となっている(宮之城郷は屋地村、虎居村、船木村、時吉村、平川村、柊野村、湯田村、求名村の8村で、前記4村は近年まで盈進小学校の校区)
【久治公と宮之城郷士】
盈進館ができてから10年後、戊辰戦争が始まり宮之城郷士たち132人が参戦した。鹿児島へ出向き、私領4番隊となり久治公の激励を受けて出発した。翌年の凱旋の時も久治公の口達(口頭で伝える)や酒、料理などを受けた。参戦した人たちは殆どが盈進館で学んだ人たちだったと思われる。確証はないが耳にする言葉として、久治公は「(立場上)公武合体派」で倒幕に積極的ではなかった。このため参戦した兵士、藩内・郷内の武士から領主として微妙な立場の追い込まれたと思われている
彼は英国との薩英戦争の戦後処理や明治4年、吉野の第12郷校建設に伴い困った郷民に無償で良材を分け与えている等優れた人物だったと思われる。ただ、時代が激変する中で難しい対応であり若くして自死を選んだとされる。郷士たちと交わされた言葉はどんなことだったのだろう!
【徳富蘇峰揮毫の扁額】
盈進小学校に大きな扁額がある中の一つに徳富蘇峰独特の力強い筆致ものがある。「『自強不息』に為盈進小学校」とある。水俣市の「徳富蘇峰の家」に確認した所、間違いないとのことである。蘇峰は明治・大正・昭和の戦前まで新聞記者であり、教育者、批評家、政治家として活躍し著書も多い。
盈進館に始まるり盈進学校⇒盈進尋常小学校⇒盈進尋常高等小学校⇒盈進国民学校と変遷し古い歴史を持つ小学校であるが、現在の盈進小学校となったのは昭和22年4月である(これは団塊世代生まれではないか!)。蘇峰が亡くなるのは昭和32年までの間に揮毫して頂いたことになる。不息(やすまず)「勉強に励む」と自強(おのずから強くなる)の意味か?
【宮之城島津家は「一所持家」、垂水島津家は「一門家」】
宮之城島津家は当初「宮之城」に居城していた。元和元年(1615)の「一国一城令」で取り壊され、今の盈進小学校の地に領主仮屋を建てて居た。3代久元の時代(1609~43)、藩内の領主は鹿児島城下に住むようになり旧県庁の地に「宮之城上屋敷」(隣は垂水上屋敷)、小川町の付近に「宮之城下屋敷」を構えた
宮之城島津家の家格は「一所持家」で正徳2(1712)年に定められた。島津氏の一門家は加治木、垂水、重富、今和泉で、宮之城家はそれに次ぐ一所持家で重んじられ、藩の家老職や重要な食を代々務めて来た
【長丸公と治子夫人の絵】
宮之城島津家第16代島津長丸公の扁額と東宮女官長になった治子夫人の掛け軸を城ノ口の平田家が大切に保存している。長丸公の「偕老」の書は1畳程の扁額。夫婦仲良く老いるまで連れ添うという意味。雅号の「脩徳」の記名と落款がある。治子夫人の掛け軸の絵は「絹絵」で「歳寒三友」とし、冬の寒さに堪える松の老幹に松葉を配した墨絵。また、大正2年春を表す「癸丑春日」「文翠女子」としたためてあり落款もある
【美人画の松田健彦】
剣道の達人で、戦前、宮之城農蚕学校(薩摩中央高校の前身)で漢文を教えていた松田清次さんの長男。宮之城屋地(現町役場駐車場)の地に生まれる。若い頃、絵画を学ぶため上京し鏑木(かぶらぎ)清方に師事し日本画家伊藤深水らと日本がを学ぶ。浮世絵系の美人画と虎の絵が得意で雅号は「素方」。昭和58(1983)年没、82歳。町頭の松田家に山水画四偏と歴史資料館に「牡丹と孔雀」、また、城ノ口に「富士山」「牡丹と孔雀」がある
【松田健彦さんの絵】
松田健彦作の扁額「富士山」と「牡丹と孔雀」の腰屏風は城ノ口の平田家が保存している。美人画が得意な健彦は富士山にも興味を示した。ここの富士山は東海道の並木を思わせる数本の老木があり、視野が広く全体を抱擁するゆったりした富士山である。腰屏風の絵「牡丹と孔雀」は、華麗豊満な牡丹に二羽の孔雀が戯れており冠毛と羽が美麗に描かれている
【舟運監視の勘定場】
伊佐地方や川内川流域の村々から薩摩藩や島津家へ上納する米を川舟で運んでいた。その米は一旦、宮之城蔵や祁答院蔵に収納していた。その後、藩船で山崎、東郷を経て川内川河口の船間島へ搬送していた。それらの監視役人の横目や取締り見聞役の勘場が轟町にあった。左岸の川原川にある水神様付近の対岸(右岸側)にあり、不正な無いように監視していたのだろう
【殿様水】
宮之城島津家領主が轟之瀬の茶屋を訪れたとき、ここの泉の水でお茶を献上したので「殿様水」と伝えられている。江戸時代、掘削の泉は岩盤を上中下三段に刳りぬいてある。上段の泉は殿様用、中段下段は一般用と言われいる。飲料にもなえう水が一年中流れていたが現代の区画整備事業後、住宅化が進み、更に河川工事によって水量が少なくなってきている
【轟原渡し場跡】
轟町と川原町を川舟で結ぶ轟原渡し場跡。宮都大橋(みやこおおはし)の直下、亀石がある所。昭和33(1958)年、宮都大橋が築かれるまで渡舟が活躍していた。渡舟は舟底の平らな長方形で牛一頭と数人の大人が乗ってもびくともしなかたそうだ。この渡舟は江戸時代から続いたのだろう。農蚕学校~農高生の通学舟でもあった。農産物や人畜同舟の渡舟は、四季を通じて風情があたった
【がちゃ岩】
川内川の轟原側川岸近くの水面すれすれに無数の岩が頭をがちゃがちゃ出している。魚採りや水泳する子供たちの休息、交流の場でもあった。平成になり、水深が浅くなっている。白鳥や鴨の群れが休むところにもなっている
【与謝野寛・晶子歌を詠む】
昭和4(1929)年7月30日、川内出身の山本実彦の案内で轟之瀬から広瀬、八女瀬と船下りした。寛3首、晶子21首を読んでいる
・山すこし 遠のくごとく 夕空を 木立と橋の うえに置くかな 寛
・船速く 波のすだれの 上行きぬ 川内川の 広瀬のゆふべ 晶子
【西南戦争で薩摩・官軍が渡河した地】
明治10(1877)6月22~23日、薩摩・官軍が虎居から屋地側へ、広瀬(川の上下流で一番浅く、歩いて渡ることが出来る浅瀬)を渡った。屋地出身で、後に内務大臣・農商務大臣など歴任した官軍の大浦兼武は、部下に川の浅い箇所を教え渡河させた。そして郷里である宮之城の人々に危害が及ばないように「鉄砲は空に向けて撃て」と命じたと伝えられている。大浦自身は「川口」を渡った
ここはさつま町でも風光明媚な観光箇所。清流が奇岩にぶつかり轟音と水飛沫が発生する自然の造形物で、すぐ下流は江戸時代にコメの集積基地があり賑やかな場所でもありました。
(轟之瀬と左右岸の「川原」「轟原」ついては、他のタグで別の話題も挙げたい)
【川浚えの地】
轟之瀬には3つの流れがある。本流とは別に左岸側は「新川」、右岸側の流れは「切轟(きりと)又は切通(きりと)」と言われている。この流路は、「宮之城第4代領主久通(寛永20~漢文12年)<1643~1672>の時、八百屋与兵衛が来て通船をはかり、岩を砕くといえども水勢荒く舟の通行は成難」と宮之城記にある。本流の水勢を弱める分水路であったが意図通りにはいかなかったようである。今でも岩石を砕いた穴が存在する。左岸側の「新川」は、第14代久宝の天保14(1843)年に川浚えが行われた。「焼き石法」で巌石を焼き、切り開いたと伝えられる
【宮之城轟太鼓発祥の地】
轟之瀬の激浪と飛沫の音色を取り入れた宮之城轟太鼓がこの地で誕生した。大太鼓、小太鼓、締め太鼓の響きに乗せ、揃いの衣装にきりっと締めた鉢巻き姿でバチを操る勇猛さが圧巻である。昭和50(1975)年に誕生し、各地の太鼓ブームの先駆けとなった。江戸時代から続く神社などに奉納する太鼓踊りの太鼓とは一味違った勇壮で荘厳さが感じられる
【水天と水天神社】
川端の楠木の所に水天が鎮座されている。元文3(1738)年建立の宗功寺公園入口の石塔に霧島大権現などと一緒に「水天」が記載されているので元文時代より前から鎮座されていたことになる。水天神社は天保14(1843)年の川浚えの後、第14代島津久宝の勧請で弘化2(1845)年建立の奉寄進の記録から、当時建立されたと考えられる
【殿様憩いの轟之瀬茶屋跡】
場所は、現在の轟原公民館用地。江戸時代、宮之城島津家歴代の領主が轟之瀬の茶屋(簡単な茶室風座敷)を訪れ、お茶を取り景観を愛でたり、鮎やもくず蟹などに舌鼓を打ちながら憩いの一時を過ごした、と伝えられている。轟之瀬は昭和2年、鹿児島新聞(南日本新聞社の前身)主催の読者投票で「鹿児島新百景」に選ばれた。昭和39年、川内川流域県立自然公園に指定された
篤姫が生きた幕末、特に夫君の徳川第13代将軍家定が亡くなり天璋院となった安政5(1835)年を中心に、「天璋院篤姫」「鹿児島県史」「宮之城史」などを参考に歴史のうねりを見てみたい
【篤姫が生きた幕末の薩摩と宮之城】
篤姫は天保6(1835)年12月、今和泉家に生まれた。今から180年以上前である。そして、激動の中、主体的に生き、大奥をリードし、風格ある人生を終え明治16(1883)年、48歳の生涯を閉じた
篤姫は嘉永6(1853)年3月、満17歳3ケ月、島津斉彬の養女となった。従って、斉彬の弟久光の子、宮之城島津家領主久治とは系図上従姉弟となる(かなり強引!)。その年の10月、江戸の薩摩屋敷に行った。この頃、英国や米国のペリーが軍艦を率いて、度々沖縄に来ていた。薩摩では今和泉や祇園の洲に砲台を築いたりして警備の強化に努めた
【夫君家定死去、篤姫22歳8ケ月で天璋院となる】
篤姫は、安政3(1850)年12月、将軍家定の御台所(「御台盤所」の略で、大臣・将軍などの妻の総称)。安政5(1858)年7月、夫の将軍・徳川家定と頼りにしていた薩摩藩主で養父の斉彬が相次いで亡くなった。篤姫は翌8月落飾(王侯、貴族などが出家すること)し「天璋院」となった。僅か22歳8ケ月の若さであった
【混乱に揺れた朝廷・幕府】
安政5年、朝廷はまだ海外との貿易や開国事情に疎く、鎖国攘夷を望んでいた。一方、幕府は時代が大きく開国に動いていることを知っていた。井伊直弼が大老となり、開国への政策転換を進め、反対派志士の逮捕(安政の大獄)弾圧した。このように朝廷と幕府が攘夷と開国に分れ、更に跡継ぎ問題も絡んでいた。
井伊直弼が進める幕府では、朝廷に無断で安政の仮条約を締結した。鎖国から開国への大転換であった。米英蘭露仏5ケ国と次々に締結したが不平等条約であった。これらの解決は日露戦争まで待たなければならなかった
薩摩では斉彬の集成館事業が成功し、大砲、火薬、薩摩切子や生活用品などを作った。一方、倒幕問題にからみ西郷隆盛と僧月照が錦江湾に入水した。西郷さんは助かったが、その後、徳之島、沖永良部島に配流された。その後、明治維新までの薩摩、宮之城の動きがご承知のとおりとなっている
【その時代の事業】
・天保14(1843)年、轟之瀬の川浚えが完成(篤姫7歳頃)
・安政5(1858)年、盈進館、巌翼館創設(篤姫4歳頃)
西南戦争から140余年。新聞を始め各地で隠れた歴史が発掘されています。宮之城でも関連することが数多くあります。宮之城出身者は389名で81名が戦死しました
【鉄砲は上に向けて撃て】
明治10年5月21~23日、紫尾山方面から来た官軍が宮之城を攻撃しました。そして、川内川の(虎居橋上流の)広瀬などを西郷軍、漢軍が共に渡りました。指揮官?だった大浦兼武は部下に、「鉄砲は上に向けて撃て」と言ったこと、「宮之城の人たちは小椎ケ中山に逃げておれ」と連絡していたというエピソードがあります
大浦少尉は上記以外、兵火が故郷に及ぶ事を懸念し、兵士に放火・略奪をを厳に戒めたと言う
【関家の小襖の落書き】
官軍の兵士が関家の小襖に落書きを残しています(現代語に一部変換)。
「今や西郷隆盛暴虐無道 己れ一身の欲を逞しゅう達せんと欲しみだりに汝ら天与の権利を妨害し天兵に抵敵し屍を原野に露すとは嗚呼又汝らの愚鈍なるかな書して茲に至れば汝らの為めに涙の潜然たるに至る 吾人皆な我か日本帝国三千五百萬有餘の人民にして今皇帝陛下の赤子なり 興に同心協力我国の光栄を発揮し 開花の域に進まざる可からす 然るに之れを是レ察せす兄弟相殺し天下を動揺せしむ 是汝の罪に非すして即ち隆盛の罪也 實に隆盛の罪天地に容る可からす 共に天を戴かざるの敵也 汝を宜しく之れに注意し前非を悔ひ速に官軍に帰順す可し此段及論告
鹿児島県士 賊徒馬鹿 官軍」
【獄中日記と大浦兼武】
西郷軍に参加した萩原金左衛門は、戦後捕らえられ東京市ヶ谷監獄に服役した。その獄中日記によると、大浦は同じ宮之城出身ということで萩原を見舞っている。大浦の妹は平田家の嫁であったが大浦のために離縁させられている。大浦は後に逓信大臣、農商務大臣、内務大臣などを歴任している。大浦の銅像が盈進小にあったが、太平洋戦争で供出され、現在は台座だけが残っている
【惆帳舊歓如夢】
楠木神社には、西南戦争後、和泉邦彦、宇都宮平一(共に後衆議員議員)らが薩摩を良く知る勝海舟に揮毫を頼みようやく書いてもらったという「惆帳舊歓如夢」(明治12年仲秋応需 勝海舟安房書)の大きな自然石の記念碑がある。「かつて親しくしていた、今悼み悲しむ、夢のようだ」との意味でしょうか
轟之瀬にある水天宮神社に石燈籠(弘化2<1848>年)があり、「大磯作兵衛徳□」が作ったことなどが彫られています。その他多くの石像、木像を彫ったのは大磯家で、宮之城城之口の先祖であります。川内郷土史研究会の小倉一夫氏の研究で、次の系図が分かっています
・大磯作右衛門(平徳親1680~)-作兵衛(平徳幾)-作也(平徳包)-可仙(徳奥)-作兵衛(徳栄1820~1868)
(作兵衛が二人出ているのは、祖父などの名を孫などに名付ける風習だったのでしょう)
石燈籠に彫ってある文字から、水天神社をつくるのに仁科源左衛門、大磯作兵衛が係わっているが、弘化2年の2年前、天保14(1843)年、轟之瀬川浚えが完成し、水天神社が建立された。石燈籠も建立されており同時期だったのでしょう
作也名の仏像の石像、木像は、樋脇、東郷、川内など川内川流域にあることが分かっています。一族の作也をはじめ、可仙、作兵衛の作品を紹介したい
↑湯田八幡神社の龍吐石像
【さつま町紫尾 紫尾神社の龍吐石像】
紫尾神社は、寺社巡詣録(文久3<1863>年)では、善記元年(522)創建となっている。建武元年(1334)に建てた石像もある。龍吐石像の銘は埋め込まれて読み取れないが、湯田八幡神社と同様、石像に精密な制作状況から大磯作兵衛の作とみられている
祁答院:藺牟田 法連寺跡の不動明王木像/黒木:黒木村役場跡 金剛明王石像 地蔵菩薩石像
薩摩川内市にも数多くのこされている。私見ながら、秀吉の九州制圧の後、宮之城島津家が水引の大島地区に宮之城の郷士を派遣定住させ、交易と情報収集にあたらせ交流があった関係ではなかろうか? ・仁王像一対 ・阿弥陀如来石像
他の作品としては、
・中村町飯母天福寺跡 東西脇士像 こんがら童子等/・中福良 金剛院遺跡
尾白江町:馬頭観音石像/青山町:金剛力士石像/五代町:観音菩薩石像/陽成町 龍柱 紫尾神社の石像
この他、宮内町新田神社、樋脇、東郷にも残されている
轟之瀬公園に与謝野晶子・寛の歌碑があります。轟之瀬右岸水天神社の先に切通・切轟(きいと)と言われる急流のすぐ上、桜の下にサツキに囲まれています。轟之瀬の奇巌急流をバックに重厚な自然石に晶子・寛の短歌二首が刻まれています
昭和4年7月29日夫妻が川内の文士・山本実彦に案内されて来町し船下りを楽しみました。宮之城のほか、霧島や川内で数多くの歌を作り、宮之城では21首読みました。轟之瀬の詠草8首、広瀬で3首と寛の2首は次の通りです(〇印は記念碑に刻んである歌)
・とどろの瀬水は若さにをどりつつ時の上をば傳はずて飛ぶ
〇轟きの瀬は川の火ぞ少年はつぶてとなりて焔に遊ぶ
・とどろの瀬くぐり出で来る船待ちぬわれは危き橋踏みながら
・船一つとどろの瀬をば流れ出づいのちを賭けて恋する如く
・昨日「をば忘れはつべきここちして乗らでやみたる轟きの船
・荒磯の波のうなりを山川のとどろきの瀬は立つるものかな
・幾筋の川龍となり集りて轟きの瀬にしら雲うなる
・とどろきの瀬さて一方は千人のたむろもすべき真白き川原
〇船速く波のすだれの上行きぬ川内川の廣瀬のゆふべ
・橋のもと廣瀬の水を行き歩りく川狩人は眼鏡を持ちて
・二ひろの船して橋の下くぐり別れこしかな山の都
・夕べとて四川省をば出づるごと川内川の船も悲しき (写真は後日、歌碑を掲載します)
・さかしまに落ちつと見ればほがらかに轟の早瀬わが船すべる 歌集『霧島のうた』には轟之瀬を船で下る
・山すこし遠のくごとく夕空を木立と橋の上に置くかな ところが写っている
新潟県中越地震で長岡市や小千谷市、山古志村の状況が新聞テレビ等で報道され、自然の恐ろしさを新ためて認識しました。この長岡市、新潟とは宮之城町(さつま町)と3つの縁(えにし)の深い所です
【下平川の湯崎十助】
戊辰戦争(1868)に宮之城記からも多くの人が参加しました。湯崎十助は長岡市で戦死し、長岡市に埋葬されたと言います。南日本新聞によると、「激戦80日、長岡は壊滅したが薩摩藩も168人の戦没者を出した。…戦没者一人ひとりの立派な墓が整然と並べられ墓地公園として大切に守られている」とあり、町民として嬉しいことです
【盈進小学校・本冨安四郎】
それから21年後の明治22年、長岡市の本富安四郎が盈進小学校に赴任してきます。戊辰戦争では薩摩藩から痛み付けられたところにやって来たのです。盈進校160余年の歴史の中で特筆すべき事です。後に代議士となった宇都宮平一の招きでしたが、長岡であの有名な米百俵の母校で学び薩摩の教育に興味を持ってかもしれません。(管理者注:尚古集成館学芸員の話によると、安四郎は別の書物で薩摩藩の政官界、軍部に輩出した人材から若者の教育に興味を抱いたことが動機と述懐している)。双方に動機による赴任を思われる(図は本富安四郎が著した『薩摩見聞録』)
柊野小学校で教育講演し、父兄が感激し児童数が増え教員も増員したという。同校に珍しい記録が残されている。殊に注目したいのは、当時の薩摩、つまり宮之城の「夜学校、青年会、家庭教育に秀づるところあり」と紹介していることである。
【内藤智道巡査】
彼は西南戦争直後、宮之城に派遣されていた。同巡査は、伝染病のコレラ対策に尽力し自ら罹り殉職しています。東谷墓地に墓があり、警察署には慰霊碑があり命日には慰霊祭が行われています
【米百俵の故事】
戊辰戦争で長岡藩は徹底的に戦い大きな傷を残した。その窮状を知った分家の小藩、三根山藩は明治3年、米百俵を見舞いに送りました。食べるに事欠く藩士達は大喜びした。ところが、藩の大参事小林虎三郎は、「焼け野原になった長岡で国が興るも滅びるも、町が栄えるも滅びるも悉く人にある。食えないからこそ学校を建て人物を養成するのだ」と決断した。
学校には、藩士の子弟ばかりでなく町民や農民の子も入学させ才能を伸ばし、情操を高める教育を行った。そして、小野塚東大総長、小金井解剖学博士、小原司法大臣、山本五十六元帥など多くの人材を輩出した
三浦氏は別稿で、「薩摩の文化は西南戦争より僅か16年の成長に過ぎず『薩摩の維新は明治10年の戦争なりき』」とも言っていると記しています